(二)気持ちが悪い
魚の腹をひらく。
十八歳のときに、ソウは初めて魚をさばいた。
けれども、そのときはたったそれだけのことが難しかった。うろこを取ることを知らなかった。うろこを取るときに、背ビレの先が手に刺さって、ひとさし指に血がにじんだ。骨にそって身を分けるときに、どう刃物をあつかえばいいのかまるでわからなかった。けっきょく、ひどくボロボロになった白身を焼くことになった。
ろくに料理のしかたもわからない、ということに気づいたのは、そのときが初めてで――自分は家事を手伝っていると思っていただけで、家のことなんてなにも知らなかった。
母の手料理には遠くおよばない、ただ焼いただけの不格好な魚の身を幼い弟の前に置くのは、勇気が必要で。
けれど、
――お兄ちゃん、これ、おいしいね。
ライはそう言って笑ってくれた。
ちゃんとしたものを食べさせてやりたい。母さんにはなれないけれど、せめて弟が、安心して暮らせるように頑張ろうと、心に決めた。
幼い弟が笑ったことに心から安堵して、けれど、その日はどうしてか、自分でさばいた魚を食べることはできなかった。いつも魔種を討伐しているから、生きものの死体に見慣れているにもかかわらず、だ。魚のはらわたがどろりとまな板を汚した光景が目に焼きついてはなれず、死んでしまった冷たい血肉の感触が手のひらにずっと触れているようで、気持ちが悪かった。
食べられなかったのはその日だけで、慣れてしまえばどうということもなく。
しかし、それは同時に、母がいない生活にも慣れてゆくということだった。
「ソウさん、お上手ですね」
魚の内臓を破らないよう、ていねいにひらき落として洗っていたところに、悠揚な声が帰ってきた。たんぽぽの綿毛のような、やわらかい音を見上げると、安穏としたようすで、ナギがのぞきこんでいる。
「ナギさん、お帰りなさい」
最後の一尾をきれいにすすいで、ソウは立ちあがる。ナギがたずさえている網袋には、いくつかの野草が入っていた。
「ご飯、きっとおいしいのができますよ」
「うん」
ソウは笑みを返した。
***
〈雨宿りの樹〉の内部にもどると、そこに黒影の姿は見えなかった。否、黒影は確かにそこにいた。だが、その姿を見つけるには数秒の時間を必要とした。
枝ばかりの壁面の影へ背をあずけるように座り、大太刀を身体の前で抱いたまま目を閉じている。
宿場町を出て一週間がたつが、黒影はやることをすませると、早々にこうして独り閉じこもってしまう。必要最低限の協力はしてくれるものの、それ以上のことはしない。それが、黒影が現在見せている姿勢だった。
もっともソウ自身は、黒影がこうして食料調達を手伝ってくれることは意外だとおどろいた。なにかの役割をこなしてくれる性分ではないだろうと思っていたからだ。この数日で、おなじように、まちがった先入観あらためたことは、いくつかあった。
「黒影、もどったよ」
声をかけるが、とうぜん返答はない。だが、寝ているわけではないということも知っている。
黒影は周囲の微細な変化を感じとると、片方だけ薄くまぶたをひらき、黒いまなざしでその原因をさぐる。そのようすはたびたび見られ、変化が危険なものか、自分が動く必要があるのか、あるいか興味深いものか、そういった判断を下しているようだった。
最初こそ身体が冷えるだろうと気遣って外套をかけにいったものの、気配がわずらわしいと一蹴されてしまったのはいい思い出だ。
黒影がこちらに一瞥すらくれないのも、とくに変わったことはないということだろう。
夕暮れの雨が過ぎるころには、食事の用意も終わった。晩ごはんは、黒影が釣ってきた魚を三枚におろして、身は香りのよい葉へ野草といっしょに包み焼き、骨はスープの出汁にして、そこへふかした芋をこねて落とした。皮と種をとりのぞいた果実も入れて、ナギが教えてくれたように、ていねいにアクを取ると、果実のしぶみは目立たなくなった。
「けど、想像してたよりも、食生活が豊かでよかった。虫を食べなきゃいけないのかな、とか考えていたから」
