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(七)交合

 キン、と甲高い音が鳴った。

 押し倒されると同時。ソウの視界に、曇天よりずっと重く黒い髪が垂れこめる。それらはほんの一瞬のできごとだった。

 宙を舞ったナイフが、ザァザァとうるさい雨とともに地面へ突きたった。

 どうして。言いかけて、はっとする。まだ周辺をまきこむように雷が(とどろ)いている。

「ダメだ黒影! 君まで――」

「キサマのくだらん倫理観(かんがえ)など知らん!」

 枯れた指が首筋に触れた瞬間、舐めるように鳥肌が立ったソウは息を詰めて身を固くした。なにかが自分の内側に入りこもうとしているような奇妙な感覚が全身を走ったからだ。間髪入れず黒影の怒声が浴びせられる。

「息をしろ! 暴走を止められんだろうが!」

「そ、んなこと言ったって!」

「死にたいのか!」

「君をまきこみたくはないし、なんかこれ()だ!」

 チ、と舌打ちが響く。次にくるのは罵倒か、怒声か。それとも、死ねとでも言われるだろうか。そのどれでもかまわなかった。早々に身をひいてくれれば、捨て置いてくれればそれで――、

「もういい」

 薄いくちびるは一文字に結ばれ、黒影が動く。追うように、視線をずらす。雨水を含んだ漆黒の髪が、目もとをなでるように、地面を擦った。

 彼女の薄い胸元がソウの胸にぶつかって、重なる。

「黙って、」

 黒影の低い声が囁く。

 耳の奥に、触れる。

「ワタシのモノになれ」

「――ッ⁈」

 ぞくりと身体の奥底が波立った。不意をつかれた刹那、首筋に触れた彼女の温度が溶けて、身体の内側へ流れこんでくる。それらは波のように広がった。ソウの深いところを探るように絡まって、ていねいに繊細に、まるで壊れものでも扱うかのようにナカをなぞってゆく。

「っぅ、あ!」

 身ぶるい。咽喉(のど)の奥が鳴る。雷撃に身を焼かれるときのような痛みとはほど遠い、甘い痺れが身体を支配する。

(なにが、起こってるの……?!)

 呼吸を乱される。喘ぐように息を吸って、すこしでもその心地よさを遠ざけようと試みるも、しかし、指先から包まれるようにやさしく阻まれてしまう。

「ま、待って、黒影……」

「黙れ」

 彼女が耳元で乱暴にささやく。

「っく……ぅ」

 声をかみ殺して、こぶしをぐっと握りこむ。いままさに黒影が触れている。それがわかる。やわくにじむ温度が溶けあううちに、境界線が曖昧(あいまい)になるような気がした。

「やめて」

 ソウは必死にあらがった。

「いつもの意地悪な君でいてよ……」

 そうすれば、彼女はしょせん、命のやりとりに狂った異常者で、自分(ソウ)とはまるで(ことわり)のちがう者なのだと、簡単に線引きができる。

(そうじゃなきゃ、否定できない)

 もしもこのまま混ざってしまったら、黒影という人間がわからなくなる。自分(ソウ)という人間がわからなくなる。

 わからなくなったらどうすればいい。歩きかたがわからなくなる。

 役割を見失ったらどうすればいい。どうやって立ちあがればいいかわからなくなる。

 もし、足を止めてしまったら。

 もし、足が動かなくなってしまったら。

 そうして二度と立ちあがれなくなってしまったら。

 それがひどく、おそろしい。

「お願いだから、やさしく触らないで……」

 ふるえる声で、ソウは懇願(こんがん)した。

「やかましいワタシに合わせろ。ワタシだけ感じていろ」

「うあ゙っ……ぁ!」

 ソウは短く息を切った。

「っや、めて……」

 黒いまなざしが、じっとこちらを見つめている。

「俺を見ないで。頼むから、これ以上」

(……奥底に、触れないでくれ)

 黒影の気配が深いところをなぞるたびに、身体がゾクゾクとふるえ、それに耐えようと身を固くすると、すぐさま低い声が耳元でささやく。黙れ、拒むな、ちからを抜け、と。

 吐息が触れるほどに、思考がぐずぐずとほだされ、音をたてては乱される。なにも考えられなくなっていく。

 怖い。

 怖い。

(……怖い?)

