提督の遺言
加藤寛治略歴
明治 三年 福井県に生まれる
明治二四年 海軍兵学校本科卒業(首席)
明治三六年 海軍少佐
明治三七年 戦艦「三笠」砲術長として黄海海戦に参加
明治四〇年 英仏独伊米を歴訪
明治四二年 英国駐在武官兼造兵監督官
明治四三年 海軍大佐
大正 三年 戦艦「伊吹」艦長。特別南遣枝隊司令官
大正 七年 第五戦隊司令官。ウラジオストク派遣
大正 九年 海軍中将
大正一〇年 ワシントン会議首席随員
昭和 元年 連合艦隊司令長官
昭和 二年 海軍大将
昭和 四年 海軍軍令部長
昭和 五年 軍事参議官
昭和一〇年 後備役
昭和一四年 逝去
昭和十三年六月三十日、前日から降り続いた大雨は午前中にあがり、午後から夏の日が顔を出しています。蒸し暑くなりはじめた頃、外務省調査部第一課の鈴木皓仁は、速記係の属官を伴って四谷三光町の加藤寛治海軍大将宅を訪れました。和洋折衷木造三階建ての邸宅は、功成り名遂げて引退した提督の住処にしては質素です。玄関を入って右側にある十畳の洋式応接間には風が通り、意外に涼しい。袴姿で現れた加藤提督は小柄です。短く刈り上げた頭髪はすでに白ものの、動作はキビキビしています。まもなく七十歳という年齢ですが、若者のように姿勢がよい。双方の挨拶が終わると、来意を承知した老提督は、促されるまでもなく語りはじめました。
―*―
国際会議、そう、ワシ自身が深く関わったのはワシントン会議の軍縮交渉だ。あれからもう十五年ほども経つのか。もちろんよく覚えている。ワシは中将だった。海軍主席随員として各国の代表と大いに議論した。ワシは対米六割での軍縮条約の締結に反対だった。だから、条約に調印しようとした首席全権の加藤友三郎元帥にずいぶん噛み付いたものだ。もちろん私怨ではない。日本の安全を思い、海軍の戦略を考案し、最低でも対米七割の艦隊が必要だと信じたからだ。その信念は今でも変わっておらん。
しかし、加藤友三郎元帥には元帥なりの深いお考えがあったのだろう。なにしろ元帥は沈勇で知られた人物だ。君も知っているとおり、日本海海戦のときには連合艦隊の参謀長を務めたお方だ。あのとき、このワシは陸に上がって海軍大臣の副官をしておったのだが、何としても日本海海戦に出たいと思って地団駄を踏んだものだ。それはともかく、ワシントン会議では、ワシがどんなに喚き散らしても元帥は平気な顔をしておられた。ワシはワシであまりに思い詰めて激昂しておったものだから、むしろ元帥がワシの心配をしてくれたくらいだ。
「寛治が自殺でもせぬように周囲の者が気を配っておれ」
そう言ってくれていたらしい。ワシは知らなかったのだ。後から人に教えられて申し訳なく思ったものだ。首席全権という激務の最中、しかもご病身だったにもかかわらず、余計な気を使わせてしまった。元帥にはなんとも申し訳ないことをしたものじゃ。本来ならばこのワシが元帥のご負担を軽くして差し上げねばならなかったはずだのに。とはいえ、やはりワシは六割での妥結に反対だったし、今でもその考えに変わりはない。日本は、兜の緒を締めるべき時に兜の緒を解いてしまったのだ。
どうしてそんなことになったかと言えば、先の欧州大戦に参戦して勝ちすぎたからだ。同盟国たるイギリスから要請があり、日本政府は欧州大戦に参戦した。陸軍は山東半島の青島要塞を陥落させ、海軍はドイツ極東艦隊を追い詰め、太平洋からインド洋まで連合軍の輸送船団を護衛した。戦場ははるか遠くの欧州大陸であり、日本にとっては負ける心配のない戦争だった。そして戦勝国となり、世界の五大国に列し、南洋諸島を得た。あまりに勝ちすぎたのだ。勝ち過ぎたがために兜の緒が緩んだ。昔、甲斐の武田信玄公が言ったとおりだ。
「およそ戦さというものは、十分をもって下となす」
