(二)山小屋にて
ちいさな山小屋は、冷たい夜のまどろみにひっそりと佇んでいた。
明かりはついていない。だれも使っていないのだろう。ひさしの影に、細いものから太いものまで、さまざまな薪が積まれている。
ソウは、周辺に魔種の気配がないかどうかをまず確認した。扉に耳をつけて、妙な物音がしないかもたしかめる。下草を踏み分けて、たてつけの悪いとびらを、ギ、ギィと開くと、それまで微動だにしていなかった暗闇のにおいが、ぼう、とおし出てきた。ほこりと土のにおいを、陽の光と木の壁でじっくりと蒸し、夜にはとんと冷やす。そんなことをなんどもくりかえしたせいで、人の気配をすっかり忘れてしまったような――そんな、空気だ。匂いは冷たい泥をたくわえた森の風にぶつかって、音もなくまざって、どこかへ消えていく。
いつのまにか、窓枠で切り分けられた月明かりが小屋にしのんでいた。
「さて、」
ソウはさっと室内を見まわした。小屋は、ごくちいさなものだ。大人二人がどうにか雑魚寝できるくらいの空間はあいていて、奥には鋼板製の薪ストーブがある。幸いなことに、ここを利用した誰かが置き忘れたのか、毛布が一枚と、古びた麻縄がある。
ソウはいそいで薪をとってきてから、入口で立ったままの黒影に髪の水をおとすように言った。黒影は不機嫌そうに口をへの字に曲げたまま、髪をぎゅうとしぼりはじめた。もちろん、返事はない。
なんにせよ、濡れたまま冷たい夜を過ごせば死んでしまう。いまは返事がどうこうよりも、身体の体温を上げ、それを保つことがなによりも重要だった。
冷えた身体がぶるりと震えるのを感じながら、ストーブの前にかがんだ。薪を置いて、まずはストーブの側面に手を伸ばす。手さぐりでダンパーをさがしあて、手前にひく。これで、煙突とのあいだにあるとびらが開いて、空気が通るようになる。自宅にある薪ストーブとは形がちがうものの、構造自体は変わらないはずだ。ドアハンドルをひいて、今度は火床をひらく。おもむろに、ソウは右の太腿の武器携帯用革鞘からナイフを抜いた。麻縄をすこしだけ切ってほぐし、それを火床に乗せる。ナイフをしまってから、外で拾ってきたばかりのヒノキの葉を乗せ、さらに細い薪を円錐状にならべた。
「なにをしている?」
「火起こしだよ。ヒノキって油分が多いからよく燃えるんだ。昔、父さんと焚火をしたときに、ヒノキの葉を投げこんだら、けっこう高く火柱が上がったのを覚えててさ。けっこうおもしろかったんだよね」
説明しながら、左足首に巻いているアンクレットへ手を伸ばす。
「油分で燃えているだけだから、火はすぐに小さくなっちゃうんだけど」
留め具を外し、平編みのアンクレットを持って、火口へ。そして硬い両端を軽く打ち合わせ、手早く着火する。燃え上がった灯りが暗がりを押しのけるように広がって、ちいさな小屋はたちまち炎の色を宿した。
「こっちは火打ちができるんだ。濡れても、こうやって水気を切ればすぐに使える……まぁ、まさか使う機会がくるなんて思ってなかったけど」
火の勢いが強いうちに、さきほどよりもすこし大きい薪を入れる。フロントドアをほんの数ミリ開けたままにしたのはストーブ内の火をはやく回すためだ。大きい薪はすぐ入れられるように、準備しておいて置く。
「キサマ、便利だな」
「そりゃどうも」
てきとうに返事をして、ソウは立ちあがった。ストーブの温度が上がるまでのあいだに、麻縄を室内に架け渡す。
猫面とベルトを外し、上着を脱いでから、サスペンダーと太腿の武器携帯用革鞘も順番に外し置き、衣服はさっと脱いでまとめ、玄関先でできるだけ水気を落とすようにぎゅうと絞った。かるく広げて、先ほど張った麻縄へ。干しながら、ソウは玄関口にいる黒影へ声をかけた。
「黒影も。濡れた服、干すからこっちにちょうだい」
ぱち、と焚き木が音を立てた。返事はない。
「風邪ひくよ?」
怪訝に思ってふりかえる。瞬間、べちん、という音とともに濡れた衣服が叩きつけられ、ソウの視界をおおった。
「わ、わ。なに?」
「こちらを向くなたわけ」
「見られたくないならふつうに言ってよ。乱暴だなぁ」
意外とそういったところは気にするらしい。同じ男ならそう気にしなくても……と思ったものの、自分の手のひらの雷撃傷がふと目に入って、すぐにその考えをあらめた。
