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路面電車の車窓から吹きこんでくる蒸し暑い風に、鳳至夕星は浅い眠りから覚める。
この電車に乗ってから二時間半。十六歳とはいえ、同じ姿勢で延々と目的地まで揺られるのは疲労をともなう。
立ち上がって背中を反ると腰に軋むような感覚があった。
腰を両手でほぐし、そのまま上半身をひねったり、通路で屈伸しても誰の目も気にならない。
なぜなら電車には、彼しか乗っていないからだ。
運転手さえもいない、この一両編成の電車は自立プログラムで運行されている。
数十年前から続く人口減少に歯止めがきかず、国内のさまざまな分野が衰退していった。
さらに政府は未成年保護管理法を制定。その法によって小学校卒業と同時に子供たちは親元を離れ、義務教育の中学校と高等学校へ強制的に入学させられる。
狙いは過多な大人と希少な子供との接触を排除することにより、健全な社会を築くことにあった。
『究極の過保護政策』と反対する者も続出したが『貴重な子供たちを大事に扱うべき』と賛成する者が多くいたのも事実であり、国内の意見を二分したその法案は二十年前に施行されて現在に至る。
夕星は座席横の革張りトランクに入っていた平板状の学校専用端末を立ち上げる。
画面の路線マップを見ると次の駅は終点学区になっていた。
学区というからには学校があるわけで、彼は転校生なのだ。
(もうすこしで到着か)
席に座り直して流れゆく深緑を車窓から眺める夕星であったが、それもすでに飽きていた。
全校生徒数が五人のそこは最果ての学区ともいわれている。
転校の通達は簡素なもので学校専用端末に転校先学区までのルートが配信され、指定の日時にそこへ移動するのみだ。
夕星のいた学区だと転校は”辞令”と揶揄されており、「他の学区に転属することになった」と去っていった者を彼自身も見てきた。
辞令に逆らう者は政府直轄の学校から生徒たちがやってきて捕縛される噂がある。
夕星は辞令に反逆しようなどと思わなかった……というよりも発想になかったというべきである。
彼が何気なく足元の木床を見下ろすとそこには三つの点があり、それを人面だと錯視する類像現象と同様、人間など常識や慣習にとらわれるものだ。
過去の人々からすれば馬鹿らしいかもしれない現在は、一種の合理性による結果がもたらしたものといえる。人口が減ったから社会が退嬰し、子供が少ないから病的なほど保護する。
夕星を含めた当事者たちにとって未成年保護管理法は善悪という次元ではなく、ただの厄介な籠のような存在でしかなかった。
夕星は車窓から身を乗りだす。
まっすぐに敷かれたレールの左右を緑の木々が後方にフェードアウトしていき、油絵具のチタニウムホワイトを塗りたくったような入道雲が濃影を浮かびあがらせ、前方に広がっていた。
すぐさまトランクからクラシックカメラを取りだし、夕星はその光景にシャッターをきる。
カメラ背面の液晶ディスプレイに撮影した画像が表示された。
見た目は古いがデジタル方式で父から受け継いだものだ。
ハンザ・キヤノンという原型を使った珍しいカメラであるが夕星はそっち方面に疎く、手にしているそれがどれほどレアな価値をもつのかしらない。
撮影する理由としてカメラが手に馴染むのもあった。
使いこまれたボディには無数の小さな傷がつき、数多の戦場を経験した老兵のような風格が漂っている。夕星の生きてきた倍以上の歳月、カメラは世界を写してきたが前の持ち主だった者はこの世にいない。
小学五年生のころ、病室で夕星は父と二人きりになった。
