放蕩者と家なき子
「親というのは、子どもに名前をつける時、どんな気持ちなんだろう?」
「さあね」
クィルは簡単に応じ、ゴブレットになみなみ注がれたシードルをあおった。「なにを期待されているのかわからないが、生憎俺に経験はない。大体、そういうのは家庭に拠るんじゃないか。俺の親に関して云えば、願望をつけたみたいだな」
クィルは短縮形で、本当はもっと長ったらしい名前だ。意味は「凪」で、漁師をやっていた彼の父親は海が凪ぐ日を好んでいた。
ゴブレットを傾ける。マーシュヴァリ産のシードルだが、運んでくる間に発酵がすすみすぎたようだ。少々、からい。
クィルはしかめ面で、ゴブレットを置いた。彼は、酒と女は甘いものをたしなむことにしている。舌がびりびりするような酒や、やたらに気の強い女は、願い下げだった。
その気の強い女に袖にされたばかりらしい、友人のトレランティアは、脚を組みかえた。彼は高いとは云えない身長をしており、長身のクィルと並ぶとそれだけで目立つ。
帝国の都では、ふたりは有名人だ。
場末の盛り場にふらっと姿をあらわしては、酒を呑み、女と踊り、充分楽しんで姿を消す。なんの商売をしているのか、もしかしたら貴族の庶子なのか、豪遊を繰り返すだけの金はある。
トレランティアは組んだ指を上下させ、溜め息を吐いた。クィルはくすくす笑う。
「お前の親は聖職者だったんだろう」
「違う」
「じゃあ、聖職者になりたいと思ってたんだ。なあ、そうしけた面をするなよ。女達が逃げる」
トレランティアはクィルを睨み、鼻を鳴らした。クィルはしばらく笑い続けた。友人の顔が面白かったのだ。
懲りずに女達に突撃していったトレランティアを横目に、クィルは糖蜜をとかした酒を呑んでいた。帝都の片隅にある酒場には、品質のいい酒は置いていない。ハイアーン産の蒸留酒にしこたま糖蜜をいれ、お湯で割ったものを選んだが、さしてうまくもなかった。
トレランティアは身長こそ高くはないが、みっともない格好はしていない。趣味がよく、弁舌爽やかで、天下にとどろくダンスの腕前をしていた。ただし、自分のものになりそうもない女を追いかける悪癖がある。
クィルはそのことを、彼と話し合ったことさえあった。お前が失敗ばかりするのは、決して自分のものにならない女でないとやる気を出さず、自分を好いてくれる女には魅力を感じないからだ、と。それはお前が、競い合いに勝ち、勝負に勝利し、成し遂げられそうもないことを次々成し遂げてきたことの弊害なのだ、と。トレランティアはそんなばかな話はないと否定したが、長いこと傍で見ているクィルにはそれは明らかなことだった。
それに比べ、クィルは自分を「金のかからない男」だと自負している。
勝てる勝負にしかのらないし、無理そうな女は端から眼中にない。勝つことに慣れ、なにもかも自分の思い通りにしてきたトレランティアのような大勝利は、クィルは欲していないのだ。その時のちょっとした喜び、ちょっとした楽しみを味わって、気持ちよくお別れするのが彼流だった。
さいわい、それがゆるされるだけの外見は備えていた。背が高く、四肢が長く、ひきしまった体格をしている。膂力を用いた喧嘩で負けたことはないし、荒事に親しんでいるにしては優しげな顔立ちだ。それになにとりも、彼の懐には大概の場合、金が唸っていた。
だから、商売女らしい小柄な女性が壁によりかかって立っているのを目の端に捉え、クィルはゴブレットを置いて立ち上がった。金ですむ女は、彼にとっては一番楽で間違いがない。トレランティアに云わせれば、情緒も、相手への尊敬もないそうだが。なにしろトレランティアは、そういった商売を潰そうと躍起になっている。
友人に対して不義理だろうか、と思い、しかし彼女らにも生活があるのだ、と思い直して、クィルはそちらへと歩いていった。
小柄だと思ったが、近付くと思っていたのよりも小さいのがわかった。クィルの胸の辺りにやっと頭が届くくらいだ。くしゃくしゃの髪を長く伸ばし、商売女らしくなく頭のてっぺんでまるめて飾りを挿しているが、あまり器用とは云えなかった。慣れていないのだろう。小さな体に、髪飾りが重たそうだった。
彼女は肩が見えるドレスを着て、寒そうに腕をさすっていた。目を大きく開いて、誰かをさがしているふうだ。
「お嬢さん、ひとさがしですか?」