(そういう話じゃ、ないよな)
これまでの旅で、黒影はソウやナギの前で肌をさらすことはなく、着替えるときはいつも、木陰か、別室に移動していた。あまり気にしたことはなかったが、その行動は、人前で肌を晒したくないことのあらわれだったのだろう。
自分の配慮のなさを痛感したソウは、ふり向かないままに一枚だけの毛布を投げ返した。
「見ないから、とりあえずそれかぶって、火の前で温まりなよ」
ソウは黒影とすれちがうように、入口へ向かった。
「あ、そろそろストーブの温度が百度になるから、蓋を閉めてくれる?」
返事はなかったものの、いくらか物音がしたから閉めてくれたのだろう。毛布にまるまっている黒影は、いつもより小さく見えるが、やはり不機嫌そうだ。
ソウは苦笑を浮かべた。一度外に出て、細身の黒いツナギを絞り、水気をきる。室内に入り扉を閉め、それから勢いよく広げて服のしわを伸ばし――おや。いま、なにかが落ちた。ハンカチだろうか。薄手の布をひろいあげて、
「黒影、これも干すの?」
と訊ねる。返事はない。機嫌が悪いといつもこうだ。さきほどのこちらの態度のせいで、へそを曲げてしまったのだろう。――やれやれ、こまったなぁ。ソウは息をついた。ひろった布は水で濡れていたが、さらさらとなめらかで、肌にしっとりとすいつくような触り心地だった。きっと、良い糸をつかっているのだろう。それをかるく広げ、麻縄へ。
掛けようとして、ソウは一度まばたきをした。
「……」
おもわず。
その布切れをそっと、ていねいにたたむ。
「……あのさ、黒影」
「なんだ」
「こういうのもいっしょくたにして男に投げつけるのは、どうかと思うんだけど」
ソウはため息をまじえながら、毛布にくるまっている黒影をうかがい見た。
「君、女性、なんだね……?」
***
「おどろいた。女性だって、はじめから言ってくれれば良かったのに」
いいながら、ソウは薪ストーブに大きい薪を追加した。フロントドアをきっちりと閉じる。
「ふん」
返答はあいかわらずこれだ。すくなくとも、照れているだとか、恥ずかしいだとか、そういったようすではなさそうだ。いままでの行動から察するに、言うのがめんどうだったか、あまり重要視していない事柄なのだろう。
ストーブの温度が二百度をまわったところで、ダンパーを閉めた。これで、しばらく薪がもつはずだ。室内はやはり肌寒かったものの、それでも、こうして暖をとれるだけでもずいぶんちがう。
ふと、黒影が鼻をならした。
「甘い香りがする」
どこかおちつかないようすで、訝しげに顔をしかめている。
「ああ、それね」
あくびをして、ソウは薪ストーブを示した。
「これだと思う」
長い前髪が揺れた。黒影がわずかに首をかしげたからだ。
「薪だよ。果樹園の林檎の樹を剪定したときのものを、乾燥させて、避難小屋に薪として置いていたんだと、思うよ。だから……」
言葉の最後まであくびをこらえきれなかった。さすがに体力の限界だ。ああ、だめだ。眠い。立ちあがった黒影の気配だけを感じながら、こっくり、こっくりと舟をこぐ。黒影は、狭い小屋のなかをひたひたと歩きまわっているらしい。匂いの原因を自分で確かめているのだろう。その姿勢には感心するが……眠くないのだろうか。
(まぁ、なんでもいいや)
もういろいろなことが、たいそうどうでも良くなってきていた。ひたすらに眠い。身体はどろりと重くて、まぶたを開けていられない。筋肉も骨も、水で伸ばした小麦粉みたいに、形も意味も成さずにふやけていくようだ。なにも考えられない。頭のなかは、砂糖水にでもなってしまったんだ。だから、とりあえず明日のことは明日考えよう。思考を放棄した頭はふらふらと揺れている気もしたけれど、それももう、わからなくなって――、
「おい」
「……なに?」
ソウはうつむいたまま訊きかえしたが、返答はすぐにかえってこなかった。頭が重い――、なにか、聴こえただろうか。返事をするのがどうにも面倒くさくて、なおざりに身体をゆらゆらと揺らしてみる。ああ、やっぱり気のせいだ。たぶん、気のせいだ。だってなにも聞こえない。そういうことにしよう。
「おい」
こんどははっきりと聞こえた。