十分の勝利によって驕りと油断が生じたのだ。その油断からワシントン会議で日本は譲歩しすぎた。日露戦争の後にはなかったことだ。あの時は、なにしろ国運を賭した戦争だったし、さすが明治の元勲たちに抜かりはなかった。そのおかげで日露戦争の後、日本の安全保障環境は大いに改善した。海に日英同盟あり、陸に日露協商ありだ。だからこそ明治末から大正にかけての十数年間、日本は安全を享受できた。
そこに欧州大戦が起こった。この大戦は日本にとって危機感の薄い外線作戦だった。しかも勝利したから、国民も政治家も新聞もすっかり油断した。すでに政治の実権は元老から政党に移っていたが、帝国議会が油断したのだ。油断などしておる場合ではなかったのだよ。なにしろ世界は戦国時代なのだから。
「一等国になったのだから、多少の譲歩を受け入れて大国の度量を示せ」
そんな調子の世論があふれていた。しかし、世界を相手に譲歩するなど愚の骨頂だ。このことは普通の日本人には判り難いかも知れぬが、日本と世界とでは交渉のルールが違うのだ。互いに我慢し合い、譲歩し合うのは日本人同士だけで通用する交渉ルールだ。日本国内の交渉ならそれでいい。こちらが譲れば相手も譲り、お互い様で交渉がまとまる。ところが国際社会はまるで違う。優勝劣敗、弱肉強食が当たり前なのだ。この点は外務省の諸君にはぜひとも理解しておいてもらいたい。外交交渉の国際ルールは悪徳商人のやり方と同じだ。大いに吹っかけて相手に譲歩を迫る。嘘も騙しもある。国際ルールでは譲歩は敗北と同義なのだ。こちらが譲歩すれば相手も譲るだろう、などと考えたら大間違いだ。相手は譲らない。それどころか日本が負けたとみてドンドン攻勢に出てくる。それが国際的な交渉ルールなのだから仕方がない。そのルールどおりに外国人は強気に出てくる。一歩を譲れば百歩を譲ることになる。国際社会では譲歩は敗北と同じだということを骨髄に徹しなければ国際交渉などできるものではない。ところが外務省の諸君は簡単に譲歩する。それは日本だけのルールなのだよ。国際社会は違う。
このことは相手がアメリカ人でもイギリス人でもドイツ人でも同じことだ。支那人や朝鮮人でさえそうだろう。謙譲の美徳は日本固有のものだ。この美徳が、国際社会における日本人の弱点になっている。国際社会で不用意に譲歩することは、実は恐ろしいことなのだ。そのことを外務省の諸君は認識していないようだね。日本側の謙譲を相手国は敗北と受けとる。するとどうなる。昨日までの友好国が敵国に変わるかも知れぬ。昨日までの中立国が明日の敵国に変貌して襲いかかってくるかも知れぬ。それが国際社会だ。こちらが弱みを見せた瞬間に友好国や中立国が敵国に変わるのだ。この機微を絶対に忘れてはいかん。孟子も言っておる。
「人、必ず自ら侮りて、然る後に人これを侮る」
ワシが対米六割での軍縮条約妥結に強く反対した理由はここにある。兵理上、最低でも対米七割が必要だったし、ワシは均等で当たり前だと思っておった。どうして好き好んで不平等な軍縮条約に調印するのか、ワシは納得がいかなかった。
各国の兵力が均等ならば勝つのは難しいから、これが戦争抑止になる。均等兵力こそ各国の野心を抑え、而して戦争を最小限に防止する唯一の方法だ。ワシはそう考えたし、今でもそう考えておる。
それにしても、かえすがえすも遺憾なのは、ワシントン会議に際して我が国論国策の統一がなかったことだ。日本政府はワシントン会議に当たって、まず内に日本の最後的根本方針というものを定め、徹底的に国内世論を喚起してかからなければならなかった。そして、代表団はこの根本方針に基づく日本の主張をハッキリとわきまえ、強固なる世論を背景にして諸外国交渉団に臨むべきだった。しかるに現実は違った。
我が国論は統一されていなかった。何はともあれ軍縮条約をまとめるのが第一だとする説が大勢だった。平和だ、軍縮だと、誰もが口にしておった。政党政治家たちの世論迎合的な態度がワシには我慢ならなかった。政党は人気とりのために海軍を犠牲にしたのだ。もってのほかじゃ!
