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(四)動転

 朝を迎えて、ソウは動き始めた。

 川を見つけると、数日をかけて山をくだっていった。食料の確保を第一にして、無理はしないことを自分に徹底した。いつしかナギに教えてもらった瘴気症に効く薬草のたぐいを見つけては採取し、食事とともに()んだ。正直なところ、苦いばかりでなんら美味しいものではなかったが、瘴気症をわずらって白亜化したらどうにもしようがない。

 魔種の巣は迂回して、時に魔種の姿を見つけたら息をひそめ、そっと逃げた。手元にあるナイフ一本で魔種とやりあうなんて、無謀もいいところだ。

 道すがら生えている植物もほとんどが瘴素に汚染されていて食べられるものではなかったが、幸い川魚の多くは本来の色と形をしていた。それを捕まえ、焼いて食べた。だいたいは美味しかったものの、中にはあまりにも臭みがひどい魚もいた。しかし、それらは下処理のしかたでおおよそ食べられる味になるとわかったのは、ここ数日での朗報だろう。

 そして朗報は、もうひとつ。

「人の足跡だ」

 ソウはかけよって、その足跡を見つめた。

 数は二つ。人間の靴底で、片方はもうひとつの足跡よりひとまわりほど小さい。それら靴底の模様には見覚えがあった。歩幅の感覚や沈みぐあいを確認し――、

「黒影だ。黒影とナギさんが、この近くを通ったんだ」

 ソウはここ数日でいちばん明るい声をあげた。

 痕が残っているということは、この足跡は雨が降った一昨日より前のものではない。昨日か、あるいは今日か。ともかく、二人か――もし、そうでなくとも、人がここに訪れた。

 ソウはこのことを心から喜び、安堵した。まだ気を抜いていいところではないが、それでも、この事実は確かな活力を与えてくれる。捜してくれているのだと思った。

「よかった。早く合流して、それから――」

 不意に、足を留めた。

 その瞬間にナギの言葉を思いだしたのは、偶然ではないだろう。


――白の境界線は、ふつうより瘴素(しょうそ)濃度が高いので、魔種が多いのですよ。そして、瘴素の濃度が高いということは、つまり、


 自然と指先にちからが入る。固唾(かたず)を呑む。


――魔種の気配が瘴素にまぎれて、感知しにくい、ということです。


 ふりかえったそこには、魔獣。岩、あるいは土塊に擬態していたそれは、パラパラと土や葉を落としながらぐんと背を伸ばす。白濁した瞳で睨み下げる姿は熊そのものだが、そのありさまは巨大な白壁と言っても過言ではない。これほどの巨躯と圧倒的な存在感。……だというのに、

(気づけ、なかった……⁉)

 瞬間、白亜の熊が(いなな)き、とっさに耳を塞ぐ。身体をつきぬける咆哮が樹々を軋ませ大地を揺らがせると、それまで寝ていた白亜の背毛の一つ一つが眼前で針のようにブアと立ちあがるようすをまざまざと見せつけられた。しかもその体毛は、ただ皮膚から生えているものではない。外骨格だ。針の根元には輪状の(うろこ)が編まれていて、鋭い体毛と連結して柔軟に動く構造をしている。――熊というだけでもお目にかかりたくはなかったが、それが魔種となればその凶悪さは目を当てられたものではない。

「こんなときに……!」

 白亜の針熊は、地面を(えぐ)るかのように跳びあがったかと思うと、その巨体をゆうに丸くした。落石のごとく地面へぶつかる瞬間だけ鋭毛を寝かせ、反動で一度二度と跳ねあがると、その巨躯は針さながらの剛毛を無数に光らせ、大型魔導バイクばりの勢いで転がってきた。

「勘弁してよ!」

 ソウは身体を反転させ、逃げだした。

「アンタふつうに走ったって速いだろうが!」

 あんなの相手にしてられるか、とつい口からこぼれたものの、荒れた口調とは裏腹に、下り坂を横切っていく。斜面を利用した移動で、かつ、あの速度なら急な進路変更は難しいはずだ。予想通り、針熊は軌道を修正しようとほんの少しこちらへ寄ったが、間に合わずにソウの背後を轟と抜けていく。

(ここで距離をはなして、うまく巻ければ……)

 いっそそのまま岩にでも激突して()()()()()()()万々歳だが、おそらくあの外殻の硬さだと難しいだろう。下っていく白亜の塊をちらと横目に見る。

「嘘だろ?!」

 あろうことか、針熊はそのさきにある隆起を利用して身体を浮かせると、樹をめがけて跳び、身体をモモンガのように広げて姿勢を変えた。強靭な後ろ脚で幹をしならせ、ぐうと身体を()めてから、蹴った。ひどい音がして、幹は折れる。数える間もなく迫ってくる白亜を前に、ソウは茂みへ跳びこんだ。

(くそ、知能があるのか……っ!)