礼儀正しく声をかけると、彼女はぎこちなくクィルを仰いだ。首の滑らかな肌が目にはいって、クィルは唾を嚥む。彼女は目を瞠っているので、なにかを不思議に思っているように見えた。
クィルは根気強く繰り返す。「誰かをさがしているのかな」
「はい」
クィルはにこやかに頷く。女性はじっと、クィルから目をはなさない。胸のふくらみが大袈裟に上下した。小柄で痩せていて、まるで少女のようだが、顔や声から大人の女性だとわかる。
クィルは女性が、あなたをさがしていた、というのを期待していた。そういう符牒は、帝都の盛り場ではよく聴かれるものだった。
それに、女性と目を合わせた時に、なにか、それまでの女性とは違うものがひらめいた。そう、クィルには感じられた。
しかし彼女は目を伏せ、彼から顔を背けた。クィルは残念に思ったが、礼儀正しくお辞儀して、そこからはなれた。勝てる勝負しかしないと決めていたのに負けた、そのことを少しだけ悔しく感じながら。
「騒がしいな」
やはりうまくいかなかったトレランティアと一緒に、ごみごみした路地をあるいていると、彼がふと足を停めた。先程の女性に振られたことを思い出して、俯いていたクィルは、友人の隣に並ぶ。
トレランティアが首を伸ばすみたいにして、脇の、せまい路地を覗きこんだ。そちらからはくぐもった声がしている。クィルは友人を停めようとした。「無粋をするものじゃない」
「しかし……」
「お前が女達の稼ぎをいやがっているのはわかるが、まだ禁じられたことではないんだ。好きにさせてやれ」
そう、だからあの女が俺の誘いを断っても、誰も咎めることはない。無理に女に客をとらせたり、女に無理強いするようなばかは、くそ忌々しい皇帝陛下の思し召しで首をはねてもらえるしな。あたらしい皇帝陛下の決める法律は忌々しいものばかりだ。
がしかし、クィルはその手腕を認めてはいた。忌々しいくらいに仕事のできる男だと。
トレランティアが路地に飛びこみ、クィルは舌を打ってそれを追いかけた。「おい、ランチ」
「ばか! お前の思っているようなことじゃない!」
聴こえてきた掠れた悲鳴には紛れもなく恐怖がまざっていて、クィルは友人を追い越して走った。
路地の奥では、女性がふたり倒れていた。地面にじわじわと血がひろがり、しみこんでいる。その傍で、重ったるい、足首まで覆うローブを羽織った女性が、汚らしい壁にはりつくようにして立ちすくんでいた。その手が血で汚れている。わずかな月明かりでそれらを見てとり、クィルは息をのむ。立ちすくんでいるのは、彼を袖にしたあの女性だったのだ。
クィルがなにか云う前に、くらがりから飛びだしてきた男が彼にぶつかってきた。クィルは男の持っていた短剣を叩き落とし、長い脚を振りあげて男の顎へぶつける。男は声もたてずにその場に崩れ落ちた。
トレランティアが追いついて、あらたにあらわれた男を頭突き一発で沈めた。「クィル! そのお嬢さんをつれて逃げろ!」
「トレランティア、礼はあとでするから、生きて戻れよ!」
クィルは友人の返事を聴く前に、怯えきった顔の女性を両腕で抱え上げ、来た道を戻った。
帝都の路地は、中心地は数年前の火事のあと整備され、わかりやすくなった。宮廷を半焼したおそろしい火事だったが、皇帝陛下は無事だったし、整備のおかげで暮らしやすくなったと評判である。
しかし、場末はそうでもない。行き止まりの路地、妙なところへ通じた路地、人通りがやけに多い場所、反対に人通りがほとんどない場所、いろいろな場所があった。
友人とふたりで毎夜遊び歩いているクィルは、それを熟知していた。闇雲に走って逃げるよりも、抱き合って座りこんでいるほうが怪しまれず、安全であることも。
「しずかに」
座りこんだクィルは、抱きかかえた女性にそう命じた。かすかな頷きが返ってくる。女性は何度か、痙攣するような動きで手を拭っていた。その手はまだ血で汚れている。顔や髪からも血の匂いがした。仲間を殺され、助けようとしたのだろう。
女性は震え、洟をすすった。泣いているらしい。クィルはそれに、どうしようもない愛しさがこみあげてきて、彼女をぎゅっと、きつく抱きしめた。「大丈夫。俺がついているから」
女性は小さな手で、クィルの上着を掴む。クィルは彼女の頬に口付けた。そうせずにはいられなかった。
酔っぱらった連中が、楽しそうに歩いていく。クィル達に気付いても、邪魔をしようとはしない。口笛を吹いてはやしたてるばかは居た。