「虫はたんぱく源として優秀ですが、三人分の量を集めるのもたいへんですからねぇ」
包みを受けとったナギは、待ちきれないようすでいそいそと葉をひらいた。ふわりとのぼる湯気を、おさない子どものようにきらきらと輝く瞳で見つめ、それからできたての香ばしいにおいをいっぱいに吸いこんだ。それからぱっと顔を上げると、指先を立てる。
「でも、せっかくですから、今度食べてみます? ムカデとかバッタとか……いろいろ食べられますよ。ただ、虫も動物もそうですけど、もっている毒の種類や、毒性の強い植物などを餌にしているものは食べられませんね。感染症の心配があったりする種もありますし……」
「まって、そもそもムカデって食べられるの?」
ソウはスープをとりわける手をぴたりと止めて、訊ねた。
「ああ、ナギは油でカリッと揚げて、お酒のつまみにしたいですね。顎肢に刺されると危ないので、頭を落としてから、こう、くいっと捕まえるんですよ。生は皮がつっぱって食感も味も美味しくないですし、いろいろと危ないので必ず火を通してくださいね……って、大丈夫です?」
「ああうん、ちょっと色々びっくりしちゃった」
ソウはそっとまぶたを閉じた。とりはだの立つ腕をさすりながら、苦笑する。
「どうしようもなくなったら、考えるよ。いまはちょっと遠慮したいかな……」
「まぁ、今年は果物の実りも多いですし、干し肉も買っていますから、それほどこまりませんよ」
間のびした声に合わせて、ソウもかるく笑いかえした。スープをとりわけて渡す。受けとったナギは、あっと思いだしたように声をあげた。
「そういえば、ソウさん達がこちらに来る前のイグラシア……」
「イグラーシャ遺跡のこと?」
「そうそう、イグラーシャ。そこでの水分補給の手段といえば、やはり果実だったんですよ。来客には果実をだすのが一般的で、真水やお酒を出すのは、裕福な貴族層の象徴であり、文化だったんですね。
社交会では、他国から仕入れためずらしいお酒であったり、自分の領地で採れた果実を加工してジュースをふるまっていたりしていたんです。
とりわけ流行ったのは、香りの良い紅茶を、良い水を使って煮出したもので、女性たちのお茶会でも人気だったようです。食事の前に薔薇の花びらを浮かべた水入れで手を洗う、という文化は、現代の貴族にも残っていますよねぇ。
さらに、イグラシアの貴族たちは壁画に残されている通り、皆いちように装飾品で飾り、おたがいの権威を示しました。腕のいい職人を抱えられるということは、それだけ豊かであるということですからね。権威を示すことは貴族にとって重要なことで……」
そこで言葉が止まった。
すこしの沈黙のあと、ナギはこまったようにこちらへ顔を向けた。後ろ頭をかいて首をかしげる。
「……あれ、ナギはなんの話をしていましたっけ?」
「えっと、ごはんの話と、いまはイグラーシャの話かな」
ナギは「ああ!」とうなずいて、さらに数秒。思いだそうとしたのか視線をめぐらせた。ややあって、後頭部をかきながら、あっけらかんと大きく笑った。
「忘れちゃいました!」
やや気恥ずかしそうに、眉根を下げての申告。
「そういうこともあるよね」
ソウはやわらかくあいづちをうった。
それからナギはまた別の話題へうつった。次から次へと出てくる話題に、ソウはうなずき、知らないことを訊ね、おどろき、ナギに合わせて笑った。話は尽きることなく、またそのどれもが豊かで退屈を感じることもなかった。
ソウが話に聞きいっているそのあいだ、黒影は黙々と食べすすめるだけで、とくに口をひらくこともなく。やがて半分ほどの量で食事を終えると、気配なく立ちあがり、大太刀を背負った。
「黒影、もう暗いよ」
声をかけると、怫然として黒い髪が揺れた。わずかにふりかえった目じりが、嫌厭を示すように鋭く尖る。
「もしかして、魔種? なら俺も行くよ。雨のあとだし、増水して危ないところだって――」
「誰彼かまわず媚びへつらうな。いささか不快だ」
怒気を孕んだまなざしは、ソウを睨みすえていた。
「気持ちが悪い」