(三)ハラヤブレ
「疲れた……」
路地裏の階段へ、ようやく腰をおちつけたソウは、長い息を零しながらうなだれた。
あのあと、ソウは男とともに猫を追いかけた。直情的に追い回すのは彼に任せて、ソウは猫の先に回りこみ、また逃げられ――二人でああだこうだとさんざん追いかけまわしたあげく、最終的に少女がもっていた干し肉の欠片のおかげで、どうにか猫を捕まえることに成功したわけだが。
「――で、けっきょくおめぇは、エフを襲うとったわけじゃねぇんじゃな?」
いきなり殴りかかってきたこの粗暴な男――レウド、と名乗った彼は、水筒のふたをねじ開けると、豪快に傾ける。はっきりとした喉仏が上下して、水をいっきに飲みほしたらしかった。からっぽになった水筒を、顔の上で逆さにして、残りの一滴が落ちる。
ソウは疑念に満ちたレヴドの視線をてきとうに受け流しながら「そんな趣味はないよ」と、取りかえしたハンカチの汚れを軽くはらう。破れたりしているようすがないことに、ひとまずの安堵。あとで洗濯するだけで良さそうだ。
「俺はソウ。魔狩だけど、事情があっていまは冒険者をやってるんだ」
「ったく、このへんじゃ見かけん顔じゃけぇ闇商人じゃ思うたが」
レウドは水筒を腰へ引っさげると、ドカリと腰かけて頬杖をついた。くせのように、厚い指でざりざりと無精ひげをひっかいて、半眼で睨んでくる。
「にしても美男じゃな。死ね。信用できん」
「ハンカチも戻ってきたし、信用される必要もないけどさぁ」
直情的で攻撃的なもの言いの彼は、まるで身近にいる戦闘狂の誰かさんみたいだ。
しかし彼と黒影を比べると、どっしりと厚く雄々しいレヴドの戦い方は、たしかに誰かを守ろうとするものだった。鋭利で過激で、独りよがりな彼女の細い背中とは似ても似つかない。
ソウは訊ねる。
「闇商人って?」
すると、口を真一文字に引き結んだままのレヴドが無精ひげにおおわれた顎先でくいと示してみせた。
ここから一段ほど下がった路地の影に、小さい勝手口がひっそりと佇んでいる。そこには人の列ができていた。ならんでいる人間は老若男女と幅広いが、その誰もが痩せている。にもかかわらず、彼らの下腹はみな一様にぷっくりと張りだしていた。
「ありゃ、ハラヤブレの人間が医者んとこに並んどんじゃ。薬くれぇ言うてな」
「ハラヤブレ?」
「毎年こん時期に、はらわたぶちまけてぎょうさん死んどるんじゃ」
レウドは下まぶたにちからを入れるように目を細めた。列のなかにいる男は、いまにも張り裂けそうなほどパンパンにふくれている。服におさまらないほどの大きな腹の表面には、青赤色の線が走っていた。――まるで妊娠線のようだ。
体型の変化などで皮膚が急激に伸びると、皮下組織が断裂し、割れたような線ができることがある。母がライを身ごもっていたときに、ああいった肉割れがあったことを、ソウはよく覚えていた。
「ありゃ末期症状じゃけぇ、助からん。なさけで鎮痛剤じゃ」
レヴドは半眼のまま、息をついた。
「薬がもらえん奴らを、狙ぅとる輩がぎょうさんおるけぇの。子どもを売りゃ十分な薬が買えるだけの金をくれちゃるじゃあ……表沙汰にできんような仕事をこなしゃ正規の値段よか、うんと安い価格で、しかもまるっきり治っちまう薬をくれるじゃあ、そねぇな話じゃ」
「そんな薬があるの」
「ねぇ」
レヴドはきっぱりと否定した。灰色の混ざった硬い無精ひげをなぞり――、ふと思いだしたように、懐から干物をとりだす。
「カエルの干物じゃ。食うけ?」
「遠慮しておくよ。食べたばかりでね」
レヴドは、ふぅん、と興味がなさそうに視線を流すと、ためらいなくカエルの干物へかじりつく。
「うめぇのに……ああ、おめぇ魔狩じゃ言いよったな。お上品なわけじゃ」
ボリボリと音を立てながら、骨を砕いて、飲みこむ。残った半分の、後ろ足をつまんでぷらぷらと乱雑に揺らした。と、その瞬間、レウドの眼前を矢尻のように鋭く過ぎ去ったのは、一羽のカラスだった。カラスは、ここよりもうんと高い鉄柱の上に降り立つと、奪い取ったカエルの干物をパクリと飲みこんでしまった。
「……仲間がおるなら、一人歩きはやめぇや。下手すりゃおめぇも、エサじゃ」
「ありがとう。気をつけるよ」
笑みを返すと、レヴドはどこか釈然としないようすで「しまんねぇ坊ちゃんじゃな」とため息をついた。
強い風がひとつ吹きすさぶ。どこからか、生臭いにおいが流れてきた気がして、ソウはまばたきをした。たった一瞬のあいだに、カラスは飛び去ってしまったらしい。羽音だけがその存在を示して、消えていく。