うっすら空が白んでくる頃、クィルは女性を抱えたまま立ち上がった。女性は、眠ってしまっている。彼女がどこの誰なのか、知らない。住んでいる場所も知らなかった。なら、つれて戻っても問題はないだろう。目を覚ますまでだ。彼女が目を覚ましたら、礼儀正しくそこで別れればいい。
でも、もっと長く彼女と一緒に居たい、と思っているのもわかっていた。勝てる勝負だけしかしないのに、トレランティアに感化されたようだ。友人は選ぶべきだな……。
結局、自分の思い通りにならない女だからよく見えているのだ、と、クィルは自分にいいきかせようとした。しかし無駄だった。
邸へ戻り、女性をめしつかい達に任せてから、クィルはひと眠りした。彼女の香りと手触りを夢に見て、あまりいい眠りではなかった。目が覚めてからも、日課の乗馬と剣の稽古をこなし、その間中、彼女のことを考えていた。
「だいぶ顔色がよくなったみたいだ」
午后、汗を落としてさっぱりし、広間へ這入ると、項垂れた彼女が椅子へ腰掛けていた。クィルが声をかけても、おそれるようにちらりと視線をくれるだけだ。傍には年老いた侍女がふたり居て、彼女に食事をさせようと頑張っている。小さくて愛らしい彼女は、めしつかい達がつい世話を焼くような「放っておけない」雰囲気があった。
クィルは侍女達から、咎めるような目を向けられ、首をすくめる。片方が近付いてきて、彼に耳打ちした。「旦那さま、こんな可愛らしい子になにをなさったんです。怯えちまってまともに口もきかないんだから」
「俺はなにもしていない」クィルは低声で、しかし強く返した。「彼女は……喧嘩にまきこまれたんだ。俺が救い出した」
「旦那さまが喧嘩にまきこんだの間違いじゃないんですかね」
侍女はひややかに云い、ふんと鼻を鳴らした。「とにかく、あったかいものと、なんなら甘いものでもくわせてやるべきですよ」
「食べないのか?」
「食事をとらないどころか、まともなことは喋りません。でも、あの髪飾りをとろうとしたら、泣いていやがるんですよ。可哀相にね。ばかどもの喧嘩を見て、心が縮こまってるんでしょう」
侍女は同情するように彼女を見て、溜め息を吐く。
クィルも同じように、溜め息を吐いた。おそらく、めしつかい達がはりきったのだろう。彼女は(一体そんなものがどこから涌いてでたのか知らないが)しゃれたドレスを着て、小さくまとめた髪にはあの重そうな飾りを挿していた。毛先はうなじを覆うようにせなか側に垂れ、腰の辺りまで届いていた。くしゃくしゃの髪だ。南のハイアーン人の血がまじっているんだろうか。
なにかに怯えるみたいに、彼女は大きく目を瞠り、クィルを見た。クィルは彼女を安心させようと、微笑み、ゆっくりと近付いていく。「なにか食べたほうがいい。落ち着いたら、家までおくろう」
「あの」
彼女が言葉を発したので、侍女達が息をのんだ。クィルは小首を傾げ、続きを促す。彼女は目に涙をためていた。「わたし……帰るところがなくて……」
なにがなんでもあの子を迎えいれてくれなくては、と、侍女達から猛烈な攻撃をうけ、クィルがやっとこ食事にありついた頃には、スープがひえていた。侍女達は彼女をひいきして、彼女の皿だけあたらしいものにかえた。
「名前を聴いても?」
彼女はためらっていたが、もごもごと答えた。「……シーカ」
「そうか。変わった名前だな。俺はクィルという。昨夜は災難だった」
努めて優しく云うと、シーカは首をすくめた。大切そうに持ったパンを引き裂き、小さくして、口へ運んでいる。クィルはその様子が可愛らしくて、頬をゆるめた。成程、侍女達が大騒ぎするのもわかる。彼女は可愛い。
そう考えてから、侍女達が騒ぐよりも前に自分が彼女に目をつけていたのだと思い出し、クィルは赤面した。彼女にまず最初に参っていたのは俺だった。
シーカはちまちまとパンを食べ、侍女達があたためなおして持ってきたスープを飲んで、はちみつをなめた。甘いものが好きなのか、はちみつには目をきらきらさせていたが、それ以外ではほとんど喋りもしなかった。
クィルがそれを眺めてにまにましていると、侍女達がやってきた。なんでも、彼女のドレスやなにかを用意するのに、金が必要らしい。クィルはそれらはすべて、好きなようにしていいと答え、侍女達を追い払った。彼女を見ていたかったのだ。
