(七)熱情
ささやくような息づかいが触れている。
熱くて、やわらかい。
けれどもそれはソウの知っている心地よさや安堵とは、ひどくかけ離れていた。
ざわざわと怖気が立つ。熱い。熱い。息苦しい。
ぬらり、と触れた感触を皮切りに、ソウは意識を取り戻した。
「!」
息ができなかったのは、くちがふさがれていたからだ。ほほに触れた軽い感触が女の髪だと理解できたのは、彼女のくちびるがわずかに離れ、目の前でなまめかしく光を映したときだった。ソウは、しなだれるように覆いかぶさっている女の肩をぐいと押し返した。わずかに上体を起こしたとき、きゃ、と高い女の声が室内に小さく響く。
「どうして……」
ソウは目を瞠った。目の前にいるのは、後輩のモモだった。
記憶にないこの部屋には、あまい香りがじっとりと充満していた。しぼられた灯りが、夜闇の熱を浮かびあげるように、モモのほほをなでている。彼女はソウの上にまたがったまま、どこかうっとりとしたようすでこちらを見降ろしていた。
「よかった。このまま目が覚めなかったら、寂しいなって思ってたんです」
いつもお団子にしてまとめられていた髪は、ゆるやかな曲線を含んで胸もとにほどけている。少し乱れた髪は女の色香をまとい扇情的に揺れていた。
「待って、状況が見えないんだけど」
ソウのジャケットとコートはしわにならないように掛けられていたが、襟元に少しのずれがある。あれは自分が掛けたものではない。ソウはままならない記憶を探ろうとした。彼女やトビと話をしながら晩飯を食べたことは覚えている。記憶がないのは、そのあとだ。
「先輩、とってもお疲れだったんですね」
嬉しそうに、ソウのはだけた胸元に指をすべらせた。
「わたしの宿が近かったから、休んでもらおうと思ったんです」
「ありがとう。介抱してくれたんだね」
ソウは気怠い身体を無理やりに起こし、寝台から足を下ろして座った。彼女の言っていることは、一貫性がなくおかしい。ほかにも、おかしいことはいくつかある。倒れるほど根を詰めていたわけでも不摂生をしていたわけでもない。お酒を飲んだわけでもない。だというのに、記憶が一部欠けている。身体は鈍く、妙に熱っぽく感じられた。
(きもちわるい……なんだこれ)
――モモちゃん、ソウのやつ、ちゃんと、どうにかしてやれよ。
あいまいな意識のなかで聴こえた声を思いだして、ソウは目を見ひらいた。席を用意したのはトビだ。それもわざわざ、ユウメらしい店がまえではなく、地元の憂国を思いださせるようなところで、目の前にだされた料理もなじみ深いものだった。懐かしい味と顔ぶれに、多少気がゆるんでしまったことは事実だ。
おもえばカトラリーは三人分。あらかじめ用意されていて、おせっかいなトビの気質を鑑みると――、つまりこれは仕組まれたのだろう。
(あんのクソ。余計なおせっかいを……)
ソウは頭をかかえて、ため息をこぼした。ややあって、顔をあげ笑みをかたち作る。
「もう大丈夫。俺、宿に戻るよ。仲間に早く帰るって言ってるし、あんまり遅いと心配かけちゃうから」
「先輩はまじめすぎます!」
寝台から降りようとすると、背中から抱きとめられた。やわ肌が触れた瞬間、ぞくりと総毛立つ。振りはらおうと動きそうになった身体を、奥歯を噛んで必死にとどめた。拒絶反応だけが尾を引くように、身体がふるえる。血の気がざぁと波のようにひいて、嫌な静けさだけが浮き彫りになると、かすかな吐息や微細な声の切れはしがより鮮明に聞こえるようになった。次第に、モモの声と同じくらいの高い耳鳴りが襲い、頭の奥をつんざくように叩き始めた。
「どうしてわかってくれないんですか? わたしの気持ち、わかってるんでしょ? どうしていつも逃げるんですか。なんで無視するんですか。わたしの気持ちは、いつもここにあるのに!」
「……気持ちは嬉しいんだけど」
ソウはつとめて平静をよそおった。
「俺じゃ君を満足させてあげられない」
