(二)猫の道
故郷の空は、ずっと広くひらけていた。
密林の空は、鬱蒼としたすきまの中に点在していて、ひどく遠かった。
鉱山の空は、竪穴のように長く、狭量としていた。
ここの空は、複雑な形で切り取られて、縦横に両断されている。空もまた、ツギハギになってしまったような――、街の情景を見上げていたソウはふと、足を止めた。それは、ナギに呼び止められたからだ。
ふりかえると、亜麻色の髪がゆるやかに垂れて、ナギが腰を折るようにゆったりとかがんだところだった。下げた腕にそって流れた袖口が、彼の左手の黒紫の紋様を隠した。
ナギは落ちていた布きれを拾って手渡してくれた。それは、ソウが先ほど懐にしまったはずのハンカチだ。街の喧騒に気をとられて、きちんと奥までしまえていなかったらしい。
「どうぞ」
「ごめんナギさん。ありがとう」
ハンカチを受けとろうとしたとき。なにかが眼前をかろやかにかすめた。そのことを認識したときにはすでに、ソウの手元にはなにも残っていなかった。
「うそ」
驚愕とともに見回す。と、その先に音もなくいたのは、一匹の野良猫だった。その猫はハンカチを振りまわして遊んでいるようだったが、ソウの視線に気がつくと、すぐに手すりから軒先へ、とんと跳び上がった。そこから一段低い敷地の塀に下って、さらに路地へ。
「待って!」
「ソウくん⁉」
呼び止めるナギの声をすり抜けて、ソウは駆けだした。
「ごめん二人とも。とり返してくる! すぐもどるから」
猫から目を離さないまま、軽く手を振る。錬鉄製の手すりをひと息にとび越えて、路地に着地する。ぶちもようの毛並みを追って、石畳の角を曲がると、いくつも重なったような都市型集合住宅が隙間なく立ち並んでいるようなところだった。
猫は敷地を区切る石積みの塀へとび乗ると、細い足場も悠々自適に進んでゆく。
回りこむには時間がかかりすぎる。もし、ここで目を離して逃げられてしまったら、もうとり返せないかもしれない。
ソウは意を決した。
「……こういうの、お行儀悪いからしたくないんだけど」
足をかけて、さっと登る。足の横幅ほどしかない塀の上を歩くのはそれほど苦労しないが、油断すれば踏み外して落ちてしまいそうだ。
対して猫は、ひょいと軽やかに跳躍してみせた。出窓を飾る植栽用の網格子に乗って、さらに、吊り下げられた鉢をひとつ、ふたつ、みっつ。
ソウは、どこかのタイミングで猫がこちらにおりてくることを期待しながら、目を離さないように塀の上を進んでいった。路地に面した正面と違って、こうして誰にも見られない向かい合った建物の隙間では、せめぎ合うように配管がとりつけられているから、かわしながら進まなければいけない。
単調に並べられた室外機から排出される生活のにおいを、やや足早に通り抜ける。鈍い音を立てながら、生ぬるい息を吐きだすソレは、まるで呼吸でもしているかのようだ。
「わ」
足を踏み外しそうになって、ソウはその場であわてたように手を振った。密接した左右の壁が支えになってくれたおかげで、さいわい、落ちることはなかったが。
「危ない危ない」
言葉だけを口から流して、さらに猫の足どりを追う。
猫は街のあらゆるところを道にした。補修工事用の仮設足場を通り、軽い身体を自慢するように配管をねじり歩き、立派な屋敷の正面玄関にかけられた天涯で遊ぶように跳ねまわり、かと思えば入り組んだ排気管の隙間もなんのその。狭いところも液体のように通り抜け、街路樹の上で大きくあくびをして見せた。
だがしかし、それだけ遊び歩いても、ソウのハンカチはいつまでたっても手放してくれない。いたく気に入ったらしく、たびたび三角耳の後ろ下を当てこすっては、振りまわして遊んだ。