トレランティアは唇を切っていたが、それ以外は無事だった。
「あまり無理をするなよ」クィルは窓辺で、友人に背を向けたまま云う。「身長がそれ以上小さくなったら困るだろう」
「煩い、無駄に背ばかり伸びた人間は偉そうで扱いづらい。弟も俺を見下ろすようになったしな。あいつは無駄に体を鍛えているし」
トレランティアは不機嫌に云い、侍女達がいそいそと用意していった砂糖菓子を口へ含んだ。侍女達は客人に出すついでにシーカにも砂糖菓子を与えられるので、大喜びなのだ。まったく忌々しい、可愛い女だ。侍女達は彼女に夢中、そして俺も、トレランティアの話を聴かなくてはならないのに庭に出ている彼女を見ている。
こんなことは初めてだ。何故、彼女にこうも執着してしまうのだろう。どうしても彼女を見ていたい。
「昨夜の騒ぎはなんだったか、気にならないみたいだな」
「気になるさ。あの女達は?」
「あの辺りを縄張りにしていた女達だ。だからわたしは、ああいう商売を禁じたいと云っている。ろくでもない人間が狙うのは、いつだってああいう弱い者だろう。なんの利害もなく、楽しみだけで殺しをする人間達で、軍の営舎におしいった者が居たか? 屈強な男だけを狙って殺した人間は? 将軍や歴戦の闘士だけを狙った人間は?」
「聴いたことがない」
肩をすくめ、クィルはやっと、シーカから目をはなし、友人を見る。シーカはクィルの年老いた侍女をふたりつれ、庭の栗の木に腰掛けていた。一本、うまく育たなかった栗の木があり、切り倒すかどうか迷っていたのだが、彼女が座るのに丁度いいのなら放っておこう。
トレランティアは呆れ顔だった。
「お前は女に血道を上げる人間ではないと思っていた」
「なにを云っている?」
「いや、いい。彼女は、殺されていた女の仲間だろう。おそらくな」
「あの男どもは?」
「知らん。捕まえたが、逃げられた」
「無能め」
「お前、誰に口をきいている」
「お前だよ」
簡単に返すと、トレランティアは笑った。
「彼女を家へ帰さないのか?」
「うちの女連中に聴いてくれ。可愛いお人形を手にいれてご機嫌なんだ。はなそうとしない」
窓の外を示すと、トレランティアはもう一度くすくすする。「彼女を手放したくないのはお前もだろう。しかし、身許は調べたほうがいいぞ。このところはなにがあるかわからん」
「本当にな。無能な皇帝があたらしい決まりを次々と決めやがるし、貴族でもないお気にいりの海賊を将軍にとりたて、女まで政治に参加させ、見込みのある皇太弟は才媛に振られて属国の木っ端貴族と婚約だ。世も末だよ」
クィルの言葉に、トレランティアはただ肩をすくめた。
シーカがうなされる、というのは、それまでも聴いていた。彼女は度々、叫んで飛び起き、邸から出て行こうとするらしい。
クィルは仕事などもあってそれを直に目にしたことはなかったが、その晩は別だった。
悲鳴に、書類に目を通していたクィルは顔を上げ、燭台を手に部屋を出た。客室のほうから騒ぎ声がする。「お嬢さま、大丈夫ですから――ああ、旦那さま」
侍女達が汗だくになって振り返った。廊下の壁によりかかり、シーカが座りこんでいる。彼女は体をまるめ、大切そうに髪飾りを抱え込んでいた。
クィルは侍女に燭台を渡すと、彼女を抱きかかえ、部屋へ戻した。侍女達がほっとした顔でお辞儀し、その場を去る。クィルは彼女をベッドへおろし、彼女は泣いて謝った。「ごめんなさい」
「気にするな。おそろしい夢を見ることは誰にでもある」
「……クィルさまにも?」
子どもっぽい口調に、クィルは頷いた。椅子をひっぱってきてそれに腰掛け、彼女の肩をやわらかく叩く。
「君に話したことはなかったな。俺は漁師の子でね。人生の大半を、海の上ですごした。こうして成功したんで、今は海を離れているが、まだ沢山の船を持っているよ。たいした話でもないが、まあ、ろくでもない連中とやりあったり、仲間内で喧嘩をしたり、いろんなことがあった。なかでも一番、おそろしいのは、嵐だ。たまにそれを、夢に見る」
「……あらし」
「ああ。嵐になれば、人間というのは無力だ。なにもできやしない。丁度、病を得るのに似ているな。人間にはどうしようもない、天の力というものを感じる。嵐で船が木の葉のように揺られ、まわり、海に慣れている乗組員達でもみっともなく吐いて、吐いて、吐きまくる」