よろしいか。海軍は、戦略合理兵力すなわち対米七割を主張したに過ぎない。ワシのように対米均等を叫ぶ者は少数だった。ともかく国論の統一がなく、全権団の内部でさえ意思雑然として帰趨を得なかった。それで結局、政党の思うままに進んでしまったのだ。
そもそもワシントン会議に参加する必要があったのかどうか。あの頃は原敬内閣だったが、はたして充分な準備があったとは思えぬ。平民宰相だか何だか知らぬが、結局は金権政治であり、世論迎合政治だった。確かに欧州大戦後の世界は平和希求の世論に満ちておった。日本は一等国として世界の五大国に列し、世論も政治家も外交官も軍人も、どこか浮ついておった。しかし、日本に対する欧米各国の悪感情には驚くべきものがあったのだ。日露戦争の当時とはまったく違っておった。
「日本が悪者にされている」
そういう確かな実感がワシにはあった。それというのもワシは大正八年から九年にかけて欧米歴訪を命ぜられ、各国の世論を現地で見聞していたからじゃ。ドイツ、イタリア、フランス、イギリス、アメリカ、いずれの国においても非常な日本攻撃の世論が広がっておった。
(これは大変だ、いまに酷い目に遭わされる)
そう思ったワシは、帰国後、ただちに加藤友三郎海軍大臣に建言したのだ。
「列国は、元老なり重臣なり、国論を背負って立つような、またそれを指導し得るような強力な人物を列国に遊説させ、折衝させ、自国の政策を相手国に諒解させるよう努めておるのであるが、日本はというと、世界中の暴れ者のように各国から誤解されておるというのに、そうした誤解を解くために何ひとつの努力をもしていないし、またそれだけの人物も派遣されていない。このような状態で進めば、結局、袋だたきに遭いますぞ」
加藤友三郎大臣はワシの意見に同意してくれた。だが、それだけだった。
「それはお前の言うとおりだが、第一そんな人間がおらない。それから政治家などというものは一歩を踏み出せばたちまち足許をすくわれてしまう。行き得る人物もないし、行こうという人物もない。まためぼしい人間は下手をやって恥をかいては困ると考えるのが一般であって、お前の言うことは、それは理想というものだ」
果たせるかな、それから数ヶ月ならずしてワシントン会議がやってきた。ワシントン会議前における列強の対日感情は芳しいものではなく、むしろ日本を今のうちに抑えておかなければ後に禍根を残すといったような空気であった。日本は余儀なく引き摺られる情勢で、確固たる対策も決まらぬままにすったもんだして、ようやく海軍のみが対米七割の対策を決めただけだった。政府全体としての国策が何も決まっていないまま全権団は訪米したのだ。いざ、ワシントンに着いてみると、アメリカ世論は蜂の巣を突いたように「日本は侵略国である、弱小国を虐げる国である」というような事実無根の悪評が広まっていた。その悪評に我々はグングン圧された。事実無根の悪評に打ち勝つべきこちらの正義正論はいくらでもあった。だが、用意がなかったのじゃよ。黙っていても解り合えるというのは日本人同士のことだ。相手が外国人ではどうにもならない。嘘でもハッタリでもこちらの正統性を訴えねばならなかった。日本全権団がなんらの反論もしないから、当時、親日家のアメリカ人ですらワシにこう言ったものだ。
「自分は絶対に親日で、日本が好きであり、日本の為すところは絶対に支持するが、今日ここへ来ておる日本政府の代表者なる者は、いったい日本は富国となって果たして東洋において何をするか、それを誰かハッキリと表明してくれる人物がいない。それどころか日本全権団は仲間割れをしておる。外交官は海軍を横暴だとか、時代錯誤だとか言って攻撃し、財閥はまた財閥で、海軍は財政のことを知らぬと言って内輪喧嘩ばかりやっておる。これでは日本を弁護する途がないじゃないか」