「そろそろ返してくれないかな」
フェンスに囲まれた屋上で、ソウは猫へにじり寄った。もうずいぶんと歩いた――もとい、歩き、跳び、這いずり、走らされた。
「おかげで、こっちは泥だらけ。もどったらすぐに服を洗濯して、シャワー直行に予定変更。ほかにやりたいことだって、けっこう色々あったんだからな」
返してもらうよ。言うや否や、猫はソウの顔面をふみ台に、フェンスをのぼり、そこからとなりの屋上へとび移った。
「この……! いいかげんにしろよ!」
ソウはフェンスに足を掛けて、乱暴に登ると、そこから大きく跳んだ。
びゅう、と風が煽るように吹き抜ける。
向かいの屋上に転がりこんで、勢いをころさないまま整然と駆けだし、猫の足取りを追って、さらにとなりの建物のバルコニーへとび移る。外部階段を上り、踊り場の柵から跳躍して、大通りへ。道路を横切る。そのまま真っすぐ走りぬけて、ソウは片手間に落下防止用の手すりを越えた。そうして路地へとびこんだ、そのときだ。
着地を予想していた地点に、ふらりと少女が現れた。
(やば――、)
瞬間、ソウは視界へはいった魔鉱灯の支柱へとっさに手をかけ、それを軸に軌道をずらして跳んだ。向かいの壁を蹴って、どうにか少女にぶつからない位置へ。靴底を激しく擦るように着地する。
少女はこちらを凝視しながら、つぶらな瞳を、ぱちくりとまたたかせた。
「おどろかせてごめん! まさか人が出てくるなんて思わなくて」
ソウはひとこと謝って、またあたりを見回した。少女に気をとられて、すっかり猫を見失ってしまった。まだ近くにいるはずだ。今なら追いつける。
「猫を追いかけてたんだ。ねぇ、君。この辺りでハンカチをくわえた猫を……」
ソウの言葉を遮るように、少女の腕の中でにゃあと無垢な鳴き声が気ままにあがった。
少女は首をかしげた。
「ねこ?」
「それ!」
どこかぼんやりとした雰囲気の少女を目の前に、ソウは詰め寄った。
そのときだ。
「おんめぇ、エフになんしょんならぁ!」
芯のある怒声。同時に殺気。ふりむいたときは、眼前にかたい拳が迫っていた。
間一髪、とびこんできたそれを躱す。
「誤解だ!」
「嘘ばぁ言ってからに! いまエフを襲おうとしとったじゃろうが、こんの変態野郎!」
体勢を整える間もなく、すぐさま蹴りがとんでくる。かなり戦いなれている、というのは、この二撃をつなぐ一連の動作で明らかだった。それも、対人戦に。
ソウのすぐそばをかすめた蹴りは、その先で地面をダン、と強く踏んで、軸になる。その反対側で、浮いて、鋭い軌道で横なぎにとびこんできた蹴りこそ、この攻撃の本命だろう。
「ッ!」
ソウは腕でやわく受け流した。かすっただけで、肉がビリビリと痺れるような、鋭い蹴りだった。
(冗談じゃない)
もし直撃していたら――、眼前に迫る拳をはらって、ソウは一度距離をとった。実力は向こうが上。相手の間合いで戦えば確実に負ける。この組手の勝ち負けにこだわりはないが、話を聴いてもらうより先に、いっぽう的に殴られるのはごめんだ。
「俺は猫に用があっただけだ。襲おうとしてたわけじゃない!」
無精ひげの生えた硬いくちもとを真一文字に結んで、彼はカッと双眸を光らせた。
「じゃかあしい! 現行犯がごたごた言い訳しょんなや」
剛直な眼光をたずさえた壮齢の男は、勇猛果敢なライオンを思わせる輪郭のはっきりとした瞳をしていた。後頭部でざっくりとまとめられた髪には灰色が混ざり、ばらばらと伸び尖っていて荒々しい。冒険者、だろうか。背中には布で覆った長物を担いでいる。彼がまとっている外套や丈夫なブーツ、防具類……どれを見ても、色味の変化や細かい傷が、長い間使ってきたことをあらわしている。肌は日に焼けた濃い色。骨は太く頑丈で、筋肉は分厚く、一目で屈強と知れる様相をしている。
