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(一)離別

 それは人々にとって恐怖の象徴であり、人間にあるべき尊厳を凌辱(りょうじょく)する、たいそう馬鹿げた病だ。ときに命を侵し、価値観を(おか)し、人を殺す。

 その色は、社会のなにもかもから嫌われている。

 白は死の色。

 魔につらなるモノの色。

 しかし、そう――これほどまでに、激しい色だったとは。


 一面の、白。

 強い風になびく髪が、どうにもわずらわしい。視界をさえぎったこの黒色を乱雑にはらって、黒影は一望できる眼下の白を睨みすえた。

 崖先からの眺望は、右から左まで、見わたすかぎりの白色が広がっている。目に痛いほど陽光を反射して輝く白の群れは、雪によるものではない。山も、森も、枝先も草花も、なにもかもが瘴素によっておかされている異色の白だ。

 足元の白を踏み潰す。

(ああ、つくづく瘴素が濃い)

 いらだたしい。視界は晴れ、さえわたっているというのに、感覚は鈍く、肌は(もや)におおわれ、重い気配がどんよりと漂い、まとわりついてくる。

「これが白の境界線……」

 固唾(かたず)を呑むように、ソウがひとりでに小さく声をこぼした。りん、と鈴の音がしたのは、彼が傷痕だらけの指先を、腰にぶら提げた猫の面に触れさせたからだ。

 折々、わずかに猫の面に触れるそのしぐさは彼のくせで、いままでにもたびたび見られた。

「本当に、ずっと向こうまで続いてるんだね」

 途方もない白色が、蒼穹の瞳に映る。りん、とまた鈴の音がする。白の眺望と、晴れわたる空の色を背景にたたずむ彼は、まるでそれらすべてを背負っているようにも思えた。

 それをさえぎったのは黒紫の紋様だ。ナギが左手で、白の境界線のなかに点在する、いくつかの集落のうちのひとつを指したからだ。

「あっちの方に、最初の補給地点があります。まずはあそこを目指しましょう」

 うなずいたソウに合わせて、りんと鈴の音が響く。と、気がついたように彼は言った。 

「ねぇ、ナギさん」

 ソウが視線を向けた先には、白い巨塔に相対するように枝葉を伸ばしている大きな樹木があった。それは空を渡る雲をつきぬけるほど大きく、そしてことさら白い。

「あれって、もしかして」

「ええ」

 ナギはうなずいた。

 「あれこそ、この現代で最初にしてゆいいつ、完全に〈白樹化(はくじゅか)〉してしまった〈神樹(かみき)〉です」

 大地に恵みをもたらす〈神樹〉。

 それが白くなり、一帯に瘴素をふりまく現象こそ〈白樹化〉だ。

「〈白の境界線〉は、白樹化が原因だともいわれています。いったいどうして白樹化が起こるようになったのか、そしてなぜ十年に一度だけ、霧晴という現象が起こるのかは、いまだに解明されていません。そもそも、人族は白樹化した周辺地域へ踏みいることができないので、とうぜんといえばそうなのですが」

 ナギは悩ましそうにうなずいたあと、相対する白い巨塔を示した。

「それから、天へ向かって屹立(きつりつ)しているあの遺跡がバリアブルです。ここからでもうっすら見えますね。ナギたちは行きませんが、あそこはかつて――……、」

 不意に言葉が途切れた。

 黒影は胡乱(うろん)げにナギの横顔を見やった。いつもなら、ここから長々と博識に語りはじめるのが定番だからだ。その横顔はほんのひと時のあいだ、息を忘れてしまったかのように固まっていた。

 どうした。問う前に、ナギのつま先がひとつ、茫漠と前へ出た。

「いま、なにか」

 漠然とした声色とともに、また一歩。

「ナギは、」

 翡翠色の瞳は大きく見ひらかれ、そしてふるえた。

「どこかでこの光景を……あそこは、魔導都市ヴァリア・ヴルは……」

「ナギさん危ないよ!」

 その腕をとったのは、ソウだ。

 それ以上進めば、この崖から落ちることは明白だ。そして、この高さ。眼下へ遠く広がるのは森の白だが、落ちれば助からないだろうことは誰しも理解できる。

 瞬間。

 金色の毛先がふわりと浮かんだように見えた。それは、彼らの足元が、崩落したからだ。二人の身体が、ガクンとずり落ちるように下がり、足が抜け落ちるその瞬間、ソウはナギと入れ替わるようにその腕をちからいっぱいに引いて、こちらへつきとばす。ナギが地面に転ぶのとほぼ同時に、黒影は手を伸ばした。

 ソウもまた、こちらに手を伸ばす――が、届かない。

 見開いた彼の蒼穹の瞳が、一瞬、森の白を映した。それからわずかな時間。ソウはこちらの瞳を見上げて、「ごめん、約束が」と口にした。最後まで声が届かなかったのは、彼の姿が見る間に遠くなって、眼下に呑まれるように消えてしまったからだ。

「ソウ……!」

 声をかき消すように上空を吹き抜ける風が、この重く黒い髪の先を(さら)う。くそ、と舌打ちをする。

 まにあわなかった。

 判断をしくじった。

 この大太刀をさしだしていれば――成人男性の体重を支えられたかどうかは別として――ソウの手に届いていたかもしれない。いまさら考えたところで、彼が崖下に落ちた事実は変えられないのだが。

「ナギ、下に降りるぞ」

 立ち上がって、大太刀を担ぎなおす。

「ナギ?」

 返答がないことに、黒影は眉根を寄せた。見れば、ナギはしりもちをついたまま、ひどく青ざめている。

「そ、ソウくんが……」

 歯の根がかみあわないのか、カチカチとしきりに奥歯をふるわせながら、ナギは這いずるように崖下をのぞきこんだ。その首根っこをつかんで引きもどし、てきとうなところに投げ置く。先ほどのようにまた足場が崩れてナギが落ちようものなら、目も当てられない。なんのためにソウが助けたのか、という馬鹿げた問答になってしまう。

「立て。迂回(うかい)する」

「あ、あの高さじゃ……無事では……」

「無事じゃなくてもだ!」

 ぐいとナギの襟首を引きよせていた。いらだちをぶつけると、ナギは怯えたようにビクリと肩を縮こめる。ひどく怯えたようすに、舌打ちを返して、黒影は乱暴にナギを手放した。

 (きび)を返す。ソウの背負い袋をひろう。

「き、危険です!」

 ナギが声をあげた。

「いくら瘴気が晴れているとはいえ、他の場所よりも瘴素濃度が高いことに変わりありません! 生身の身体では……。それに白の境界線は魔種の巣窟(そうくつ)です。いくら黒影さんが強くても……あまりにも、危険がすぎます!」

「なら一生そこでうずくまっていろ!」

「っ……!」

 ナギはびくりと身体をふるわせて、左腕を握りこむように情けなく視線をそらした。そのようすを一瞥(いちべつ)して、黒影は歩きはじめる。ナギに舌打ちをかえすことさえ、ばかばかしく、むだに思えた。

「ま、待ってください。なんで、どうして……」 

「ワタシはソウとの約束を果たしていない」

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