 ソウは目を(みは)った。

 これは、感情だ。

「あ……」

 くちもとをふるわせて、(すが)るように黒いまなざしを見つめた。真っ黒な瞳にまたたく雷鳴の光とともに、感情に乱された自身の姿がに映りこんでいる。

「や、だ。嫌だ。やめて、俺は……!」

 気づいちゃだめだ、と心の中で必死に言い聞かせた、

 気づいたら。認識してしまったら。わかってしまったら。

 崩れてしまう。

「怖い、やめて。嫌なんだ。知りたくない。わかりたくない」

 ずっと見捨ててきた。

 いらないと割りきってきた。

 あたりまえに殺してきた。

 自分という存在の、感情(欲望)を。

「は、」

 黒影が小さく笑い「ああ」となにかに納得したような声をこぼす。にぃ、と細く口の両端をつりあげる彼女と視線がぶつかったときに、ぞくりとこの背筋をなぞったのは、はたして悪寒だろうか。

 ぎゅう、と耐えるように拳を握り、ソウは奥歯を噛んだ。

「安心しろ。もう終わる」

 なにが。問いかけようとした刹那、ほんの一瞬のゆるみとともに、黒影の熱がソウの理性を穿った。

「――――ッ!」

 明転。必死に押しこめていた身体の奥底がいっきにひらいて、激流のごとく血がめぐる。痛烈な甘い痺れがそこかしこに氾濫し、狂おしいほどに焼きつけては、幾度となく打ちつける。指先、耳の奥、身体の中、咽喉(のど)、ずっとずっと深いところからつま先まで、短い時間の中で激しく脈動した。

 息ができなかった。

 ひとりでに痙攣(けいれん)する身体を留めることもかなわず、やがて茫洋(ぼうよう)と浮きあがるような心地よさに(さいなま)まれる。チカチカと閃く視界の混乱が続く中、数瞬遅れてようやく咽喉がひらいたのを皮切りに、短く浅い呼吸をくりかえして喘ぐように息を吸った。

「っは、っは……っは、ぁ……ぁ」

 じんじんと、甘く、熱い。

 溶けてしまったのだろうか。

 わからない。

 熱をおびた身体が、ただふるえている。

 どうしてだろう。

 どうなって、しまったのだろう。

 茫漠とした思考を手繰(たぐ)りよせる。縋るようにすべらせた視界の中に、曇天よりもなお黒い色がそこに在った。光のない漆黒が、小さく息をついた。

「黒、影……」

 そこでようやく、ソウは焦点を合わせることができた。

(どうにかなるかと、思った……)

 大きな波が過ぎ、次第にゆるやかな心地よさにゆらぐ意識の中で安堵の息をこぼす。

 首筋から薄い手のひらをそっと離して、黒影はわずらわしそうに長い前髪をかきあげる。するりと引いてゆく熱を少しだけ惜しむように、ソウはその姿を仰ぎ見ていた。

 そのとき。

 ふいに、痩躯がぐらりと(かし)いで、胸元に倒れこんできた。

「黒影!」

「この、馬鹿が……」

 黒影がかすれた声で罵倒してきたものの、ちからが入らないのか、だらりとすべての体重があずけられている。濡羽色の髪が尾を引くように、重くしなだれていた。

「ごめん、大丈夫……?」

「……慣れんことをした。他人の魔素制御など、もうするものか。元よりワタシは魔素量が少ないから耐久性に重きを置いているんだ。それでいてキサマの暴走したバカでかい魔素を抑制しようなど、正気の沙汰(さた)ではない。自殺行為にひとしい。我ながら馬鹿(ばか)が過ぎる」

 ぼやくように文句をたれながす黒影の声に、いつものような覇気は感じられない。

「えっと、つまり、いろいろ無茶をしてくれて、いま動けないってことで合ってるのかな……?」

「動けるならワタシをはこべ。丁重に。変なところは触るな」

「触らないよ!」

 ソウはあわてて否定した。

 黒影の身体を抱いたまま上体を起こす。

「本当に、無茶させてごめん……」

 黒影は眉間にシワをよせる。

「キサマは自らをぞんざいにあつかいすぎる。生きていたと思ったら、性懲(しょうこ)りもなくまた傷を増やしおって、そのあげく命を捨てようなど……危なっかしくてたまらん。もうすこし……もうすこし、どうにかしろこのあんぽんたん……」

 言うなり、彼女は意識を手放したようだった。意識をうしなった分だけずしりと体重がかかるが、それでも彼女は、あまりにも軽い。

(こんな身体でよく……)

 ソウは、黒影の頬についた土をそっとぬぐった。

「ありがとう。助けてくれて」

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