おい、だけでは、なんのために声をかけてきたのかわからない。もうすこし、ていねいに説明することを覚えてくれたら、おたがいめんどうのない意志疎通がはかれるのに。
「うー……ん、と?」
ようやく、重いまぶたをこすって見上げると、黒い瞳がこちらを睨み下げたまま、じぃ、と黙している。
彼女はうすいくちびるを開いた。
「毛布に入らんのか、ときいている」
「……ききまちがい?」
すると、黒影の口端がいっきに引き下がった。残念なモノを見つめ、ひどく憐れむような形になって、長い長い溜息がこぼれる。
「ああ、えっと」
ソウはまぶたをこすって、どうにか眠気から意識を引きはがした。といっても、睡眠を求める身体は重怠く、思考はもやがかかっているかのように明瞭としない。
こういうときに、どう返答するのが正しいんだっけな、とのろまに考える。
「もしかして何回か俺に声かけてくれた?」
ばつの悪い顔をつくる。
「ごめん、うとうとしてて」ほほをかく。
つぎの言葉は――そうだ。お礼を言わなければいけない。
「助かるよ。けっこう寒くてさ……」
身体をひとつふるわせてみせる。
黒影の表情はやはり、あきれたようにこちらを見下げているだけだ。
「眠いから、横になってもいい?」
「とっとと寝ろ」
ソウが横になると、その上に毛布がかけられ、となりに黒影がしのびこんだ。
「妙なところに触れたら斬り落とすわかったな」
斬り落とす、という言いまわしにソウはやや寒気を覚えながら、言及はしまいとまぶたを閉じる。眠くてしかたないのだから、これ以上面倒は増やしたくない。
「触らないし襲わないよ」
ため息をまじえて、黒影に背を向けるよう寝返りをうった。
「どうせ不能だし」
「――は?」
しん、と静まった空間に、ぱち、と薪が小さく爆ぜる音がした。
「ああ、えっとね……」
まずった。ソウは頭をかかえこんだ。眠気にかまけて、うっかり口をすべらせてしまった。これは、失言だ。
「ごめん、女性にする話じゃなかった」
「なんの話だ」
「なんでもな……ってちょっと足冷た痛い蹴らないでわかったわかった話すからごめんって!」
そこまでいうと、黒影はようやく足をひっこめた。
乱暴だなぁ、とソウは愚痴をこぼしてあおむけになると、両手を組んで頭を乗せる。そうか、彼女はまだ十五歳だったな、と認識をあらためていると、目端の黒影が、あご先でこちらに説明の続きをうながした。
「性交のときに勃たないんだよ。だから、襲われる心配はしなくてもいいよってこと」
正確に言うなら、性交不能症。
これは、器質的不能または精神的不能が主な原因であり、ソウは後者だ。性行為に対する嫌悪感が強く根ざし、さらには、そのせいで他人との単純な接触――たとえば、あいさつていどにハグを交わしたりするなど――でさえ不快感を覚えるようになってしまった。
ごく短時間で、あらかじめ接触するとわかっていれば、不快感を覚えても顔色ひとつ変えずに対応することは可能だが、一定以上の接触は耐えきれず、また予想しない状態で接触が発生すると、とっさに防御行動をとってしまったり、その後吐きもどしてしまったりする。
いまでは性交が嫌悪・不快の象徴として座してしまったが、ソウ自身が性行為を厭わしく思っていても、自慰行為などは可能だった。この事実もまた、ソウにとっては解せないが、健常な男の身体である以上、生理的現象はどうにもならず、そして、精神的な反応も、同じくどうにもできないため、必要に応じて、仕方なく、しぶしぶ自慰行為をしては、しばしばあたりまえに吐きもどしている。
ソウにとっての自慰行為は、たいてい吐き戻すまでがセットで、改善される見込みもない。むしろ年々ひどくなり、それがやがて十数年も続けば、もはやうんざりを通りこし、面倒な作業へと成り下がってしまった。
最近では、誰かと家庭を築く予定もないのだから、こんなものはいらないのではないか、とまで思うまでにいたった。
機能的には健常だが、しかしそこに他人が関わると、途端にダメになる。それが、ソウの抱えている性交不能症――とりわけ、勃起不全だ。
もっとも、黒影に伝えた「不能」という言葉単体には、勃起不全という意味は含まれていないのだが、それをわざわざ説明するのも憚られた。
多少乱雑な説明をして、ソウは息をつく。
