(一)死んで、くれるなよ
ソイツは心底気色の悪いヤツだった。
いや、言いかたを変えよう。
心底気色悪いヤツだ。
ソウという男は、およそ誰もが端麗と賛美し、およそ誰もが善良と感じ、およそ誰もが優秀で堅実だと評価するだろう。
ごく自然に笑い、ごく自然に驚愕し、ときに隙をみせ、とうぜんのように悲しみ、怒ってみせる。そしてあたりまえに憂い、あたりまえに優しくする。
それはまるで、普通ならそうするからそうしている、とでもいうように。
戦場にあってもなお澄んだ蒼穹の瞳に、特定の誰かが映っていることは一度もなかった。ソウという男は、人間を人間として見ていない部類の人間だ。おそらく、自分のことすらも。それは、傷だらけの手のひらを見れば明白で、彼は徹底的に駒であろうとしている――が、ただ目的もなく動いている、というわけではないらしい。
そのどこまでもイカれた行動が、彼自身の本来の目的のためだとすれば。条件次第で、ワタシはヤツと殺しあいができる。
強ければいい。
ワタシに、渇望するほどの生を叩きつけてくるヤツであれば、どのような者でもかまうものか。
湿気た生などいらない。ワタシの飢えた欲望を満たしてくれるモノなら、それがなんであろうと、かまわない。
――約束だ。
それはおそらく、生まれて初めて自分から他人と交わした約束だった。
***
背中を打ったのは、おそらく瓦礫かなにかだろう。濁流の中でもみくちゃに振られて、上も下もわからなくなり、息がつまり、身体の感覚が消え失せる。
吐く息もなくなった。死が迫る。意識が混濁する。
途切れ途切れになって、そのうちに細く、消えて――。
手放しそうになって、しかしすぐに、腕のなかのソウをまた強く抱く。
まだだ、まだ死ねない。
生き足掻く。
死ぬことは、ひどく恐ろしい。
――……。
いつも、深く眠らないのは、寝ることが嫌いだったからだ。ひとたび、あの安息としたまどろみに身体を横たえてしまえば、自分が自分でなくなってしまうようなあの感覚が必ず訪れる。
まるで、燭台に灯る炎の揺らぎのように、ふ、と思考が消えてしまう。
自分がなくなってしまうのではないか。
もうこれきり戻ってこないのではないか。
なにもわからないうちに、いつのまにか、死んでしまうような気がして、そのことが、ひどく恐ろしい。
だから、眠ることが嫌いだ。
――……。
ざぷ、と重い音がうちよせた。身体は鉛のように重い。まるで動かない。自由が利かない。寒い。もしかすると、このまま動けずに凍えて死んでしまうのではないだろうか。
動けずに、死んで――、
「!」
目を見ひらくく。
(呼吸が)
とっさに身体を返す。濡れた地面に這いずり、咳きこむように泥臭い水を吐きだした。生き縋るように指先で地面を掻く。何回も吐きだしては喘ぐように息を吸う。うまく呼吸ができずにまた咳きこんで、こびりついたような泥のにおいをしきりに吐き出す。
「ぐっ……げほっ…ぇ、」
ひたいを地面にあてこすりながら、肩を大きく上下させてどうにか息をする。また激しくむせては、喘ぐように息を吸って……そんなことを、肺が痛むほど執拗にくりかえした。
(くそ、状況がわからん)
混乱する思考と状況をかき集めて、つなぎ合わせる。
(どこだ。だいぶ流されたか? 気を失っていたのはどれくらいだ)
暗い。暗くてよく見えない。まだ夜だ。風に揺れる梢の音が幾層にも揺れて聴こえてくる。ここは森だろうか。土のにおいもするが、錆びた鉄のにおいも、すえたようなにおいもまざっていて、ひどく嫌なかんじがする。
濡れて重くまとわりつく髪も服も不快だ。
身体が重い。動きが鈍い。冷たい。寒い。
大太刀を背負ったまま、冷たい岸辺で、這いずるように手を伸ばした。そのとき、ぐに、と爛れたような弾力のある、なにかやわらかなモノをつかむ。これはなんだ。泥でもない。岩石のように硬くもない。だが、ひどく冷たい。
既視感。
「!」
死肉だ。それは死んだ人間の上腕だった。あたりを見まわすと、同じようにいくつも死体がモノのようにうちあがっていて、瓦礫と同じように折り重なっている。人のカタチをとどめているものもあるが、身体の一部、あるいは半分以上が潰れているものもあった。おかしくねじれ折れているものも、瓦礫に食い破られているありさまの死体も、あたりまえに転がっている。
子ども、大人、老人。女。男。いずれも、人間としての尊厳が護られることはなく、有り体に、ただ転がって、無為に死んでいる。
ただの、死体として。
そしてその中に――、
「ソウ!」
その中に、ちからなくだらりと腕を下げて倒れているソウの姿を見つけ、すぐさまかけ寄った。足場が悪く、身体も冷えきってろくに動かない。足をとられながらも、どうにか折り重なった死体からソウを引きずり出す。見るかぎり即死ではなさそうだが――。滴る水を気にとめるひまもなく、冷たい肩を何度も叩く。
「おい起きろ。この愚図。自己犠牲馬鹿。あんぽんたん!」
反応がない。
呼吸がない。
(水を飲んだか)
即座にソウの気道を確保し、そのまま片手で彼の鼻をつまむ。口を大きく開いて、ソウの口をふさぐように重ね合わせた。五秒間にまず二回、息をゆっくりと吹きこんだ。それに合わせて胸元が上下するさまを確認する。
(死んで、くれるなよ)
まだなにも、成しえていないのだから。
――……。
ほどなくして、ソウは意識をとりもどした。激しく咳きこみながら、冷たい岩場の上で水を吐きもどした彼は、身体を起こしてすぐに周囲を見まわした。
「げほっ……っなに、これ……ここ、どこ」
感情を削いだような抑揚のない声で、怪訝な表情を浮かべるさまはめずらしい。まだ、うまく頭が回っていないらしかった。
ややあって、死体の群れを一瞥したときに、彼はわずかに目を見ひらいた。
「運が良かった」視線をふせてつぶやく。金色の髪からつぶになって落ちた一滴は、足もとの死体に音もなくぶつかって、そのままなじんでしまった。
「怪我は?」
「問題ない」
端的に言葉をかえす。
「濁流に呑まれてから、だいぶ流されたらしい。まだ夜中だ。死体の硬直を見るかぎりさほど時間はたっていないが、このまま街に戻るのには無理がある」
「ナギさんは大丈夫かな」
低い声で疑問を口にしたソウは、ここからでは見えないマヌーゲルを遠く見つめている。
「宿は比較的高い位置にある。倒壊していなければ、おそらく無事だ」
答えてやると、ソウは肩のちからをゆるめた。
と、思いだしたかのように、彼はふたたび口をひらいた。
「でもなんであんな無茶したのさ。死ぬかもしれなかったんだよ」
「立て。移動する」
それだけ伝えて歩きだすと、あわてて立ちあがったソウがうしろからついてきた。
「ちょっと待ってって、もう」
「先日、マヌーゲル周辺の地図を見た。あの谷を流されたのなら、この近くに避難用の小屋があるはずだ」
「それは俺も見たけど」
「話はそれからだ」
なかば強引に話をうち切る。獣の気配をふりきるように、さらに足を速めた。
暗く、濁った夜だ。




