(六)マブダチ
繊細に伏せられたまつげの奥にある蒼穹は、ほんのわずかに色を沈めただけだった。彼はすぐに顔をあげて、「ごめんね、暗い話になっちゃった」とこまったように眉じりを下げる。三人でおなじようにごめんと謝りながら、話題は替えられた。
トビは自分の皿の上にとりわけたオリーブオイル漬けのトマトをつつきながら、半年ぶりに会ったマブダチ――ソウのようすを眺めていた。
こういうところだよ、と、内心声をあげる。ついさっきまで、この半年でずいぶん仲間に助けられたという話もしていたが、彼の口から情緒的な言葉が出てくることはほとんどなかった。大変だった、とは言っていただろうか。
ふつうなら、寂しいとかつらかっただとか、そういう感情を口にしたっておかしくない。なんせ彼は不慮の事故にまきこまれ、半年ものあいだ非日常を旅してきたからだ。
いままでのつきあいからすると、そういう刺激や大きな変化を喜んだり、楽しめるくらいの気楽な性格とは思えない。
(わっかりにくいやつ)
このようすでは、仲間というのもどうなんだか。
もちろん、ソウのことを――恋愛という意味合いで、罪な男だと思ったことはあるが――悪いやつだと思ったことはない。むしろこの年齢にしては真面目すぎるくらいだ。女遊びもしない。酒も煙草もしない。同僚から女々しいだのと嗤われても顔色ひとつかえず、そのまま流してしまうだけの余裕がある。
だからこそソウがその仲間にたいしてなにか弱音を吐けているのか、言葉のとおり本当に頼りにしているのかと気を揉んでしまう。
(こりゃ、仲間とやらに会ってみるしかねぇかなぁ)
そんなことをしたら、またお節介だのと言われてしまいそうだ。トビは心のなかで、大きく肩をすくめた。
「トビ、どうかした?」
「んや、半年ぶりの笑顔が眩しいなって思ってたところ」
「なにそれ」ソウはくすくすと笑った。
「そういやぁお前。協会でなに見て笑ってたんだ?」
「ああ、あのとき?」
ソウはくす、と笑った。
「さぁね。なんだったかな」
話題がとりとめもなく変わるなかで、トビはふと引っ掛かりを覚えた。それはたとえば、数が変わっただとか、ほかの客が触ったカトラリーがぶつかって立てる音のようにわかりやすいものではない。トビは場を盛り上げながらも、それが気になってしかたがなかった。
モモが自分のグラスのフチをなぞったときだ。
「先輩、すこし変わりました?」彼女は、ソウの顔を覗きこんだ。彼女もまた、ソウの変化に違和感を覚えているらしかった。
ソウはグラスを傾け、くちをしめらせた。笑みをたずさえて、軽くうなずく。
「そりゃ、変わるよ。髪も伸びたし」
「そうじゃなくて」
モモは否定した。
「むしろ、見た目はわたしが知ってる先輩そのままなんです」
彼女は視線を揺らして、記憶のうちを探ったらしかった。どういえばいいかわからないことを前置きして、「でも、なにかちがうんです」とソウの瞳の、もっと奥まったなにかまで見ようとしているようだった。
「先輩」
モモが近づく。触れはしないものの、確かな熱感が空気をつたって、ソウへ触れたらしい。彼はこまった表情を浮かべた。
「こんなに近くで見つめられたら、さすがに恥ずかしいよ」
「先輩」
モモがさらに、ぐっと顔を近づけたとき。
「ソウ」
トビは思わず、声を差しこんだ。
「肩にほこりがついてる。鏡見てこいよ」
彼は肩へ視線を向け、そのまますぐに立ちあがった。
「ああ、うん。ありがとう」
ごめんね、とつけたした彼が手洗いへ向かったのを見送って、トビは胸をなでおろした。――とくべつな理由はない。ただ、なんとなくそうしたほうがいいと思っただけだった。もちろん、肩にごみなんてついているわけもない。
「……嘘つき。協力してくれるんじゃなかったんですか」