「言っただろ。触るのも、触られるのも苦手なんだ、って」
胡乱げな視線が、こちらをじっと見つめているように感じる。ややあって視線が外れたらしい。しかしすぐに、「まるで皮肉だな」と小さな舌打ちが響いた。
「こんな身体だ。ワタシを襲うヤツがいるとは思えん」
「意外だな。君も自分のこと『こんな』なんて言うんだね」
ソウはまばたきをして、黒影を横目に見た。
「一般的な話をしている。とくべつ気にしているわけではない」
毛布が床にこすれる音が響いて、ソウの肩口でわずかに揺れた。となりでいくらか黒影の気配が動いて、やがておたがいに背を向け合うような形でおちつくと、そのうちにしんと静まりかえる。一人用の毛布だからすこし大きさがたりないが、肉の足りない黒影が暖をとれるなら、まぁいいだろう。
一枚の毛布の中で、おもむろに背中が触れあう。黒影が身じろぎをしたからだ。水に濡れていたせいか、黒影の身体は思ったよりも冷たい。女性のものとはおよそ思えないような、骨ばった硬い肌が、ほんのすこしだけまたこすれた。
ふと、低い声が背中ごしに響いた。
「おい、ワタシを抱け」
「は?」思わず訊きかえす。
「寒いだろうが」
「……びっくりした。そういう言いまわしはやめてよ」
「なんでもいい早くしろ寒い」
「わがままだなぁ……あのさ、さっきの話を聞いてて、それを言うの?」
「二度言わせるな。寒いだろうが」
よくよく見ると、黒影の肩は小刻みにふるえていて、どうにも寒くてしかたないらしい。脂肪もなければ、筋肉も少ない痩せた身体だ。
ソウはこまったように後ろ頭をかいた。すこし頭を悩ませ、それからようやく、
「後ろからでもいい?」
と提案する。
「好きにしろ」
「あるていど温まったらはなれるからね。それ以上は俺が耐えられない」
「好きにしろと言っている」
黒影は、もう一度言った。
身体を向けて、ソウは腕を伸ばした。彼女はわずかに頭を浮かせた。その隙間に腕をさしこんで、そっと、痩せっぽちの身体を包む。
細い。あまりにも、細い。
彼女は想像していたよりもずっと細く、このままかるく抱きしめただけでも、肉の削げた体躯を壊してしまうんじゃないだろうかと杞憂してしまう。
黒影が頭をおろして、まだ少し湿っている髪のはえぎわがソウの腕に触れる。炎の灯りが、濡れ羽色の髪のなかでしっとりと揺らめいた。
(人間の頭は重いっていうけど、想像していたよりも軽いな)
「顔の向きをすこし変えろ。後ろ首に息がかかる」
「はいはい」
細かい注文を受けて、ソウは頭をずらした。そして苦笑する。
状況としてしかたないとはいえ、この関係に抱擁などという、どこか温かい言葉はにあわないな、とそんなことを漠然と考えたからだ。親子でも兄妹でもなければ、恋人でもない。仲間、というにも、折り合いが悪く、どう表せば正解なのか、すこし考えても、ぱっと思いつく言葉はなかった。
(こういうの、本当に久しぶりだな)
やわく脈動する肌の境界線は、温度が溶けあって、しだいに曖昧になっていく。
(眠くて助かった)
もし、思考が明瞭としていたら、いまごろ、生々しい肌の感触に不快さと気持ち悪さを感じて、耐えきれず吐き戻してしまっていただろう。
重いまぶたを閉じる。ゆらゆらと揺れる灯りも、だんだんぼんやりと、遠く、わからなくなっていく。
誰かとあたりまえに、そしてふつうに肌を合わせたのはもう十五年以上も昔の話で、魔狩になる前に勉強を教えてくれていた先輩と触れあったのが、最初で最後だった。
先輩は女性らしい体つきをしていた。どこに触れてもやわらかくハリがあって、瑞々しく、温かかった。そして、おそろしいほどに熱かった。脈動に呑まれる恐ろしささえ、艶めいた声で包んで溶かしてゆくような……そんな女性だった。
「――……」
眠気にさしこんだ甘い記憶に、ソウは愕然と目を見ひらいた。次いでひとりでに身体がふるえはじめ、指先から痺れ冷えきってゆく。だくだくと冷や汗が背中をなで、呼吸が浅くなり、身体の所在がわからなくなる。自分の身体はここにあるはずで、だというのに、ぐねぐねとこねられもみくちゃにされているような気がした。
――おかしい、あなたおかしいよ。
最後、別れぎわに先輩はそう言った。
それは軽蔑だった。
それは嫌悪だった。