大袈裟に下品に云うと、シーカはかすかに笑みをうかべた。その目に涙がまだ残っている。
「クィルさまでも、どうにもできないんですね」
「嵐をどうにかできるとしたら、それは天の力か、なにか冒瀆的な力に拠るものだよ。我々は無力だ。嵐に対しては、俺も君も、かわりはない。まあ、俺のほうが少しは、対処法を知っているかもしれない」
おどけた声に、シーカはくすっとした。クィルはその肩を、優しく撫でる。「目を瞑って。おやすみ」
シーカは目を瞑る。大切そうに飾りを掴んだままだ。クィルはそれを取り上げようとしたが、考え直して辞めた。彼女がそれを大切にしているのは、知っている。侍女達が幾ら云っても、似合いもしないそれを絶対に体から離そうとしないのだ。なにか、思い出があるのかもしれない。
シーカはやわらかいドレスに体を埋めるようにしていて、クィルはそれを眺めながら、はちみつをといたお湯をすすった。侍女達はすっかりシーカを気にいり、あれやこれやと彼女の為に仕立て、用意し、今にも彼女が女主人になると思っている。客室にいれられていたシーカは、いつの間にか綺麗に調えられた女主人用の部屋に移っていた。
しかも、侍女達の勘違いを否定したくないのが、クィルの偽らざる気持ちだった。クィル自身、シーカを可愛らしく思い、できることならずっと邸に留め置きたかった。
その為には、結婚がてっとりばやい。どちらも体面を保て、女性が男性の邸に永続的にとどまる、ごく自然な理由になる。
「シーカ?」
夕食後、星明かりの庭に出て、裸足で歩きまわっていたシーカは、あたたかいはちみつ湯のはいったマグをふたつ持ったクィルがやってくると、優雅にお辞儀した。「クィルさま」
「これを」
「ありがとうございます」
シーカはマグを、小さな手でうけとると、ふうふうとさましはじめた。子どもっぽい、可愛らしい仕種だ。髪がふわふわと揺れている。
クィルはシーカの髪へ触れた。彼女はぱっと顔を上げ、クィルと目を合わせた。「クィルさま?」
「シーカ、君のような若い女性が、男の家に長逗留するのは、少々外聞が悪いだろう」シーカの表情が曇る。クィルは鼓動がはやまったのを意識しながら、続きを口にした。「それで、提案なのだが、俺と結婚するというのは? そうすれば、君の名誉も保たれるし、うちの侍女達がきっと……」
クィルは、シーカは喜ぶだろう、と思っていた。彼女は夜の町で商売をしている女性で、はじめて会った時の格好などから、その生活が楽なものではないのは見てとれた。これまでの彼女の暮らしと、ここの暮らしは、おそらく天と地ほどの差がある。結婚すれば今の暮らしを続けられるのだ。侍女達にかしずかれ、あれこれと世話を焼かれ、好きな甘いものを食べ、なにも強制されない暮らしを。
だが、シーカは泣くような顔をした。「わたしと……? どうしてです……?」
「それは……君の名誉もあるが、俺の名誉もある」
思ってもいなかった反応に、クィルはつい、いいわけじみたことを喚いていた。「若い女性を、そのつもりもないのに長いこと邸に泊めたなんて不名誉は、ごめんだ」
「それは……」
シーカは項垂れる。そうすると、髪をまとめた飾りがよく見えた。例の、重たそうで、彼女には似合わない、不格好なものだ。「……わかりました」
「え?」
「クィルさまと、結婚します」
シーカはまるで、死にます、と云ったみたいな顔をしていて、声もそんなふうだった。彼女はまったく、求婚を喜んでいなかった。
シーカは涙を隠すみたいに、洟をすすりながら走っていった。クィルは腹立ち紛れに地面を蹴り、マグをその場に叩きつける。俺はなにを失敗した? 都の一等地に邸を持っている男が、女に求婚して、どうして泣かれるんだ? 彼女が関わると、うまくいかないことばかりだ。
「それはお前が悪い」
応接間で脚を組んだトレランティアは、砂糖菓子を食べ、レモンのジャムを舐めている。彼お気にいりの組み合わせだ。侍女達は彼が来るといつでも出せるように、砂糖菓子は常備しているが、レモンのジャムは味がいいものでないとトレランティアが納得しない。だから、レモンのジャムはある時とない時とがあった。
「何故」
いらだちをこめて返すと、トレランティアはにんまりした。
「女のことでお前に助言する日が来ようとはな」
「女に振られてばかりの人間に助言をしてほしいなんて云っていない。口が裂けても云うものか」