ふと。小さい声が聴こえて、ソウはとなりの少女を見やった。
こんどははっきりと言った。
「……ママに会いたい」
「君は、お母さんとはぐれたの?」
「ママは白い塔にいる」
「白い塔って、魔導遺跡バリアブルのこと?」
ソウが訊ねると、レウドは「じゃろうな」とうなずいた。彼は街の景色よりもずっと遠くを眺めてから、ややあって、エフを見やった。包みこむような、うんと優しいまなざし。温かいその表情は、まるで愛娘を見守る父親そのものだ。
「エフは一月前に拾ぅたんじゃ。記憶がねぇんか、教えてもろぅとらんのか……そねぇ物事を知らん」
「この子のお母さんは、冒険者だったの?」
ソウの問いに、レウドはわからねぇと首を振った。
「ありえん話じゃねぇ。バリアブルにゃ、冒険者がぎょうさん、一攫千金めざして踏みこむんじゃ。いうて、半分以上は帰らん。帰ってきよるやつらは、瘴気症で断念したか、ろくに先に進める手がかりを見つけられんかった、ある意味運の良い奴らじゃろぅて」
白い塔を見つめるように空を仰いだあと、レウドは肩の力を抜いて、エフの小さな頭をぐりぐりとなでた。
エフは身振り手振りがうんと少なく、表情の変化に乏しい少女のようだった。ぼんやりと頭を撫でられているその表情が、はたして嬉しいのか、それとも特になにも考えていないのか、ソウにはわからなかったが、すくなくともレヴドのことを嫌っているようには見えなかった。
レヴドは歯を見せて笑った。
「母親に会いてぇ言いよんなら、会わせてやりてぇじゃろ? どねぇな形になるんか、わからんけど」
それに、と、彼は言葉を続ける。
「俺も、捜しとるヤツがおる。じゃけぇ、他人ごとたぁ思えん。もしかしたら、ソイツもバリアブルにいるかもしれんけぇな」
「……見つかると良いね」
「おめぇはどうなんじゃ?」
「俺?」ソウは首をかしげた。
「そんハンカチじゃが。猫をあねぇまでして追いかけて取り返すんなら、そんだけ大事なもんなんじゃろ?」
「これは……」
ソウはハンカチを見つめた。黄色のやわらかな糸を束ね、ひと針ずつていねいに刺されたギンヨウアカシアとヴィルガウリアの花の刺繍をそっとなでる。
――兄貴、これ。やるよ。
「五年くらい前にね、弟がくれたんだ」
「おとうと?」
エフは首をかたむけた。
「たった一人の大事な家族だよ。君がお母さんに会いたいっていうのと、同じだと思う」
ソウの言葉に対して、エフはわかったような、わからないような曖昧な表情で、うなずいた。
「さてと、俺はそろそろ戻らなきゃ。仲間をおいてきちゃったからね」
ソウはハンカチをしまうと、立ちあがって大きく伸びをした。あらためて、二人に向き直る。
「二人とも、まきこんでごめんね。手伝ってくれてありがとう」
「あー……んにゃ、」
ばつの悪い表情を浮かべて、視線をそらすレヴド。
「あねぇ殴りかかって悪かった。まぁ、その、なんじゃ」
それからふと、なにかを考えこむように、数秒。ややあって、輪郭のはっきりとした目が、もう一度こちらへ向いた。
「……ソウ、おめぇ。今は冒険者やっとるって言いよったな?」
「うん?」
「パラサイトモスの討伐に参加するんか?」
「そのつもり」ソウはうなずいた。
「じゃったら、パラサイトモスのケツ針に刺されんようにせられ。鱗粉の麻痺毒も即効性じゃ。下手すりゃ心臓止まっておっ死ぬけぇ」
「ありがとう」
笑みを返す。
「けど、どうして急に?」
ソウが首をかしげると、レヴドは担いだ長物の武器をわずかに揺らした。
「おめぇみてぇな美形は嫌ぇじゃあ。じゃけど、弟んことを、あねぇに優しい顔して話す男は、悪かねぇ」
「褒められてるのかな?」
くすくすと笑うと、レヴドは相反して、きっ、と目じりをつり上げた。眼前に指をつき出して大声をあげる。
「アァそねぇなところじゃクソが! やっぱ刺されておっ死ね!」
「そういうの、安易に言わないほうが良いと思うけどなぁ」
右から左に言葉を流す。しかしすぐに、ソウはふと思い至ったように微笑んだ。
「ほら、本当にそうなったら、寝覚め悪いでしょ? 君、口は悪いけど良い人そうだし」
「でぇれぇムカつくなおめぇはよ!」
「罵倒されるのも慣れたからね」
ソウはさらりと言葉を返した。
一瞬の間。
レヴドの心配そうな表情を受けて、ソウは「ああ、こっちの話。気にしないで」と軽く流した。
「……まぁ、こねぇなこと言うんもなんじゃが」
咳ばらいをして、レヴドが長物を担ぎなおす。
「大事なもんは、ちゃあんと、いろいろ大事にしぃや。そんだけじゃ」
「とうぜん」
ソウは笑みをかえした。




