(七)ばかなこと
糸をたぐり寄せて引いたような黒いにじみを、黒影はしばしば見つめていた。暖炉の灯りのなかで、すこしばかりざらついた紙面から浮かびあがるように、文字が押しよせてくる。膨大な文字列はどれも、たしかな意味をもっているらしいが、認識できるものといえば、あまりにもわずかな言葉の端切れだけだ。そのせいで、群れにある個々の言葉はどれも、独りよがりにばらついてしまうように思えた。
たとえるなら――、
ある音がブツブツと奇妙に響いて、ふと耳をかたむけてみる。それらはとぎれとぎれで汚く、およそ意味がわからない。耳をつんざく女の悲鳴のようでもあれば、男の怒声のようでもある。あるいは、そんな想像もつかないほどの、短く連続する騒音。
よくよく耳をすませてみると、しばらく経ってからようやく、それらが一連の意味を持ち、旋律を奏でているのだとわかる。
本来ならば、それらは流麗なつながりをもっているはずで、考えるよりも先に、聞き心地がよく美しいことを無意識に理解し、そのまま豊かな音色の世界へ誘われる。しかし、旋律がブツブツと単調に途切れ、欠けた音を追うことに必死になってしまっては、およそ本来の美しさを感じるよりも先に、その美しいであろう理想形を補完することに注力してしまい、濁り疲れてしまう。――そういったぐあいだ。
黒影は前髪をはらって、細く息をこぼした。手もとの本を閉じ、木組みの柱に背をあずけながら、天幕のゆらぎを仰ぐ。夜闇と暖炉のあかりがせめぐようにして、ゆら、ゆらり。まぶたをとじると、今しがた眺めていた異郷の文字が放流された稚魚のように、朱殷の海へひと息に流れでた。――疲れた。
ややあって、黒影は背負い袋へ本をしまった。
マヌーゲルでこの本を購入してどれほど過ぎたかなどいちいち数えてはいないが、ようやく最後の頁まで目を通した。言葉のとおり、ひととおり見ただけであって、この本が包括している物語に触れられたかと問われれば、否。だが暇つぶしにはなるもので、時間はすでに深夜をまわっている。
暖炉の熱っぽい空気と背に触れる夜の気配が、この身体を半分に分けようとしている気がして、どことなく気分が悪い。とりわけ、熱気が頬に触れるのが忌まわしかった。どこからともなく声が聞こえる。ソウのものでも、ナギのものでもない。
黒影はこの声を、嫌というほどに知っていた。
――妹よ。
記憶の奥底から這いでた兄。白けた唇がねっとりとひらき、吐息が蠢いた。
――お前を愛せるのは私以外いない。
にぶく不安定に揺れる、身体に染みついた音。
舌打ちを返す。
――くたばれ。夢にまで出てくるな。あなたはワタシを愛してなどいない。あなたが愛しているのはワタシなどではなく、
「黒影」
呼ばれて、ぱっと視界がひらける。一番にとびこんできた輝きは、温かな陽光に光をかえすような稲穂の色をしていた。それが、ソウの豊かな金色の髪だと気づくまでに、黒影は多少の時間を必要とした。
「あ、ごめん。寝てた?」
気遣わしげに小首をかしげるソウの澄んだ瞳を見つめかえして、舌打ち。兄と同じように、他人を個と認識していない部類の人間の顔を見て、すくなからず迎合してしまうなど。まるで皮肉ではないか。
――お前が他人を迎合することなど、許しはしない。
――お前の味方は私だけ。お前の家族は私だけ。そうだろう?
二度、兄の声が反響する。見れば、炎のゆらぎの向こうに、幼い自分が立っていた。幼い自分は、どこかもの言いたげに兄を見上げている。
――はい。
――ワタシには、お兄様だけが。
痩せこけたままの白い頬で、まるで蝋にかためられてしまったような口を、ちいさくちいさく動かして兄の言葉を反芻すると、兄は満足したらしかった。炎の揺らめきとともに、それらは消え失せる。
ただの幻覚と幻聴のくせに、ひどく忌まわしい。
「なんの用だ」
舌打ちをして、ようやく、ソウへ言葉を返す。
「ワタシは今すこぶる機嫌が悪い」
「めずらしいね。君がわざわざそんなことを言うなんて」
「首をトばされたいのか。用件だけ言え」
「わぁ、本当に機嫌が悪いんだ」
ソウは目を見ひらき、言葉だけでおどろきを示した。以前よりは気色悪さが減ったものの、やはり不愉快きわまりない。ややあって、彼はいつも通り、声色をやわらかく、そしてやさしく清涼としたものにさし変えた。
「ナギさんの姿が見えなくてさ」
彼は扉を見た。
深夜とはいえ、外はまだずいぶんとさわがしい。
「きっと、まだみんなとお酒飲んでるのかなって思うんだけど……」
そこまで言って、ソウはまたこちらに顔を向けた。
「ちょっと心配だから、ようすを見てこようと思って」
「……」