ワシには返す言葉がなかった。あのような内輪揉めの状態でもって日本の主張を通そうなどということができるわけはない。それから日本内地の世論はご承知のとおり、やはり政党政治万能で、政治家の癖で目前の利害のみ考えて、徒に英米の強圧に屈服するということが却って将来に禍根を残し、ことに支那方面から侮辱されて今日の如き侮日抗日が起こるであろうというようなことをワシたちがいくら説いても、そういうことを耳に入れようとしなかった。ただ一時の国民負担の軽減とか何とかいうことだけで一杯で、海軍はまるで向こう見ずなことをやっておるというような難癖ばかり言われたものじゃ。しかし、考えてもみよ、目先の財政赤字と、国家百年の安全と、どちらが大切か。明治の元勲は日露戦争に際して外債を募集し、諸外国から多額の借金をした。その借金を日本はこのさき何十年間もかけて返済し続けるであろう。それでも国家の主権と独立を守るためなら、借金くらいが何だ。支払うだけのことだ。戦に負ければ、借金どころか主権も独立も失うのだ。植民地となり、奴隷となり、それで借金を免れたとて何になる。事の軽重を政党政治家は知らぬ。かてて加えて外務省も大蔵省も海軍攻撃をやって満足しておったのであって、国際会議の如きものは、あんな状態では交渉に勝ち得る見込みが到底あるはずはなかった。
それに比べるとアメリカは用意周到だった。首席全権のヒューズ国務長官は、毎日、百人近くの新聞記者を集めてアメリカ政府の主張を内外の記者に親切に説明した。その結果、アメリカの政策を世界中の新聞が筆をそろえて支援した。それが会議開催中の三ヶ月間、一糸乱れずに行われた。そこへもってきて、日本全権団ときたら内部分裂ばかりしていて一致した行動がとれぬ。そればかりか海軍の方針や海軍の政策というものが新聞記者なり、外交官なり、財閥の者なりに洩れてしまうのだ。これはあまり公言できることではないが、加藤友三郎首席全権の請訓電報がどこからとなく先方に筒抜けに洩れているという様なことがあったのだ。その上、後に判明したところでは暗号までが解読されていた。ことごとくそういう様な状態であった。つまり、獅子身中の蟲がいたのだよ。
アメリカやイギリスの如く世論政治の国ではことにそうだが、政治家というものは世論を背景にすることが非常に重要だ。たとえば彼我議論の末、「あなたの言うことはもっともだけれども、わが国の世論がそれを許さない」と言って逃げてしまうことができるからだ。しかし、日本はそれがひとつもできなかった。その訓練がなかった。世論を背景にしているということほどアングロサクソンの国民に対して説得力を持つものはないのだ。
「あなたの議論はもっともだが、我が国の世論が肯かないから承諾することができませぬ」
そう言って逃げてしまえるのだ。アメリカ政府は第一に世論を指導して国策をちゃんと確定し、そうして事前に結束して決めた経路を一直線に進んでいった。対する日本は、その根底になるべきものが何もできていなかった。遠慮なく言えば、わが海軍の主張の背景にあるべき最も大切だったものは、我が国策の根本義であり、その意思統一だった。すなわち日本が東洋の安定勢力として平和の維持に必須の海軍力を要する理由は、近隣諸国の不安定にあった。