「嫌です。返しません」
こわばる身体へ、やわらかな肢体がまきつくようにぴったりと密着した。
香りが、じっとりとまとわりつく。
「ごめん。本当に俺は――」
ダメなんだ。
しかし、言いかけた言葉は――ひといきに、呑まれた。
「んぐっ……ん!」
ぐいと引き倒され、塞がれる。吸いつくように密着した温度が粘膜をはいずって、ぬるりと蠢いた。絡みついて濡れる。息をする間もないまま、さらに深く侵される。
「……っ!」
乱される。
(やめろ)
混乱する。
(嫌だ)
思考が、上手くできない。
(やめて)
気持ち悪い。
「――……っは、」
くちびるが離れたとき、二人の間をゆきかった熱がどちらのものなのか、ソウにはわからなかった。考えることを拒絶していた。理解してはいけないと思ったからだ。
「この香り、知ってますか?」
ソウはぼんやりと、モモを見上げていた――返事をしなければ、と、染みついた無意識に脅迫される。
どこかで嗅いだことはある匂いだとは思った。それも、何回かあって、そのたびにソウはわずかに目を細めて忌避したことを覚えている。厭わしい、とたびたび思っていた。その匂いには、いつも女の気配があって、潮の香りが染みついていたからだ。とはいえ、香水に詳しいわけでもなく、この香りがなんなのかは、わからない。だからここは、そのことをすなおに伝えて、彼女になんの香かと訊ねるのが妥当だろう。くちもとを薄くひらく。息がしにくい。気力さえ、甘だるい匂いに侵されていく。
「ルフィニアの香、っていうんです」
彼女は、この香りに催淫作用があることや、媚薬として広く使われていることを話したが、ソウには話の内容がよく理解できなかった。そのことを伝えるまえに、またくちがふさがれて、なにも言葉にならなくなった。
「いいじゃないですか。どうせ、わたしたちは女と男なんです。けっきょく、繋がるようにできているんです。とっても自然なことなんですよ。ね?」
彼女の手がかさなる。
「先輩……」
どうしてか彼女は笑っていた。
意味がわからない。
彼女は心の底から、喜んでいるようにも見えた。同時に、泣いているようにも見えて、うっとりとしているようにも見えて、さらには、とても急いているようにも見えた。なにもかも混ざって、曖昧に感じられた。ぐるぐると熱がまわる。
わからない。
「先輩になら、わたし……」
いま、目の前の彼女を正しく認識できている自信がない。
ただ、視界が歪むような気色悪さと寒気がこの頭に苦痛と警鐘を鳴らしている。
「わたしのぜんぶ、あげられます」
ああ、また、息ができなくなる。
ようやく訪れた息つぎの合間で、彼女は執拗にささやいた。
――好きです。
――大好きです。
――先輩だけが好きです。
彼女は喘ぐように言葉をこぼす。
――ずっとこうしたいって思ってました。
――だから、今だけはなにもかも忘れてください。
――わたしだけをみてください。
「……」
乖離してゆく。
バラバラになっていく。
記憶も、熱も。理性も、身体さえも。
なにもかも。
嫌いだ。
熱情をぶつけられるあいだ、ソウはただ呆然と目の前の人間を眺めた。粘膜が触れるたびに、身体の芯から凍えて、冷えきっていくような気がした。寝台の軋む音が、なにかを壊す音に思えた。薄氷を地面へ叩き割ったような彼女は、さらに、それらを何度も何度も丹念に、無遠慮に踏みつけてくるように思えた。
もちろん、彼女はただくちびるを重ねているだけだ。
愛している、と言っているだけだ。
「だから、先輩の……ソウさんの心を、わたしにください」
愛想笑いさえ、ままならない。
「君が求めているものは、俺の中にないよ」
今度は、自分が彼女へ言葉をつきつけた。そのときに、なにかが壊れる音がしたように思えた。それは、かすかな息づかいでしかない。けれどもたしかに、人が傷ついたり、衝撃をうけたときに発する音だった。
「じゃあ!」