黒影は、すこしのあいだ、彼を見上げたまま、じぃ、とその蒼穹をのぞきこんだ。たおやかな眦でやさしさをふちどるだけの、冷めた色だ。いつもなら、とうぜん「かってにしろ」と早々につき返しているところだが、今日はそれをしなかった。このことを、おそらく、ソウも疑問に思ったのだろう。彼は首をかしげた。
「黒影?」
それにも答えずに、黒影は黙ったままでいた。
「大丈夫? 調子悪い?」
むろん、彼は心からこちらのことを心配しているわけではない。彼にとって、この会話はただの状態確認でしかない。ただ、語調やしぐさ表情が、それを悟らせないほど、精巧につくられ演出された優しさであり、あまりにも自然なものだから、多くの人間が騙されるだけだ。
兄の芝居がかった自己陶酔の優しさとは、また部類がちがう。
共通しているといえば、どちらも気色悪く、うすら寒いということか。
「もしかして、本当にぐあい悪い?」
心配そうに、ソウは眉じりをさげた。
よくしゃべる口だ。
よく変わる表情だ。
「それなら、横になったほうが――……」
嗚呼、うすら寒い。
黒影は抱えていた大太刀を置いた。
「ためしてみるか?」
そこでようやく、口をひらく。同時に、彼の整った襟首をつかんで、茣蓙の上に引き倒す。たわんだ床板が、ぎし、と不快な音を立てて鼓膜を叩いた。
「ッ!」
ソウは背中をぶつけたとき、ごくわずかに息を詰めたらしい。ちょうどひらいた口もとへ親指をねじ込むと、尖った八重歯に指の関節が擦れる。痛みが生じたが、かまわずそのまま頬の内側を押す。言葉にならない声をこぼしたソウは、一瞬、なにが起こったのかわからないとでもいうように目を見ひらいていたが、みずからの喉元がぐ、とえずいたことでようやく理解したようだ。青ざめた彼の肩は、どうしようもなくふるえている。
「大太刀なしでワタシがどれほど動けるか。キサマは気にしていただろう?」
咥内をぬらりと掻きまわしてやると、ソウは短く息を引いた。肉のつまったしなやかな身体がびくと跳ねあがる。どうやらいま、彼は自らの心的外傷と必死に戦っているらしかった。いくらかじたばたと動いた脚は、こちらの腹を蹴り飛ばそうとしたのだろうが、しかし、彼自身の強靭な理性によって、どうにかとどめられている。結果的に、むやみに脚が暴れただけであり、そのようすは実に滑稽に思えた。同時に、ひどく人間らしくもある。むろん、それを愛らしいとは毛ほども思わない。滑稽なものはただ滑稽であり、醜いものはただ醜い。気色の悪いものは、ただ気色悪いだけで、それが事実だ。
黒影は、そのあいだも彼の咥内を侵しつづけていた。舌を食むように、人差し指と中指ではさんでみたり、頬の内側から歯茎の表面をなぞり、さらに歯列の裏側に指をさしこんでみたりと、思うままに遊んでやる。硬口蓋のおうとつをくりくりとなでてやると、ひらいた彼の咽喉から、くずれた音がなさけなく漏れた。
端正なこの男の表情がゆがむたびに、このいらだちは徐々にようすを変え、熱をともした。この興奮は快感とはほど遠い。あえて言うのであれば、これは好奇心だ。この男が牙を剥くのはいつかと、表情ひとつ、一挙一動を注意深く細見する時間は、この指先をより深くへ誘う。清涼で理知的なこの男が、人間の言葉を話すこともままならず喘ぐ声をきくほどに、熱情が内側を満たしていくような心地だった――ようだった、というだけで、けっして、なにもかも満たされる、なんてことはないのだが――。なに、じつに、ばからしい話だ。
ただのやつあたりだ、とは自覚していた。それでもやめなかったのは、このキレイな男のきたならしい部分を、みじめに晒してやりたくなったからだ。
(高尚な人間の皮など、)
黒影は、くちもとをうすくひらいた。ソウの瞳が、こちらを注視する。強張った彼の身体がふるふるとなさけなくふるえた。
(うすら寒い)
歯をむきだしにして、彼の首筋へ。思いきり、歯を立てた。
「ん゙、ぐぅッ!」
鈍い呻きが、つむじのすぐそばでにじんだ。
奥まで。ぎりと、噛みつける。
瞬間。景色は反転した。衝撃とともに身体が床板に叩きつけられる。そのときにこちらを見降ろす蒼穹の瞳と目が合った。ぞく、と背筋に走る怖気。肌に触れているのはまちがいなく殺気だった。呼気を乱したソウは、この身体を組み敷きながら、尖った糸切り歯を剥きだしにしている。暖炉の灯りを背にした彼の表情はとうぜん影が忍んでいて見えにくい。だというのに、蒼穹の瞳だけがおびただしく光っているように見えた。濡れにじんだその目じりが、より鋭くなってこちらを睨み下げている。
「やめなさいよ。こういうことは、年頃の娘がやることじゃない」
「――所詮、このていどだ」
「え……」
彼は、意図を理解しかねたらしい。しかたなく、もう一度、おなじ調子で伝えてやることにする。
「このていどだ、と言っている」
