(三)旅人
絶え間のない雨の音が聴こえる。
ソウは魔導武具を抱いたまま、草わらを敷いた固い寝台へ。膝から下は床へおろすようにして、靴を履いたまま仰向けで寝転んでいた。脚を伸ばすには寝台の大きさがたりず、折りたたんで深く眠るほどおちついてはいない。いまは夕飯までひと時のあいだ、身体を休めることができたらいい。
案内されたこの部屋には、二段式の寝台がひとつと、吊り床がある。つり床とは粗く編んだ網の両端をそれぞれ柱や立木などに結んで提げる寝床のことで、おそらくナギが受付に言って緊急的に手配してくれたものだろう。
せいぜい視線の高さまでが筵で覆われているていどの簡素な空間は、通路の竹板を叩く足音も、人の動きにともなって生まれる物音も、外界を満たす大粒の雨音もいっしょくたに流れこんでくる。どこの部屋もそうだろうが、幸いは、テラスから多少離れているおかげで人の声がいくらか雨音に打ち消されてくれることだろうか。
細く息を吐くと、ここ数日の疲れがどっと押し寄せてくるようだった。外での慣れない生活に、異郷のにおい。家を出たのがたったの数日前だなんて、信じられないくらいだ。
(魔幽大陸……)
この大陸には魔狩協会がない。ナギの言葉を疑うまでもなく、ソウはこの大陸に魔狩協会の支部がないことくらいは知っていた。
それはつまり、魔狩の身分証明書はここで役に立たないということだ。保障もなければ協会からの支援も得られない。それだけならまだ良い。手元には魔導武具がある。冒険者の仕事をしたことはないが、魔狩と同じように魔種討伐の仕事もあると聞く。それがどれくらいの報酬になるかはわからないが、食いつなぐ糧にはなるだろう。
(大陸をつなぐ霧晴は十年に一度、か)
ソウはりんと鳴いた猫面の紐をほどき、顔にあてた。すこしだけ音がこもると、他人の生活音から離れられる。
「俺、帰れるのかな」
ぽつりともれた声はたいした抑揚もないままうわすべりして、誰にぶつかることもなく消えていった。緊張で硬くなった身体をほぐすように、長く息を吐く。深く息を吸って、細く均一に吐いて。それを何回かくりかえした。
(ライ、ちゃんとご飯食べてるかな。家事はともかく、元気でいてくれたら……)
――……。
弟が、泣いている。
――大丈夫。俺がいるよ。
すると弟は不安そうにこちらを見あげた。
泣きはらしたまぶたがぷっくりと赤くなっている。
どうしてみんな笑うの、と弟は言った。
――それは、みんながなにも知らないからだ。
どうしてみんな、悪く言うの、と弟は言った。
――それは、みんな不安だからだ。理不尽な不安を解消するために怒りをぶつけたくて、だからもっともらしい理由がほしいんだ。
どうして、どうして、どうして。弟が泣きながらいくつも問いかけてくる。
――どうして、お兄ちゃんは泣かないの。
まっすぐに向けられた怒りは、いまでもずっと胸の奥でひりついている。
「おい」
地を這うような声が耳に届いて、ソウはとび起きた。そのひょうしに、猫の面が竹板の床に落ちて、りんと鈴が鳴る。同時に抜きかけた片刃曲刀は、黒影が硬い靴底を柄にぶつけたことで危うげなく止められた。
「な、に……」
言って、ソウはハッとした。あきれたようにこちらを見下げているのは、真っ白な面長の顔だ。
「……ごめん。びっくりしちゃって」
「謝罪などいらん」
黒影はフンとつっぱねて、乱暴に腰かけた。かたい音を立てて、寝台は大きく軋む。いちおう気を遣ってくれたのか、それともたんに嫌われているのか……おそらく後者だろうが、あるていどの距離をあけてくれたことに、ほっと胸をなでおろす。
この宿泊施設は元々、未開拓部族が外部の人間と接触を始めたときにできたものらしい。以来、この周辺にも冒険者の手が及ぶようになり、そのうちに冒険者向けの依頼仲介所としても機能するようになった、という話だ。