背丈こそ同じくらいだが、ソウの細い骨格と比べるのも馬鹿らしくなってくるほど、目の前の男は頑健で、厚く、また雄々しかった。
「おめぇみてぇな美形はなァ」
ぐ、と拳を握りこんで、彼は唸るように歯を剥きだしにした。
「性格最悪じゃって相場が決まっとんじゃあ! 塵んなって全世界に美形養分を等しく分け与えんかこんボケナス!」
石弓のごとき勢いで、男はぐんと近付いてきた。
「君の言い分が本当なら、最悪な性格も平等に分けることになるんじゃないかな!」
半身を返しながら拳を流し、足をはらう。態勢を崩した男は、手のひらを地面につき、身をひねって、跳ね上がった。同時に、地面を蹴り出した踵が、ソウの頬を掠める。
「認めよったな! ほれ見ぃやっぱりクズじゃ」
「ああもう、話が通じないな!」
彼が起き上がるまでのあいだに、ソウはふたたび距離をとった。男はついに、背中の長物に手をかける。ソウはその一挙一動を細見した。重心のかけかた、足運び。柄を握りこむちから具合、構えかた。
「おめぇをツブす」
気圧される。彼は強い――それこそ、黒影が喜びそうなほどに。
ソウは固唾を呑んだ。男が柄を握り、ブン、と大きく振りはらうと、長物の刃を包んでいた布がはらりとほどけて、少女の足元に落ちる。
長い柄の先に、大振りで肉厚の刃。半月型の刀身が、鋭く光る。彼の身長をゆうに超える重厚なそれは、半月斧と呼ばれる大型の鉾だ。
壮齢の男は、わずかに刃をかたむけた。ギラリ、と殺気が切っ先まで漲っている。
(まずいな。正面から戦ったらちから負けする。それに、あの反応速度……懐に入っても、勝てるかどうか……)
人間を相手に、魔導武具を抜くわけにはいかない。それが魔狩の規則だ。世界協定で武器を持つことを許されているからこそ、それは守らなければならない。
ソウは、男の後ろにぼんやりと立っている少女を一瞥した。用があるのは、あの少女の腕のなかにいる猫だけだ。このわずかな視線の変化を、彼はとらえたのだろう。咎めるように歯を軋ませて、殺気を暴発させると同時に突進してきた。
「滅びぃや!」
軌道のはっきりした直線。鋭利な切っ先は、ソウの胸元を狙って――、
(いや、わずかに下だ。彼は足を狙ってる!)
ソウは次手を脳裏に計算しながら、あえて間合いを詰めるように前へ駆けだした。
「!」
男は、これまで防戦に徹していたソウのこの行動を予想していなかったのだろう。
言わずもがな、このままの軌道で距離を詰めれば、半月斧の尖端は、ソウの胸を違わず貫く。
わずかにその切っ先がぶれる。
(やっぱり――、)
ソウは、石畳を蹴りこんで、宙空へ身をひるがえした。驚愕に見開かれた瞳孔の上。刹那に視線が交差する。男のひたいには、玉の汗。
(この人は、俺を殺すつもりじゃない)
通り抜けて、ソウは石畳に手をつき、そのまま少女の前にとびこんだ。
「おんめぇ!」
彼がふりかえったとき、ソウは少女の前にしゃがみこんで、表情をほろりとやわく溶かした。
「ね、ハンカチを、返してくれるかな」
りん、と愛らしい鈴の音が響いた。
少女のエメラルドグリーンの瞳の造形が、鮮やかにきらめく。
「お願い」
ソウの声に返事をするように、細腕のなかの黒猫がにゃあと鳴いた。そして身軽に跳び――、
「わ、」
「むぎっ」
ソウの顔面、そして、背後に迫っていた男の鬼のような形相と鼻柱を、気ままに踏んで、にゃあともうひと鳴き。ハンカチをくわえなおして、とび降りた。
「あんのクソ猫がァ!」
「逃げちゃう」
ソウはあわてて身を返すと、男の横を通り抜けた。
「もう、なんでもいいから、君もちょっと手伝って!」