言葉にあわせて、いくらか手をにぎったり閉じたりと動かしてみせる。そこで、やっとソウは理解したらしい。彼は黙ったまま、信じられないとでも言うようにこちらを見つめた。しばらくの沈黙をへて、ソウがこぼしたのは「嘘でしょ」の一言だけだった。
嘘を伝えたところで、なんの得になるというのだろう。けっきょくのところ、この痩せた骨ばかりの身体は、それだけのものでしかない。成人の、それも戦いの前線で鍛えられた男の腕に、ちからで勝ることはありえない。――抵抗すら、ままならないのだから。
黒影はこのことを、よくわかっていた。
「このような身体でも、体内の魔素をうまく利用することでどうにか動きはする。だがそれ以上のものはない」
「保有魔素がすくないって言ってたよね。――もし、一時的に枯渇したら?」
「ろくに動けんだろうな。あるいは死ぬか。そういうところだろう」
「ばかだよ。そんなこと」
ソウは頭を振った。黒影は嗤った。
「バカはキサマだ。ここでワタシをどうしようもないほどに潰しておけば、もしかすると改心して、キサマにとって従順なコマにでもなるやもしれんぞ? ランクSの魔狩だ。コマとして悪くないと思わんか」
「ふざけないで」
ソウはぴしゃりと言いはなった。
「暴力なんかで人の心は手に入らない」
「心だと? バカなことをいうものだ」
黒影は嘲笑った。
「チカラがなければ虐げられる。強くなければ生き残れない。生殺与奪はつねに強者の手に委ねられる。支配と従属はじつに理にかなった関係だ。心などという曖昧なきれいごとより、わかりやすいではないか」
それとも。黒影はさらに続けた。
「そんなくだらないものをキサマは欲していると?」
「そういう話じゃない」
「……ああ、そうか。キサマはそれほどに裏切りのない確かなものか欲しいのか。すまない理解がおよばなかった。であればワタシがまちがっていた。キサマはかしこい。心からなにもかも支配すれば、それ以上のものはないやもしれん。それゆえの絆であれば、なるほど納得もいくというものだ」
「なんの話をしているの」
ソウはうなだれた。
「俺は、君の言っていることが理解できないよ」
「キサマが弟を支配しているという話ではないか。簡単なことだ」
「そんなわけないだろ」
ソウは否定した。
「大切な人を大切にしたいって、それだけの話で。君のことだって、そりゃ打算的に考えている部分もあるよ。けど、それだけじゃなくて、ただ、仲間としてうまくやっていけたらって、ふつうならだれもが思うことで」
「――は、」
黒影は鼻で嗤った。
「ワタシを利用したいためだけに約束をとりかわしたのならば、すなおに言えばよかろう。ワタシも自らの欲のためだけにキサマを利用している。やっていることはさほど変わらん。それをふつうだのやれ常識だのと、馬鹿げた言葉でとりつくろうから気色悪いと言っている」
「どうして君はそんなことしか言えないの」
「ならどうしてキサマはそうとしか言えんのだ」
「黒影!」
そのとき。扉が大きくひらいて、「ナギです! 戻りましたぁ」と、あっけらかんとした声が響いた。
沈黙。
ナギはいくらか、ぱちくりとまばたきをして、こちらのようすを下から上までじっくりと見まわした。その状況といえば、外の喧騒から隔てられた移動式簡易住居のなかで、男女が二人。黒影にいたっては、いつも抱えている大太刀を手放したままソウに組み敷かれている。おたがいに髪は乱れていて、さもこれからそういうことに至らんとしている、ともとれる様相だった。
ナギはにんまりと笑った。いささか気色が悪い。
「んもぅ、そういう関係なら、もっとはやくに言ってくれればよかったのにぃ。とりあえず、ナギは今晩、もう帰りませんから、ごゆっくり!」
過去いちばんに軽やかな足取りで、くるりと踵を返したナギ。
「「ちがう!」」
ソウと黒影は間髪入れずに否定したが、扉は勢いよく閉められ、声は届かなかった。
「面倒なことに……」
ソウは頭を抱えた。
ようやく身体を起こした黒影は、それまでずっとおさえつけられていた手首をいくらか回しながら「やってみるか?」と冗談半分に端的に訊ねてみた。ソウはあぐらをかいて頬杖をつき、半眼のまま扉をみつめている。
「仮にだよ。仮に、俺が不能じゃなかったとして、君はそういう行為、できるの?」
「キサマに抱かれるのは想像つかんな」
「でしょうね」
ソウは乱雑に息をついた。
「ほら、やめようよもう。むだだよこんな話」
彼がひどく疲れたようすでうなだれたのを横目に、黒影は大太刀を抱えなおし、毛布にくるまった。誤解はソウがどうにかするだろう。そんなことを考えて、まぶたを閉じる。まどろみのなかで「この状況でふつうに仮眠をとりはじめるのも、どうかと思うんだけど」というソウの声が聴こえたが、それは無視することにした。
およそ、どうでもいい話だ。