国情も政情も混沌として毫も国家の体を為さず、統治に無能力なる支那の存在、そして、その支那人を攪乱誘惑して日本と衝突せしめ、漁夫の利を収めんとする外力、ことにソビエト・ロシアの如き世界赤化の凶悪なる魔手の存在、これらを封じて、いやしくも東洋において実力を以てその欲望をほしいままにせんとするいずれの国家の野望をも許さざることこそ日本の国策だ。それでこそ我が国は支那数千年の文化を救い、四億の生民を塗炭の窮苦より免れしめて、東洋の福祉を増進せんとする建国以来の国是を実践できる。すなわち自主防衛、不脅威、不侵略の海軍政策である。かくの如き政策は毫も日本独自の利害打算に出でたるものでなく、実に世界全体の安定平和に帰結すべき正論であるから、世界共同の平和策として堂々と英米に呼びかけ、日本の政策に参加協同を求むることが可能であった。ところが、わが全権団はそれをしなかった。国策が統一されていなかったからだ。
英米の世論を納得させるためには支那の政情や国情を明快に収集して暴露し、ことにソビエト共産党の抗日の毒牙が日本に止まらずして結局は英米などの白人諸国にまで拡散すべきことを、確証とともに宣明しなければならなかった。しかるにその頃の日本は、これらの準備研究が誠に不足で、支那やソビエト側からの悪宣伝に乗ぜられたアメリカ人等の妄論にさえ堂々と反駁すべき具体的論拠に乏しく、前に言った如く、親日家のアメリカ人でさえ嘆息するような有り様であった。まさに訥弁国家だ。それでいて身内にはきびしく、ただただ日本海軍の主張を打ち壊すことにのみ日本人自ら浮身をやつしておったのだ。ワシが徳川家達全権を大喝したというのも、そのためだ。徳川全権が国益をそっちのけにして国際世論に便乗し、海軍攻撃ばかりしておったからだ。
「いったいどこの国の全権か」
そうどやしつけたら、徳川公爵はシュンとしておった。あんなバカ殿様を全権にしておるようではそもそもの人選からして駄目だ。加藤友三郎全権も幣原喜重郎全権も紳士だから何も御注意をしなかった。だから、調子に乗っておった。そこを、このワシが遂に堪忍袋の緒を切って叱りつけてやったわけだ。
しかし、かような仲間割れの弱点を暴露した原因に関しては海軍の我々も決して無責任ではあり得ないので、畢竟するに事前の観察または折衝の準備研究に日本人全体が不用意かつ不勉強であった報いである。彼を知り己を知る戦捷の秘訣を忽略に附しておった罪は尠少ならず。ワシ自身も慚愧後悔しております。
それにしても遺憾ながら、あの当時、外務省の代表者諸君などにおいてすら「海軍は無謀な主張をして軍縮協定を破ろうとしている」という先入観を持っておって、それが回りまわって増幅し、海軍の為す所を打ち壊そうとするような傾向が現れていた。全権団内で内輪揉めをしているようでは外交交渉などはじめから負けであったのだ。
とにかく政党の力が非常に強かった。誰もが政党に期待していた。だから外務省の役人連中もすっかり政党化していた。それが世の勢いだった。軍人の中にさえそのような人たちがあって、やはり世論に迎合し、政党政治家の主張に迎合して、一時なりとも英米と協調するのが将来のためであるというように考え、海軍と逆の立場に立つ者が多かった。アングロサクソンとの付き合い方が解っていなかったのだ。そうとしか言いようがない。政治家も外交官も譲ることが外交だと勘違いしておったのだ。