モモが背もたれにぐっと身体をあずけて口をとがらせる。髪の毛先を指ですくうと、そのままくるくると指に巻きつけた。
「モモちゃんの恋は応援するって」
トビはあわてて言葉を返した。
「ソウには早く所帯もって、おちついてほしいからな。ほら、アイツ。危なっかしいだろ?」
モモが首をかしげる。トビはつけたすように言った。
「いやさ、たまに自分のことどうでもいいって感じで、他人のためを選ぶんだよ。しかもけっこう無頓着に。そういう執着がないヤツって、助かるかどうかの分かれ目で、簡単に死んじまうんだよ」
「やめてくださいよ。そんな話、冗談でもイヤです」
「まあまあ。だから、俺はアイツに〈他人〉っていう枷をつけたいんだよ。モモちゃんが真面目で、一途な子だってことは俺も知ってる。だから、ソウとくっついてほしいのは、本当なんだって」
トビは酒を口に含んだ。考えるあいだを、酒の味でつなぐ。
「――けど、それとさっきのこたぁは別でよ」
「無関係じゃないです」モモは強く主張した。
「焦んなって」
このあとだって時間あるんだからよ、と、トビはモモを諭した。
「でも」彼女が立ちあがりかけたところへ、できたてての料理がはこばれてくる。湯気が立つトマトソースは、つやつやと輝いている。トビやモモの地元ではなじみ深い、ミートスパゲティだった。
モモは座って、もういちど、今度はすこし声をおさえて言った。
「トビさんだって、気づいてるでしょう?」
「たしかに、アイツは変わったよ」
モモが言っていることは、トビも肌で感じとっていた。
ソウは変わった。それは、ひとえに見た目の話ではない。もっと別の、わかりやすく表面には出てこないようなところだ。なにが変わったかは、十年来のつきあいであるトビにもわかっていなかった。もともとわかりにくいやつなのだから、いまさらわからないことについていちいち不安を感じたりはしないが――モモは、このことについて、どうにも気が気でないらしい。
「女だったらどうするんですか」
「女で変わるようなタマかね、アイツは」
ため息を重ねる。
女なんていらないと言わんばかりの鉄壁の男が、この期におよんで色欲にうつつを抜かしたり、惑わされたりするとは思えない。そもそも、そんな簡単にほだされるようなやつだったなら、ソウと自分の関係はもっとちがったものになっていただろう。――それこそ、いつもしつこく言っている〈マブダチ〉くらいには。
「おたがい、片想いだねぇ」
つい面白おかしくなってしまって、トビはくく、と笑った。向かいのモモが軽蔑と敵意の視線をよこす。あわてて「そういう意味じゃないって」と弁明し「俺は健全な男の子よ?」とつけたして、目の前のミートスパゲティを彼女の前にさしだした。モモはそれを一瞥して、胸もとに手をさしこむ。なにかをさがしながら「じゃあ、トビさんはいま、恋人がいるんですか?」と訊いてきた。トビはそのあいだ、ほかのテーブルへ視線を流したまま「お嬢さんったら、どうせ興味ないでしょ?」とふざけた調子で訊ねると、案の定「ただの世間話じゃないですか」と返ってきた。
「お世辞ってやつね」
「褒めてはいないのでちがいます。わたしはソウ先輩にしか興味がないので……トビさんのことは正直、付属品くらいにか思ってません」
「けっこうズバッと言うね?」
「こういう性格ですから、女友だちなんていませんよ。それにほら、自分で言うのもなんですけど、わたし、可愛いので」
「お嬢さんってそういうところ、したたかよね。嫌いじゃないよ。信用できる」
トビはにしし、と歯を見せて笑った。
モモは懐からとりだした小さな包みを手元において、スパゲティを人数分に取り分ける。
「ソウ先輩って、粉チーズかけるんですか?」
