表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/106

(四)滔々

 色がわからない。白がまちがい。そうだ白はまちがっている。白だけが悪い。白が。白色が。白が、ぜんぶ悪い。わからない。色がわからない。どうして。なんで。ちがう。ずれている。なにが。ぜんぶ。どこからまちがった。なにがいけなかった。

 うわすべりしてゆく。

 たぶんこれは、感情だ。


「おい!」

 鼓膜を破りそうなほどの大声に、視界が明滅した。白に、黒に、湾曲して、ねじれて、また白くなって、ちかちか、ちかちかと、痛いぐらいに(またた)く。

「ぇ、あ……?」

「息をしろ馬鹿者!」

(息? 息って、どうするんだっけ)

 ききかえそうとしたが、うまく声にならなかった。代わりに、笛の音のようなか細い音が通り抜ける。けれどその音もよくわからない。音が遠い。自分だけ遠い世界に隔離されてしまったみたいに、なにもかもが、わからない。

(あれ、おかしい。うまく、いかない)

()()()()? ああ、うん。おかしい。おかしいのは俺だ。俺がおかしいから、おかしい)

 そのときだ。

 ぐいとちから強く引きよせられ、次いでなにかに包まれる。骨ばった肌がソウの頬に触れたとき、それがやわく脈動していることに気がついた。

 耳鳴りが淡く沈む。

 自分の不可解な呼吸音ばかりがやかましく打ちつけていた聴覚に、ゆるやかな呼吸の音が混ざり、そのうちに規則的な心音で満たされた。


 ……トン、トン、トン。


 背中に温かさが触れるごとに、ソウは身体の境界をとりもどしていく感覚を覚えた。荒波に呑まれるように湾曲していた視界もそのうちに凪いで、やがてほどけるように色がもどってくる。

(息が、できる……)

 ようやく自分の身体が現実におちついたころ。ふと、頭のてっぺんで、つむじを分けるように黒影の声が響いた。

「おちついたか」

「……ああ、うん、ごめん。いろいろ思いだしちゃって、混乱した」

 ソウは薄い肌に額をうずめるように、細く息をこぼした。なさけない。こんな醜態を、まだ成人して一年も経っていない子になだめられるなんて。

「俺さ、他人(ひと)の唇が苦手なんだ」

 息とともにぽつりと漏れた自分の言葉にはたと気づいて、ソウは口を閉ざした。

 しかし沈黙が長く続くほど、ふれあった肌の温度を生々しく感じてしまう。咽喉(のど)のずっと奥が軋んで、身体が硬く閉ざされていく。

 ふたたびふるえそうになった指先にするりと手を重ねてから、やわく身体を離したのは黒影だった。

「つまらん話をしてやる。子守歌、というには(いささ)か具合のよくない話だが」

 キサマの雑多な思考を休めるには十二分だろう、と黒影は言った。彼女はごろりとあおむけになって、暗い天井をつまらなさそうに見あげる。

「ワタシが六歳のころ、両親は流行り病で亡くなった。いまとなってはろくに両親の顔も思いだせん。もとよりそこまでかかわりなどなかったが……思いだせるとすれば、せいぜい乳母の顔くらいだ。

 ただ、可愛がられてはいたのだろうな。まるで着せ替え人形のようだ、といつも思っていた。都合が良ければ褒められる。愛とやらを体現した宝物、とでもいうようなこの命は、気持ちの悪いただの副産物だ」

 まるで他人事のように、黒影は滔々(とうとう)と話した。言葉ほどの侮蔑が含まれているようすはなく、とくべつに過去を()み嫌っているような素振(そぶ)りも見られない。

 おちついた静かな声色は、夜を満たす海の波間のようだ。女性にしては低く、よどみのある声。冷たいというほどではないが、温かいわけではない。鋭利ではない黒影の音は心地がいい。

「ワタシは両親が亡くなってから、遠くに住む兄にひきとられた。兄は蜘蛛(くも)の横糸のような銀色に光る髪をしていたから、うんと赤子のころに捨てられ、そのまま誰に名付けられることもなく育ったらしい。どのように生きてきたのかはワタシも知らん。兄はそういった(たぐい)のことを、わざわざ他人に語ってきかせるような人間ではなかったからだ。

 ただ、初めて兄の姿をみたとき、これが家族に捨てられ、周囲からうとまれ、愛に飢えた人間の末路かと、漠然(ばくぜん)とさとった。それほどに、兄は最初から壊れていた。兄は社会を憎み、周りの人間を矮小(わいしょう)なものと決めつけることで、自分を守っているようだった。

 さて、兄は初めてできた(ワタシ)をたいそう可愛がったが、どうにも()()()()()ことに満足しているらしかった。ワタシは兄を見つめていたが、兄は妹という概念に愛をそそいでいるだけだった。