病名は長ったらしくて彼は覚えていないが、命に関わる重病であるのはわかっていた。枯れ木のように痩せ細った父が大事にしていたカメラをくれるといったとき、『おとうさんはもうすぐしんでしまうんだ』と子供ながらに直感した。それを裏付けるようにカメラを渡された二日後、夕星の父は逝く。せめてもの救いは未成年保護管理法が適用される中学校入学前に死亡したことだった。
中学や高校の在学中に親族が死亡すると学校専用端末に報告メールは送られてくるが、実子でも学区内から出るのが許されていないので葬儀に参列できない。そのような社会からの徹底した隔離こそ、未成年保護管理法の意図するものであった。
こんな遠くまでこれたのも、通常では乗れない路面電車が夕星のために運行したからだ。転校先の学区まで徒歩で行こうものなら学区の敷地を超えた瞬間、守衛ロボに電気ショックで気絶させられて学校に連れもどされてしまう。
学区で脱走を試みた生徒がいたのだが、案の定、翌日には学校にもどっていた。
脱走者には重いペナルティーが課せられる。他の生徒との会話を禁じられ、罰則カリキュラムと称される課題を期間内に提出しなければいけなかった。その提出期間をすぎると守衛ロボに連行されて路面電車でどこかに移送される。
彼らは社会不適合者廃棄施設で光線を浴びせられて跡形もなく消されるとか、病院で洗脳手術され別人となって再び学区に放たれるとか、憶測と興味が混ざったゴシップとなって生徒たちのあいだで語られていた。
夕星がトランクの中にカメラと学校専用端末をしまっていると、車窓からの陽光が弱くなった。
真夏の、ぎらぎらした太陽は雲に隠れ、車内に吹きこんでくる風に湿気が混じる。
到着予定時刻が近づいており、夕星は今更になって不安に襲われた。
(向こうの生徒たちと上手くやっていけるのだろうか)
どんな場所においても人間関係が付きまとう。
学区の雰囲気を手っ取り早く知るなら、最初に学区長と話してみるのがいいかもしれない――我ながら、悪くない着眼点だと夕星は思った。
学区長とは文字どおり学区の長であり、通例として三年生の生徒が政府によって選抜され、その任にあたる。
伝聞によれば学区長の統治力が低いせいで暴力が横行する荒みきった学区もあるらしく、転校先がそうでないのを夕星は祈るしかなかった。
それほど学区長は校風に強い影響をおよぼす。大人がいない学区内では、学区長が指導者としての巨大な権限をもつからである。
夕星が路面電車のフロントガラス越しに雷光が閃くのをみた三秒後、バケツを引っくり返したような激しい雨が降ってきた。
窓を閉めた車輛内で目を凝らした夕星は人工物らしきなにかを進行方向に発見する。
(あれは……駅?)
電車が減速する。
夕星が唯一の荷物である革張りのトランクを抱えていると、車輌が停止して出入り口のドアが開く。
降り立ったプラットホームは雷雨のせいで薄暗い。
壁面にはボルトが一箇所はずれ、いまにも落下しそうな鉄板に下一桁が6の学区数字の駅名が書かれていた。全部で三桁らしい他の数字は塗装が剥げて読めない。
天井の一部は雨漏りしており、その水滴でホームの床がところどころが濡れている。
駅の廃れぶりに夕星が驚いているとホームの端から人影が歩みよってきた。
「一年生の鳳至夕星君だね。迎えにきた。俺は学区長をしている三年生の陽宇 慶だ」
慶は大人びた声で夕星に右手をさしだした。
「これからお世話になります」
右手のトランクをプラットホームの床に置き、夕星はぎこちない動きで慶と握手した。
半袖のワイシャツを着ている慶は西洋彫刻のように整った顔立ちで背が高く、同じ高校生なのが夕星には信じられない。
「あっちにベンチがあるから座って、休んだほうがいい。そのトランクは俺が持とう」
トランクを持った慶は戸惑う夕星の前を歩きだす。
「すいません、荷物を持ってもらっちゃって」
「ここはめったに来客のない土地だ。学区長らしく振る舞う機会なんて、こんなときくらいしかないのさ」
慶は構内にある古めかしいベンチに腰かけた。