「だが、お前はへまをした。なににつけ、端で見ている人間のほうがよくわかることはある。だろう?」
クィルははちみつ湯をすすった。声を尖らせる。「なんだよ。だから、なにが悪かった。俺は礼儀正しく、彼女に結婚を提案しただけだ。野蛮な行いはしていない」
「なにも用意せずに女に求婚する人間が居るか? ああ、居た、目の前に。なんてこった」
トレランティアの芝居がかった調子は、クィルの神経を逆なでしたが、彼は辛抱強く友人の言葉を聴いていた。
「はちみつをとかした湯をいれたマグを片手に求婚か。もてる男は違うね」
「煩い」
「お前は知らないみたいだから教えてやるが、求婚する場合は宝飾品を持っていったほうがいいぞ。女性が結婚式で身につけることができるようなものであればなおいい。でなくば、金を持っていくかだな。結婚式に必要なものがどれだけあるか、ここで数えようか? それを用意するために女性がどれだけ気を配るか、心を砕くかも?」
クィルは唸り、机に突っ伏した。今回ばかりは言葉もない。どう考えてもトレランティアのいうとおりだった。俺は失敗をした。気が急いて、なにも用意せずに彼女に求婚した、ばかだ。
なんとか失敗を帳消しにしようと、クィルは頑張った。シーカを芝居に誘い、祭礼の日にも一緒に出掛けないかと持ちかけ、彼女に似合いそうな装飾品やドレスを見繕って入手した。
だがシーカは、食事こそ一緒にとるものの、それ以外ではほとんど顔も合わせてくれなくなった。芝居や祭礼は、頭痛がする、と断られ、贈りものには丁寧な礼が返ってくるが、それだけだ。
「結婚式までの辛抱ですよ」
密かに歯がみするクィルを、侍女達はきちんと理解していて、書類仕事に励む彼にビスケットを出しながらそう云った。クィルはビスケットが好物だ。長い間海に出ていた彼にとって、ビスケットは命の象徴である。
「シーカお嬢さまは、はずかしがっておいでなんです」
「一体、なにをはずかしがるんだ」
「結婚を」
クィルは片眉をつり上げる。「結婚は名誉なことじゃないか」
「そりゃそうでしょう。でも、若いお嬢さんにとっては、不安ではずかしいことですよ。旦那さまだって本当は不安でしょう。じゃなくちゃ、シーカお嬢さまが相手にしてくれないくらいですねたりしません」
云い返せなくて、クィルは唸った。侍女はマグにお茶を注ぎ、はちみつのつぼを添える。「あの子は可哀相に、男女のことも知ってしまっているから、旦那さまがおそろしいことをしないか怯えてるんでしょう。彼女が今よりも酷くうなされても、旦那さま、驚かないであげてくださいまし」
侍女に云われるまで、まったくそのことを考慮していなかった。そういえば、シーカはそういう仕事をしていたらしい。もしかしたら、酷い客に遭ったことがあるのだろうか。それで、男をおそれているのかもしれない。
夕方、トレランティアとの会談から戻ったクィルは、庭に出てあみものをしているシーカを見付けた。彼女は身軽で、木に登るのが得意なのだが、また、背の高い楠にのぼって、可愛らしい脚をぶらつかせている。
従僕に馬を任せ、クィルはそちらへ走る。シーカはぎこちなくあみばりを操っていた。
「シーカ」
ぱっと、彼女は顔をこちらへ向ける。膝の上のものをとりあげて、抱え込んで。「クィルさま」
「君が不安に思っているのなら、それを解消したくて」
なんといったらいいのかわからず、クィルは唇を嚙む。どうして、彼女相手だと言葉がつっかえるのだろう。仕事ならば大丈夫なのに。
「俺は……君を傷付けたくはない。絶対に」
それ以上に云いようがなく、クィルは踵を返して走っていった。シーカはしばらく、その場でじっとしていた。
「よう、カドゥール」
トレランティアの友人のカドゥールは、クィルに対して肩をすくめた。トレランティアはきまずそうに顔を伏せている。「どうした? 君が俺の前に姿をあらわすなんて、めずらしいな。トレランティア、これはどういうことだ? お前の弟のことでなにかあったのか?」
「クィル、君には悪いんだけど」
カドゥールは本当に申し訳なそうに云った。「君が家に置いている、シーカという女性。彼女は殺人者だ」
馬を酷使して家へ戻り、面喰らった様子の従僕に馬をおしつけて走ると、シーカはまた、庭であみものをしていた。「君が殺したのか」
シーカは顔を上げた。くらい目をしている。