 兄妹というにはいささかイビツな、家族ごっこのような関係だ。それでも、寄る()のないワタシには、ほかにこれほど都合のいい居場所などなかった。だから、酔狂(すいきょう)な兄妹ごっこにつきあってやろう、と思ったわけだ。

 それから、たいした希望も未来もない新しい生活が始まった。

 不気味な兄のいる研究室はいつも暗く湿気ていた。その空間で息をするほどに、肺にカビが生えるのではないかと、よく疑ったものだ。研究に没頭する兄はワタシに対してさほど興味もなければ、他にろくな遊び相手もいない。ひどく退屈ではあったが、しかし、ひとときの感情を満たしてくれるものは見つけた。兄の書庫だ。理解しがたいものばかりだったが、知恵がつくうちにそれらも理解できるようになり、楽しみのひとつになったわけだ」

 いつになく饒舌(じょうぜつ)な彼女は、終始おちついている。敵意もなければ、狂喜ににじむようすでもない。もしかすると、これが本来の黒影なのだろうか。ふたたび眠気が混ざってきたころあいに、ふとそんなことを考えるも、すぐに否定した。

 どれが本来、ということはない。敵を前にして過激に笑う彼女も、侮蔑をにじませる表情もまた、黒影だ。現に彼女は、ライのことを家畜呼ばわりし、嘲笑(あざわら)った。

 いまこうして静かに言葉を紡ぐ彼女のようすもまた、ひとつの側面であって、それだけを都合よく見ようものなら、あとで痛い目をみる。

「――ワタシは、名を呼ばれた覚えがない」

 おもむろに沈んだ声をきいて、ソウは目をみはった。

 言葉を紡いだ薄い唇が、長いまつげの先が、ほんのわずかだけ、寂しそうに見えたからだ。

 息をついて、黒影は一度まぶたを閉じた。

 それがただの思案なのか、もの思いに(ふけ)る表情なのか、それとも、もっと別の――たとえば、人間らしく感傷に浸るという――ものなのかは、知る(よし)もない。

 長いまつげの先が、しずかにあがった。ひらかれたまぶたの奥には、依然として変わらない黒色があるだけだ。

「……皮肉なことに、ほどなくしてワタシもまた流行り病に伏せた。()しくも両親の命を奪ったものと、同じ病だ」

「それってもしかして……」

「ああ、瘴気症だ。そのころようやく瘴気症に効果的な新薬が開発されたが、実用化にいたるまでにまだ半年ほど必要だったわけだ。瘴気症は早ければ発症して数時間もしないうちに白亜化が始まり、そのうちに死ぬ」

 そういう病だ、と黒影は嘆息した。

「ワタシは幾日も生死の境をさまよったが、さいわい白亜化にはいたらず、一命をとりとめた。研究のために医術を学んでいた兄の対処も功を(そう)したのだろうな」

「その身体は、瘴気症の後遺症?」

「それもあるだろうな。……医者の見立てでは、ワタシは二十歳まで生きられないらしい。むしろ、十五の成人をむかえられただけでも奇跡だと」

 黒影は肯定した。

「どうして、そんなことを話してくれるの」

「いまのキサマなら、いつものような気色の悪い、安い同情などしないだろう、と判断したまでだ。ただの気まぐれにすぎん」

「ひとつ訊いてもいいかな」

 なんだ、とわずらわしそうな声が返ってきた。

 その調子に安堵を覚えてしまうのは、きっと黒影がこちらになにも期待していないからなのだろう。

「戦いのなかで、君はとても楽しそうに見える。それはどうして?」

「……先ほど、生死の境を彷徨(さまよ)ったと言っただろう。朦朧(もうろう)として、延々と続くような苦痛にさいなまれるなかで、ワタシは初めて生きているのだと実感した。

 笑いかけられようとも、愛をそそがれようとも、すべてうわすべりして霧散(むさん)していくような(うつ)ろばかりの世界に色があると知った。ワタシは生きたいと強く願った。

 (せい)への渇望。死への恐怖。それらに付随(ふずい)する感情思考と感覚が、ワタシという存在を証明している。それを感じる瞬間だけ、ワタシはどこまでも満たされる」

「……わからないな」

「理解されようなど思わん。……どうせ短い命だ。湿気た世界でのうのうと死にながら生きるより、痛烈で何よりも鮮やかな本能のなかで死にたい。最後までワタシは生きていたい」

「こういうのは失礼かと思うんだけど、ちょっとだけうらやましいな」

 ソウはまどろみのなかで、ぽつりと言った。

「そんなふうに強く生きられる君が、ほんのすこしうらやましい」

 ほかに守るモノのない君が。

 自分でいられて、そうあるように進める君が。

 ぼんやりとした思考に溶けこむように、声だけが響いた。

「……ワタシはあさましい欲望を、底なしに喰らっているだけだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