最初にソウたちが入ったテラスのカウンターでは、宿泊の受付だけでなく仕事の斡旋もおこなっているということもナギから聞いたばかりだ。さきほどからんできた男たちも、元々この辺りで狩猟を生業としていた先住民族の一人だったらしい。
本来ならソウや黒影のような魔狩はこういった施設を利用することはない。それは、出先に支部があるか、宿泊先が手配されていることがほとんどだからだ。
「もどりましたぁ」
ゆるやかで明るい声が、扉代わりの筵を開けっぴろげにした。
「ナギさん」
立ちあがろうとすると、ナギは「あ、そのままでいいですよ」とさしとめ、「ちょっと持っててください」と食事を盛ったお盆をどんとソウへ渡した。
「えっと、これ。ワニ……?」
「おなかのあたりはやわらかいので、皮ごと食べられますよ」
「あ、うん。そうなんだ」
まさか異郷の地で、ぶつ切りにされたワニと向かいあうことになるとは思わなかった。しっかりと焼いてあるようだが……。ほかにも丸焼きのナマズが数匹に、よくわからない野菜や芋、果物類がのっている。
「お二人は魔狩ですし、さっきのこともありますからね。ほかの人といっしょにご飯をするのは、気がすすまないかな、と思って。三人分まとめて持ってきました」
「別に毛嫌いしてるわけじゃないんだけどね」
ソウは苦笑した。
「それはわかってるんですけどぉ」
ナギは小さなテーブル三人の真ん中へ持ってくる。うながされて、ソウはお盆をその上に乗せた。
「冒険者と魔狩って仲良くないじゃないですか。んまぁ、ここでは魔狩の存在なんて知られてないので、そういうのもないと思うんですけど」
てきとうな椅子に腰かけたナギは「いただきまーす!」と声をあげて、さっそくワニの脚にかぶりついた。はふはふと熱気を逃がしながら飲みこんだナギは、うれしそうにほっぺたをゆるめて、続けてひとくち、またひとくちとかぶりつく。
(おいしそうに食べる人だなぁ)
そのさまを眺めていると、となりの黒影が静かに手を伸ばした。枯れ枝のように細い指先で一番小さいものを取る。眉間にシワを寄せたまましげしげとワニの肉を眺め、ナギを見、ややあって薄いくちびるで小さく食んだ。目立った反応はないが、そのまま静かに食べ進めるようすは、ナギと対照的だ。
ソウも二人にならってワニの脚を取り、ものはためしと端をかじってみた。思うより脂の乗りがよく、しっとりと弾力がある。想像より味は淡白だろうか。
「そういえば、ナギさんはどうして遺跡にいたの?」
「ナギは遺跡の調査をしていたんです」
すっかりワニを堪能しつくしたのか、ナギはナマズの丸焼きに手をつけた。
いわく、この数週間、周辺地域では魔種の集団暴走が頻発しており、ナギは日銭を稼ぐために冒険者の依頼仲介所でその調査依頼を受けていたそうだ。
「まぁ、ナギも冒険者なわけじゃないんですけどねぇ」
口端を舐めて、ナギはまたかぶりつく。
「魔狩のように難しい試験もありませんし、身分や境遇が問われることもありません。採集に狩猟、護衛やその他の力仕事……なにをやるかはいろいろ選べますし、成功すればその日すぐお金になります」
日雇いのようなものか、とソウは理解する。
「そのぶん、生活の保障はありません。危険も多いですしね。一獲千金を求めて未開の遺跡に潜る人たちもいて、そのまま帰ってこないことも多いんです」
あっという間にナマズを食べ終えると、野菜の漬物を口にほうりこんだ。
「それにしても大変でしたねぇ。〈転移魔導門〉にまきこまれて、こんなへんぴな場所にとばされちゃうなんて」
ナギには宿場町に着くより前、船の上であるていどの事情を伝えていた。
「とりあえず、三泊ほどとっています。お二人がナギと同じ部屋なのはごめんなさい。ナギもそれほど手持ちがなくて……」
「ううん。親切にしてくれてありがとう」
感謝を伝えると、ナギははにかむように笑った。
頼りもなく、なにも知らない土地で屋根のある寝床や食事にありつけることは本当にありがたいことだった。
「けれど、お二人は運がいい。今年はちょうど、魔幽大陸と水瑠地方をへだてる瘴気が晴れる年です」