「君が、あの女ふたりを殺したのか?」
カドゥールの話は、要約するとそういうことだった。情況から、あの女性達はシーカに殺されたと考えるのが妥当だ、と。
シーカはたしかに、手や顔に血をつけていた。それは、襲われたふたりを助けようとしたからだと思っていた。
シーカは項垂れる。「はい」
クィルはシーカの腕を掴み、ひきずっていった。シーカは声をたてることなく、黙って歩いた。
「彼女を部屋から出すな」
「旦那さま、ですが……」
「俺はトレランティアと話がある。絶対に彼女を部屋から出すな。ひとりにもするな。俺が戻るまで見張っていろ!」
侍女達に命じると、クィルは踵を返し、従僕に怒鳴り散らしながら馬を用意させ、邸を出た。
すべてのことを終え、打ちひしがれて邸へ戻ると、眠たそうな顔の従僕が迎えてくれた。かすかな灯がともった玄関広間へ這入る。「旦那さま、お疲れのようで」
「なにかくいものを用意しろ。なんでもいい」
クィルは外套を脱ぎ捨て、社交室へ這入った。椅子へ腰掛け、侍女が持ってきたはちみつ湯を一息にあおる。侍女は不安そうだ。「旦那さま、いかがなさったんです? シーカお嬢さまになにか?」
「その話はしたくない。彼女がまだ無事に生きているのなら、なにも云うな」
クィルは自分の思ったよりも不満そうな声が出て、唸った。なにもかもうまくいかない。彼女に関わるとろくなことがない。
侍女はしょんぼりと肩を落とし、さがっていった。クィルは夜食を待ったが、一向に運ばれてこない。
いらいらした気分の彼は、ふと、これはあまりにも遅すぎるのではないだろうか、と気付いた。幾らなんでも……。
「アピス?」
侍女の名前を呼びながら椅子を立ち、クィルは出入り口へ向かった。彼が扉に手をかけようとした丁度その時、扉が開き、黒い服を着た男達が這入ってきた。「なんだ、貴様ら……」
男達が武器を振りかぶった。或いは、かまえた。ろうそくの明かりで男のかまえた短剣がぬらぬらと光っている。シーカ!
「大義の為に、死ね」
「将軍、覚悟!」
クィルはひとりめの男を蹴りで退けたが、ふたりめがそのすきにクィルの胸めがけて短剣をくりだした。
だが、それが彼の体に触れることはなかった。
「シーカ」
彼女がそこに立っていた。寝間着姿で、あの髪飾りを握りしめて。あの髪飾りは、短剣を持った男の脇腹にくいこんでいた。
短剣が落ちる。
男は呻きながらその場に膝をついた。髪飾りが体からぬけ、血があふれる。シーカは喘ぎ、手を裾で拭う。
クィルはその手を掴んだ。シーカははっと、彼を見る。「シーカ、ありがとう。でも、こんなむちゃは二度としないでくれ」
「く。クィルさま?」
「ああ、シーカ、シーカ……」
クィルは彼女を抱きしめ、彼女は泣き出した。その手から髪飾りが落ち、床の上ではねる。
カドゥールがシーカの髪をあんでいる。
クィルはそれを見ていた。結婚式は無事に終わり、シーカは正式に彼の妻になった。将軍、トランクィリタースの。
トレランティアは砂糖菓子を嚙み、蒸留酒をすすっている。「趣味の悪いことをするな」
「糖蜜を蒸留酒にいれるのは流行りなんだぞ」
「砂糖菓子ではあわない。カドゥール、俺に妻を返してくれないか」
カドゥールは肩をすくめ、手をおろした。微笑んでシーカに云う。「シーカ、次はわたしの番。お願い」
「はい、カドゥールさま」
シーカがカドゥールの髪をあみはじめた。カドゥールはにんまりし、クィルに対して鼻を鳴らす。クィルが苦手としている、可愛げのない気の強い、甘いところのない女だ。
「これくらいしてもらってもいいでしょう」カドゥールは自慢げに胸を張った。「将軍閣下と皇帝陛下の命を救ったのだから。ねえ、トレランティア?」
トレランティアが肩をすくめた。
話は簡単だった。シーカは、あたらしい政策を次々と打ち立てる皇帝に反発する連中が用意した、刺客だったのだ。数年前の、宮廷を半焼した火事も、その一派の仕業であったらしい。
シーカは北方のラヴィーネという、帝国の従属国の出で、幼い頃に親に売られた。シーカは本名ではないが、本当の名前は忘れてしまったという。
彼女は客をとってなんとか生きていたが、その身軽さと愛らしさに、目をつけた連中が居た。
そいつらは大枚を叩いて彼女を手にいれ、暗殺者として鍛えた。殺されるかもしれないというおそれから、彼女は逃げることもできなかった。