あのときワシは何度も訴えたのであるが、アングロサクソンというものは正義公正ということについて非常に尊敬を払う。その反面、日本的な謙譲主義、一時の感情や御都合主義で糊塗妥協するという迎合的姿勢を強く侮辱する。それがアングロサクソンの性質である。したがって、アングロサクソンの人々に対しては、こちらの言いたいこと、主張すべきことを正々堂々、その論拠から説破するという態度が大切で、そうであってこそ彼らから非常に尊敬せられる所以である。何らの根拠なき叩頭妥協は侮辱される。それをワシは説明したのだが、なかなか理解が得られなかった。ワシは英国駐在の時に得た印象から、このことをたびたび加藤友三郎元帥に申し上げたのである。
「帝国議会において国務大臣が政党を相手として詭弁頓智を闘わすような場当たり主義でアングロサクソンにぶつかったら大失敗です。どうしてもこちらの堂々たる根拠によって、相手の主張する正義公正の弱点を突いていかねば駄目です」
その他にもずいぶん無遠慮な所感を申し上げた。しかしながら、どうもこれは外交官ばかりでなく軍人でもそうだが、われわれ日本人は、相手に面と向かって正道を堂々と主張すると相手の感情を害しはしないかと余計な心配をする。そういう心理に日本人は支配されることが非常に多い。相手を慮る気持ちが強く内在しておるから、「こんなことを露骨に言ったら感情を害しやしないか」と日本人は無用の危惧をするのだ。ところが外交舞台ではその反対なので、アングロサクソンはそんなに柔なものではない。むしろ彼らは正義公道によって論破されると潔く「参った」と言う。
ワシは米英の艦隊司令官と直にやりあったことがあるからよくわかる。あれは大正三年だったが、欧州大戦が勃発したとき、ワシは大佐で戦艦「伊吹」の艦長だった。ワシは特別南遣枝隊の司令官に任ぜられ、英海軍との協同作戦に従事しておった。英国支那艦隊司令長官ゼラム中将の指揮下に入ったのだが、ワシはドシドシ意見具申してやった。遠慮など要るものか。相手の眼を睨みつけてガミガミ言ってやればよい。当時、われわれの任務はドイツ海軍シュペー艦隊の撃滅、エムデン号の追撃、輸送船団の護衛だったが、ワシの意見が採用されることしばしばであった。こちらの意見に正当な根拠があれば、彼らは素直に認めてくれるのだ。
アングロサクソンが日本流の謙譲の習慣を理解し、それに従うことはありえない。なぜなら、彼らは世界の覇権者のつもりでおるからだ。したがって、忌々しくともこちらがアングロサクソンの習慣に合わせねばならない。それは決して難しいことじゃない。正々堂々と意見すればよいのだ。日本人的な無用の遠慮こそ有害だ。その点、ワシのような頑固一徹者は日本国内では何かと問題を起こすが、世界に出ればむしろ普通なのだ。
大正七年一月だったか、ロシア革命の頃、ウラジオストクに革命の余波が及んできて大動乱の気配が満ちた。ワシは第五戦隊の司令官として居留民保護と日本権益擁護のため派遣された。現地の実情がまったく解らず、本当に手さくり状態だった。加藤友三郎海軍大臣から与えられた訓令はこうだった。
「君の知らるるとおりロシアの状況は猫の目の如きもので、どう変わるやら先の見通しがつかない。よって君に与える訓令もその書き様がないので、別に訓令書は与えないから、どうかそのまま行ってもらいたい。君も突然のことで困るだろうが、かく申す僕も同じだ。何れ赴任してから余裕があったら請訓せよ。しからざれば、君のベストと信ずるところをやれ」
ワシは、戦艦「石見」と「朝日」を率いてウラジオストク港に入港した。臨戦態勢じゃった。情勢は予断を許さなかったから、ワシは外交官や行政官のようなこともせねばならなかった。モスクワでは革命が起こっておっても、極東のウラジオストクにはまだロシア帝国の行政組織が生きていた。ワシはロシア官憲に対し、入港目的が邦人保護であることを布告した。また邦人居留民の代表を艦に招いて意見を交換した。その後、ウラジオストク港には米英の艦船も入港してきたから、相互に頻繁に往来し、情報を交換した。