「本当」
ソウは前のめりになって、明るい声で訊ねた。
ナギが朗らかにうなずく。
「約二ヶ月後。瘴気が晴れると、そこから数ヶ月の間、〈白の境界線〉を行き来できるようになります」
「白の境界線? ごめん。魔幽大陸のことはよく知らないんだ。教えてもらえたら嬉しいな」
ナギは得意げにうなずいた。
左手の指を立てて中空に地図を描くようにすべらせる。赤い宝石の装飾が特徴的な、金色の腕輪がきらりと輝いた。
「白の境界線とは、魔幽大陸と水瑠地方を隔てる、瘴気で満たされた地帯のことです。瘴気に侵されて白亜化、あるいは魔化した生態系によって、瘴気が晴れても一面の白色が大陸の北から南まで続くことから、そのように呼ばれています」
「ナギさんは博識だね。ありがとう」
「えへへ、それほどでもぉ」
ナギは照れくさそうに笑った。
「それで、確認なんですけど」
各々が食べ終えたころを見はからって、ナギはやわらかな声を差しこんだ。
「お二人は魔狩で、故郷に帰るのが目的。けれど寄る辺もなく金銭も心もとない。そしてなにより、言語の壁がある。ナギの認識は合っていますか?」
ソウは心のうちでなるほどと思った。これはただの事実確認ではない。
ナギはさらに言葉を続ける。
「でしたら、しばらく冒険者として仕事を受けることをお勧めします。魔種討伐の依頼なら、魔狩とやっていることはそう変わらないはずですし」
提案を受けて、ソウは、ちらと黒影を見やった。少量で誰よりも早く食事を終えてからも、あいかわらず機嫌が悪そうに黙っていた。なにを考えているのかはわからないが――ひとまず、ナギとの話を進めてもいいだろう。
「基本的に魔狩は副業が禁止されているんだ」
ソウは言った。
「けど、この状況じゃしかたないし。一時的に冒険者として生活費を稼ぐことも、本部には許してもらえると思う。あくまでも、魔幽大陸を抜けるまで、の話だけど」
細かい部分はともかく、ここまでは前提として話しておく必要がある。
「――で、本題。ナギさんは俺たちを使いたいのかなって、俺はそう認識したんだけど」
ナギは翡翠色の目を丸くした。
「話が早くて助かります」
つまりこれは、取引だ。
「ナギはただの旅人です。できれば、あまり魔種と戦いたくありません。なので、護衛をしてほしいんです」
「目的地は?」
「お二人と同じ。ひとまず魔幽大陸を抜けるまで、です。つまり、三人で依頼を受けながら日銭を稼いで白の境界線を抜け、魔幽大陸の出入り口である流国まで向かう。依頼で得た報酬は均等に割ってもいいですし、ナギはご飯とか、必要ぶんいただくかたちでもかまいません」
「俺たちがナギさんを護るかわりに、ナギさんが通訳や宿泊施設の手配をしてくれる、ってことだね」
願ったり叶ったりな話だが……。
「ひとつだけ、いい?」
「なんでしょう?」
「……俺は生きて帰ることが目的だから、万一に……本当にどうしても、ナギさんか自分の命を選ばなきゃいけない状況になったら、たぶん自分を選ぶことになる」
「命を懸けてまで守ってほしいとは思いません」
即答だった。ソウは思わず目を瞠った。目の前の旅人が、あまりにもあっさりしていたからだ。茶化すふうでもなければ悲観的でもない。それは、ナギという旅人があたりまえに、死がどういうものか知っていることを示していた。
「すこし冷たい言いかたになっちゃいますけど」
言ってから、ナギはくちもとへ左手のひとさし指を近づけ、ゆるやかに微笑んだ。
「おたがい利用できる範囲で――いい関係で、旅をしませんか?」
さしだされた右手は、ただ若いだけの青年ではないことを語っている。
ソウは応えた。
「よろしく。ナギさん」
その言葉に、ナギはうれしそうに眉じりをさげた。
温かい。
握りかえしてくれたその手は、愛嬌のある表情よりもずっと厚く、包みこむようなやわらかさをそなえていた。父の手とも、母の手ともちがう。
旅人の手だ。