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(八)自慰

 宿へ戻ったソウは、出迎えてくれたナギに自分の手荷物と上着をあずけた。手短に気分が悪いことを伝えると、客室から離れた手洗いへ向かい、そのまま個室へ。

 なだれこんで鍵をかけ、薄汚い壁で独り身体を支える。灯りのない暗がりで、ひたいをこするように、ようやく息をはいて、吸う。服に染みこんだ甘く重だるい香りがいまさら強烈に広がって、肺を侵し思考を濁らせた。

 めちゃくちゃだ、と思った。

 頭の片隅でなにもかもを他人事のように認識していた。

 みぞおちではぐるぐるとした気持ち悪さが渦を巻いていて、いまにも吐いてしまいそうだった。背中は強張り、悪寒と冷や汗が止まらなくて寒いのに、頭はひどく熱っぽく、ぼんやりとかすんでいる。こめかみがドクドクと脈打つように痛んで、(わずら)わしいのに、思考だけ別の()れものにわけてしまったみたいに、妙に冷静で、とても遠いところにある気がした。ふくれてしまった身体の熱を、はやく吐き出してしまいたかった。そそがれた期待も、情欲も、なにもかもが男という()を侵して、男という()()()が、()()を侵し支配してゆく。自我が消える。理性が(いや)しい欲望の渦に喰われる。性が牙を剥く。

 気持ちが悪い。

 熱を掻く。くそ、と短く毒づいて、微熱を()る。ズキズキと痛んで、そのうちに張り裂けてしまう気がした。は、と小さく息をこぼしても、湿っぽい空気はよどんだまま、じゅくりとした熱が、狭いこの場所にむっと立ちこめている。どこにも行き場なんてない。滞留した空気が、生きものの匂いを帯びる。じわりと汗がにじんだ。えりあしに毛先がはりついた。また、息をこぼす。楽になりたかった。息を呑む間に終わってほしかった。こんな、こんなにも無意味で、無駄な。こんな気持ちの悪いことを――手放しで喜んで迎合できるものなら、もうなにもかもどうでもいいのに。

 いっそう身体が熱くなった瞬間、終わりを確信したくちもとから、息がこぼれる。濁った、短い音だった。

 そうやって汚れた手でそのひとすじが、どろり、と白い線をひいたときだった。

 ソウはとっさに膝を折って、便器に頭を突きだした。水をこぼすよりも、ずっと重い音が響いた。

 嫌なにおいだ、と吐きながら考える。

 便所に染みついた刺激臭に胃酸の臭いが混ざる。合間にじっとりとなま臭い生きものの臭いがして、それに甘く重だるい香の匂いがゆるりとしなだれる。指を絡め合わせるようにねじれて、ひとつに収束して悪臭とともに身体へ刻まれていく。それがいっそう気持ち悪く感じられて、ソウはまたえずいた。ひといきでぜんぶ空っぽになってくれれば、吐きだすものもなくなって、楽になれるのに。

 一度顔を上げたソウは、咽喉(のど)の奥へ指をさしこんだ。

 いまはなにも、欲しくない。


 

 冷たい水で何回もくちをゆすいでは吐きだした。そなえつけのせっけんを泡立て、手首から手のひらから指のあいだ。爪のすきまに手の甲と順番に洗い、流してゆく。意識の底に残る嫌な臭いを水の勢いで流しきろうとしていた。洗面台に渦巻く水流が、ごぽごぽと喚きながら吸い込まれていく

 それなのに、すこしも気持ちの悪さが消えない。

 指先も、くちもとも、すっかり冷えきっているのに。

 いつまでもこうしていたところで、仕方がないと半ば強引にわりきって、蛇口を閉める。キュィ、と爪を立てるような不快な音が水流を閉ざした。水音が残滓となって、落ちて消えてゆく。袖口で乱暴にくちもとを拭う。と、鏡の中に映る自分と目が合った。母とよく似た、奇麗な顔立ち。爽やかな蒼穹を思わせる澄んだ瞳。けれど、母とはちがう。

「ひっどい顔」

 自嘲。

「まったくだ」

 返答。

 ソウは鏡越しに映る人影に目をみはった。入口の光をさえぎるように、もたれかかった異様に細い姿。真っ黒でイビツな彼女は、気配もなくそこにいた。

「ここ、男用なんだけど?」

 懐からハンカチを取りだして、ていねいに手の雫を拭いた。

「お前があまりにも遅いから見て来いとナギに言われた。どこをほっつき歩いて来たかと思えば……悪いものでも食べたか?」

 ニタリと口の両端を広げてつりあげる、嫌みな笑いかた。いつもの彼女の笑みだ。

「いや……」

 否定を口にすると同時に、情事を思いだしてしまった。人間の粘膜と温度がふれあう感触。ねっとりと、熱が同化していくような気配。欲望の、なまなましい匂いだ。

 ソウはぐ、と息を吞み下した。

「ああ、そうかも」

 吐き気がする。

 考えたくもない。ハンカチをしまってから、ふりかえる。

「ごめん。待たせちゃったね。もう大丈夫」

 申し訳なさそうな声を混ぜて笑み見せようとしたとき、目の前が暗くなった。りん、と鈴の音が耳元で響いた。黒影が猫の面を乱暴に押しつけたらしい。

「笑うな。気色悪い」

 しん、と声が消える。反響した鈴の音がわずかな身じろぎに重なった。

「キサマはどうせ、周りから望まれる善人(ソウ)でいつづけようとするのだろう」

 馬鹿らしい。黒影はそんなふうに一蹴(いっしゅう)した。面を押しつける手に、ちからがこもる。彼女はひどくいらだっているらしかった。

 彼女はいつもそうだ。怒っている。いらだっている。

 怒らせてしまっている、といったほうが正しいのかもしれないが。

「せめて壊れる前に、ワタシと殺しあえ」

 彼女はどうやら、約束を反故(ほご)にされることを危惧(きぐ)しているらしかった。

「大丈夫。約束は守るよ。知ってるでしょ」

 ソウは自分の冷たい手が黒影の手に触れないように猫の面をうけとった。

 りん、と浮いた鈴の音が、この時間を繋ぎ止めている。



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