モモは悲痛に叫ぶ。懲りずにまたくちびるをかさねて、身体をすり寄せてくる。縋るように、女の身体を押しつけてくる。
「せめていまだけでも……」
彼女は涙をこぼしているらしかった。
そんな彼女を、ただ眺めていた。
どうしてかわからないが、そのときふと思いだしたのは、数年前に母の形見である花瓶を割ってしまったときの光景だった。割れた花瓶は抱えていた水をそのままこぼして、床に染みを広げていった。つやつやとみずみずしく広がった水鏡のうえで、尖った陶器の先だけがギラギラとソウをせめるように光っていた。
家の中はひどく静かだった。
その花瓶は、花が好きな母へ父が悩みに悩んで送ったものだった。けれど、そこには花瓶を割っても怒る人なんて、もう誰もいなかった。
――ああ、割れたな。
そんな事象だけを、あの時もただ認識していた。
「わたしを女にしてください」
彼女は縋るように泣いている。
(そっか)
簡単なことじゃないか。
ソウは起きあがった。
ここには自分と彼女以外、誰もいない。
おもむろに彼女の手をとる。細くて、しなやかで。肌はみずみずしく、また、なめらかだ。引き寄せるように腕の中に包むと、すっかりおさまってしまった。胸元でこぼれたわずかな息づかいが、彼女の隠しきれない興奮を伝えてくる。ソウの素肌へ吸いつくように、彼女のやわらかな肉がしっとりと形を変えた。もうなにも思えなかった。
彼女は、耳を真っ赤にしながら、ふるえる指先をごまかすようにやわらかな手をまるめたものの、抵抗するつもりはないらしい。受けいれるように、そのまま体重をあずけてくる。寄せる熱は、まるで彼女の期待そのものに感じられて、それが少しばかり、重く感じられた。
けれども、寝台へ押し倒すのは簡単だった。
それは自分が男で、彼女が女だからだ。きっと、大した理由なんていらないのだろう。目のまえの女はこれを望んでいる。だから、このまま、情欲に負けたフリをして、抱きながら甘い言葉をささやけばいい。問題は、自分の身体が上手く機能してくれるかという点に尽きる。ソウは考えた。ただすこし、肌が触れるのを我慢すればいい。過去の記憶に蓋をしてしまえばいい。簡単なことだと、くりかえして言い聞かせた。
あるいは。
もう、いっそのこと、こんなことなんてごめんだと後悔するくらいに手ひどく扱ってやろうか。痛めつけるのは、誰しも簡単にできる。ただ腕を振りあげて、下ろせばいい。快楽を貪るようになにもかも叩きつけて、外からも、ナカからも、めちゃくちゃに壊してしまえばいい。泣いたってかまわない。彼女が望んだことだ。他人の善性に任せて、ぜんぶあげる、なんて言った彼女が悪いのだから、後悔させてやればいいじゃないか。――なんて。
「ばかだなぁ」
ちいさく、息をこぼした。
「だめだよ。こんなのはさ。いけないよ」
ソウは手をはなした。寝台の上で、彼女の身体はひどくふるえていた。そのことをわかっていて、あえて無視しようとした。
彼女の華奢な手首は、ソウがちから任せに握ったせいで赤くなってしまっている。いまさら、それに罪悪感なんて浮かばなかった。けれど、それはいけないことだと、理性が言う。だから、ソウはうつむくようにして、罪悪感をかたちづくった。
「先輩!」
「ごめんね」
ソウは首を横に振った。それでも、モモは縋るように腰もとへ抱きつき、泣きじゃくった。しまいには、自分にはそんなにも魅力がないのかと、責めるように言う。
ソウは彼女の頭をそっとなでた。
「きみは魅力的だし、とても優しいと思う」
空虚な言葉だと思う。
けれど、おそらく必要な言葉だ。
「――だからこそ、もっと、大事にしてほしい」
「覚悟はできてます。子どもを産んだっていい。わたしは、」
「ごめん」
ソウはそれだけ言って、モモをそっと押しのけた。
「帰るよ」
立ちあがりざまに上着と荷物を取って、部屋を出ていく。
ふりむきはしなかった。
限界だった。