 内心で舌打ちをして、すぐさま駆けだす。とにかく、どうにか逃げてやり過ごさなければ。

 針熊は下りを選ばないソウを見るなり、こんどは四肢で走ることを選んだ。その爪は地面を抉り、じゃま小木はへし折り、あっという間に踏みこえる。あらゆるものをなぎ倒して、地面を揺らしながら執拗に追ってくる。白い針熊は、この周辺をよく心得ているらしかった。

 ソウはできるかぎりのことをして逃げようとした。それでも障害物は障害物の役割を果たさず、爪が背中をかすりそうになったことも何度かあった。そのたびに周りの木も岩も、また水辺も利用して距離をいくぶんか離した。いつしか、汗が首筋を流れた。

「ああくそ。本当にいつかこの仕事やめてやるからな!」

 叫んだ、そのとき。

 ガッと頭を叩く衝撃とともに、身体はたやすく斜面を転がった。なにが起こったかはわからない。いまの距離であれば、針熊は届くはずがなかった。考える間もなく枯れ木にぶつかり、衝撃が意識をぐらつかせる。

(まずい。いま倒れるのはまずい)

 必死に気をとどめる。つま先にちからを入れるが、身体は思うように動かず立ちあがれない。眩暈(めまい)がして、平衡感覚がつかめずにまた倒れこむ。横たわった視界に、魔獣の影はふたつ。

 はっとする。

(魔種たちの、狩りか!)

 ソウを襲ったのは、まだ幼い――とはいえ、ソウの身長よりもずっと大きい――子どもの針熊だ。

 魔種の多くは知恵もなく本能のまま餌を喰らう単体のバケモノではあるが、なかには知恵があり、動物と同じように生殖と繁栄を緻密(ちみつ)に織り成すものもいる。だがその例は極稀であり、長年魔狩として前線にいたものですら生涯、遭遇しないこともある。――あまりにも、運が悪い。

(知能がある時点で気づくべきだった)

 親が子へ、いとなみと生きるすべを教えるように。知能ある魔種もまた、狩りの方法を次世代へ授ける。その可能性についての考慮が欠けていた。その結果が、このザマだ。

「……笑っちゃうな。本当に」

 乾いた笑みをたずさえて、動かない身体を枯れ木にあずけるように起こした。後ろ頭をわずかにぶつけると、ざり、と不快な音が擦って、汗のにじむ首筋に土を落とす。ズキズキと痛みがにじむ足は、打ちつけられたひょうしにひねったらしい。

「つまり、俺はアンタらの餌で、練習台にされたわけだ」

 自嘲しながら、内心舌打ちを重ねていた。――まずった。油断した。

 太もものナイフに触れるが、これであの外殻を貫くことはまずできないと考えていい。構造的にやわらかい箇所を狙う手もあるが、この刃渡りでは致命傷にもならないだろう。魔種は、生命の常識を超越したバケモノなのだから。

 現状で勝てる見込みはない。

 かといって、この足では逃げ切れるとも思えない。

 情けから魔種が餌を逃がしてくれるなんてことも、ありえない。

 鈍重な足音が、白い落ち葉を踏み潰した。

 白が迫る。

 死が寄ってくる。

(でも、なんだか遠いできごとみたいだ)

 ははと笑う。

 こんな必死になって。何回も痛い思いをして、ボロボロになって。

「……なんで、がんばってるんだろう」

 自問。うつむくと、耳にかけていた髪がさらりとこぼれ、視界をわずかにさえぎった。――きっと、自分には守りたいものがあった。それは確かだ。父が亡くなり、母が殺されて、たった一人の大切な家族を守らなければならないと立ちつづけた。

 前に進むとき、いつだって思いだすのは、小さくて臆病な弟の姿だ。

「知ってる。依存しないと立てなかったのは俺のほうだ」

 立ちあがれなくなるのが、いつだって恐ろしい。

 目の前にやることがあると安心した。目の前のことをやっていれば、他になにも見なくてすんだ。がんばりすぎじゃないかと言われることもあったが、そんな言葉はいつも曖昧にかわしてきた。……止まってしまったら、どこにもいけないから。

 そんなふうにごまかして、見すごしているうちに。

 幼いころに抱いた夢を思いだせなくなった。

 いつしか、なにも感じなくなった。

 いつからか、なにもわからなくなった。

 悲しいも、嬉しいも。怖いも。ぽっかりと抜けおちてしまったようにどこかへ消えてしまって……そのうちに、他人からもらった言葉や気遣いでさえ重荷になり、しかし同時に、それによって元気になったという()()をするのが(うま)くなった。感情のないままその場にぴったりの表情を作るのが常になって、けれど、それは生活を重ねてゆくなかではとても都合がよかった。

 いちいち自分の機微(きび)や望みなんてものにふりまわされていたら、きっと、もっと疲れてしまっていただろうから。

 ふ、と頭上が暗くなったのは、目の前で針熊の前肢が振りあげられたからだ。爪が尖ってるなぁ、なんてバカみたいなことを考えた。おかしいくらいに冷静だった。衝撃とともに視界が明滅した。簡単に転がった自分の身体は、ズタズタになっていた。

(死ぬのか……)

 いつか死ぬだろう、なんて漠然と考えていた。

 そしてその時がくれば――、

(それはそれで、いっか)

 きっと、自分は受けいれてしまうんじゃないか、とも思っていた。

 小さく口をあけて、細い息をこぼす。

 だって、もう疲れたんだ。なにに疲れているのか、自分でもわからないくらいに。

 疲弊して。

 摩耗して、

 擦り切れて。

 ただ、(おもり)のような息苦しさと色()せた感情の名残だけが、いつも蝕むように存在している。

(ラクに、なれるのか)

 ()()()()

 口もとがゆるく、ほころんだ。

 ああ、そうだ。

 笑うって、こんなふうに口のはしが、やわらかくなるんだっけ。

(……ずっと、忘れてたな)

 ああ、でも。

 まぶたを、閉じる。

(死ぬなら、もういっか)



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