「たしか、かけてたと思う」
モモはそうですか、とそっけなく返事をすると、先ほどテーブルに置いた包みを手に取った。それからまた、彼女は話を戻した。
「おかげさまで、けっこう目の敵にされましたよ。だから、ほかの女は死ぬほど嫌い。いっそ死んじゃえばいい」
「過激だねぇ。もしかして酔っちゃった? お水いる?」
「いりません」
モモは包みをひらいて、とりわけた皿のうちのひとつに、ふりかけた。そのうえから今度は粉チーズを振りかける。
「けど、まぁ。ほかの女がみんな死んじゃったら、わたしのところに変な虫が寄って来るでしょう? それはうっとうしいんですよ。だから、虫は虫どうしくっついて、よろしくヤっていれば良いんですよ」
「……ほかの女が、ソウに言い寄ったらどうすんの?」
ぐしゃ、と音が立った。モモが空っぽになった包みを握りつぶした音だった。満面の笑みをうかべた彼女は、
「女として生まれてきたことを後悔してもしきれないくらいには、してあげます」
と、やわらかく微笑んだ。
「男でよかったよ」
「なにいってるんですか?」
モモはまるい瞳を大きくひらいて、今度は恬然と首をかしげた。
「男は役立たずにしますよ。あたりまえじゃないですか」
トビは思わず引きつってしまった頬をごまかすように、グラスに残った酒をあおった。
モモが取り分けた皿を席の前へそれぞれ並べたころに、ようやくソウは戻ってきた。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「鏡に見惚れてたんじゃねぇの?」
「大事にしてたハンカチにほつれがあってさ。ひとつだけかなって思ったら、あちこちあってびっくりしちゃった」
ソウはこまったようにはにかんだ。
「わたし、直しましょうか?」
モモがわかりやすく、ソウの腕に身を寄せる。彼は、ありがとうと微笑んで「でも大丈夫」とやわらかく断った。そんなことをしたら宿に戻る時間が遅くなってしまうからと、モモの身を案じていることを伝えた。
トビは、三人で会話を広げながらミートスパゲティを食べた。デザートがからになるまでの時間も含めて、モモはなにかと理由をつけてソウに接近したが、やはり彼がモモのことを女性と意識して頬を赤らめたりすることは、一度もなかった。怜悧なまなざしが情欲に濁ることもなければ、ソウから意識的に彼女へ触れることもなく。
「あれ……」
炭酸水がまだ残るグラスを片手に、ソウがわずかに頭を抱えたらしかった。いつも明瞭と輝く彼の瞳はゆるやかに溶けてしまいそうだ。いくらか頭を振ってもすっきりしないらしく、ソウは眉間をおさえた。
「どうした?」トビはわかっていて、あえて訊ねた。
「うーん、と……」
「疲れてんだろ。そろそろおひらきにしようぜ。俺はもう少し飲むけど、お前は先に帰れよ。な? モモちゃんもそれでいいだろ?」
多少の罪悪感を覚えながら、トビはソウを立たせた。コートを羽織らせ、モモと視線をかわす。
「先輩、わたし、宿がすぐ近くで。途中までいっしょに行きませんか? やっぱり、はじめてのところって、ちょっと怖くて」
ソウはもう一度頭を振ると、ぐらついた足をとどめて、いつも通りの笑みを浮かべてみせた。トビは内心はらはらしながら、そのようすを見守っていた。
「一人歩きは危ないし、送るよ」
彼の責任感を逆手にとったモモのやり口に思うところがないわけでもない。それでも――トビは、ぐっとこらえた。堅実な彼だからこそ、いっそこれくらい強引なほうが新しい道がひらけるだろう。
夜の街に出ていく背中を見送って、トビはどっと息をつきながら席に座った。
すっかりからっぽになった皿と空いたふたつの席を眺めて、トビは独り、グラスワインを注文した。