そしてあの日、商売女のふりをして、遊び歩いているトレランティアとクィルを殺しに来た。お忍びで都の実情を調べ、次の政策である私娼の禁止を打ち出そうとしている、皇帝のトレランティアと将軍のクィルを。
だが、シーカはそれをやれなかった。折角クィルに話しかけられたのに、ふたりきりになる機会が幾らでもあったのに、しなかった。
「クィルさまを……好きになってしまったから」
と、彼女ははじらうみたいに項垂れて云った。クィルは満足した。彼女の言葉が嬉しくて。
彼女は仕事に失敗したと云い、ほかの女達が仕事を引き継ぐことになった。彼女はその女達に殺されそうになり、反撃した。放っておけばクィルさま達を殺すかもしれないから、とも云っていた。
侍女のアピスがやってきて、くすくす笑いながら、あたらしい水差しを置いていく。彼女はあの晩、厨房で倒れていた。頭を打ったが、目を覚ましてあとは何事もなく、元気にしている。シーカが彼女たちを見付け、応急処置を施していたこともさいわいした。それで彼女は、何者かの襲撃に気付き、なにを置いてもクィルを助けに駈けつけてくれた。
あの晩、邸を襲撃したのは、皇帝に反発している貴族の一派だった。貴族達は、漁師の子どもで海賊をしていたクィルや、女のカドゥールが、政治に関わることをよしとしていない。ついでに、女達に無理に仕事をさせてこっそり儲けている者達も、トレランティアのやりかたを苦々しく思っていた。
あの直後、カドィールが指揮する兵士の一団がやってきて、男達を捕らえた。邸に忍び込んだがクィルの前に姿をあらわさなかった連中や、そいつらに指示をしていた者達も、カドゥールが即座に手を打って、おかげで逃がすことはなかった。
シーカがすべてを喋ったこと、女性ふたりを殺したのは正当防衛だったことが評価され、トレランティアは彼女を放免した。クィルがかけあった時は、どんな理由であっても一度はトレランティアを狙った可能性があるのであればゆるす訳にはいかない、と、カドゥールががんとして首を縦に振らず、どうにもならなかったのだが、シーカがすべてを話したのでカドゥールも納得した。
それ以前からカドゥールが調べていたことを、シーカの証言が裏付けることになった。カドゥールはトレランティアに無用に逆らう連中を一網打尽にできただけでなく、いずれ首をはねてやれると、大喜びなのだ。その日は決して遠くない。
クィルも、それに関しては喜んでいる。シーカを苦しめた連中を血祭りにしてやりたい気持ちは、クィルが一番強いだろう。
だから、シーカはなにも、罪に問われなかった。あの男を刺したことも、クィルを助ける為だったと、なにも咎められない。寧ろ、帝国の将軍を救ったと、表彰しなくてはならないね、とカドゥールは云った。けれど、彼女はそれをしなかった。シーカがどんな理由でもひとを傷付けたのを後悔していると、わかってくれたからだ。
カドゥールは髪をあんでもらってご満悦だ。シーカは三人に断って部屋を出、どこかへ行った。
「カドゥール、今夜は俺達の結婚初夜だ」
「だから?」
「邪魔をするな」
「それは、トレランティアに云ったら? わたしは彼のお供できているだけだから」
トレランティアを睨む。彼は肩をすくめる。
シーカが戻ってきた。彼女は少し、痩せてしまった。でも、これから健康になる。心が癒えれば、表情も明るくなるだろう。
「あの、クィルさま」
「うん?」
「これを……あまり、上手じゃないのですけれど……」
シーカは、手にした毛糸の塊を、クィルへ渡す。ひろげてみると、なんとなく長方形になっていた。「膝掛けです。小さな頃、母が父に、そう云ったものをあんでいて……しっかり教わる前に、わかれたので……」
「これを俺に?」
「はい」
シーカはぎこちなく笑った。クィルが彼女を軽く抱きしめる。「ありがとう、シーカ」
「いえ、これくらい……」
シーカははずかしそうに微笑み、にまにまするカドゥールとトレランティアを見遣った。にこっとする。「あの、カドゥールさまは、陛下に、こういうものは差し上げないんですか?」
彼女が皮肉でもなんでもなく云ったことに、カドゥールは見る間に赤くなった。クィルは笑う。「次は君の結婚式をするみたいだな、トレランティア? 子どもをなやませない名前を今から考えるべきだぞ。彼女と一緒にな!」