米太平洋艦隊司令長官ナイト大将、英海軍ペイン大佐、それに少将のワシがウラジオストクの安寧を維持する列国の代表であった。それで陸上の色々な問題を処理するために隔日くらいに列国代表者会議みたいなものを開いたのだ。イギリスのペイン大佐は、アメリカのナイト大将にもワシにも丁重だった。当時はまだ日英同盟があったからじゃ。ところがアメリカのナイト大将は勝手放題な暴論を吐いて会議を掻き回した。そして、いつもナイト大将の暴言の矢面に立たされたのは、このワシだ。
ワシにとって都合が良かったのは、アメリカ側のロシア語通訳がいい加減な奴だったことだ。当時はロシア語の通訳が世界的に欠乏しておったが、幸いワシの部下には相当なロシア語の使い手がいた。その通訳官は第一期の外国語学校の卒業生で非常に良くできる男だった。古典的なロシア語さえも知っておるし、また漢文にも達した男で非常に卓越した通訳だった。彼は言葉を通訳するだけでなく、向こうの心理を読んで的確に判断し、それをワシにも理解しやすいよう巧みに通訳してくれた。優秀な通訳がいてくれたおかげでこちらの情報は極めて周密かつ根底の強いものであった。
そんなわけで諸種の情報を最も豊富に持っていたのはワシだった。だから、アメリカのナイト大将が傍若無人なことを言っても、いちいち説破する材料をワシは持っていたわけで、ナイト大将が色々と議論を吐くのを黙って聞いていて、それに対して正確な根拠をもって「それは間違いである、事態はこうである」と確実な情報をワシが説明してやった。するとナイト大将は「イエス・サー」と言ったものだ。口角泡を飛ばしてやりあった議論でも、自分が負けだと判れば、ナイト大将は「あなたが正しい」と言って翻然と掌を返し、こちらの主張に追従した。この呼吸を日本人には学んで欲しい。
特に外交官の諸君はぜひ身につけねばならない。たとえ激しくやり合っても、納得すれば後腐れなく意見を変える。これはアングロサクソンのよい性格である。
今でも憶えておるが、四月四日、不幸にも石戸商会が暴徒に襲撃されて邦人一名が死亡し、二名が重傷を負うという事件が起こった。ワシはそれまで我慢していたのだが、万やむを得ず、海軍陸戦隊二個中隊に上陸を命じた。ナイト大将はこれを了承してくれた。陸戦隊を上陸させた後、ウラジオストクの治安は安定し、強盗殺人事件はほとんど発生しなくなった。
ところがあに図らんや、日本国内でワシの措置に対する非難が高まった。帝国議会で批判に曝された寺内正毅総理は怒りのあまり、あの有名なビリケン顔を真っ赤にして加藤友三郎海相に詰め寄ったそうだ。しかし、加藤海相はあくまでもワシの処置を支持してくれた。あの人はそういう人だった。だからこそワシは安心して任務に邁進できたのだ。
大正十年、ワシントン会議のためにワシントンに駐在したとき、ナイト提督はすでに予備役に入っておられたが、非常にワシの仕事を支援してくれ、陰に陽に助けてくれた。ウラジオストクでは顔を合わせるたびに喧嘩のような議論をやっておったのに、あのとき、ワシの提言や情報が正しいものであるということを知ってからはワシを信用してくれ、アメリカ駐在時のワシを非常に良く世話してくれた。だいたいにおいてアングロサクソンは正義を根底において堂々と主張する者を尊敬し、その議論に負けたからとて決して糞意地を張らない。この呼吸を心得ておくことはアングロサクソンと交際するための秘術である。日本的な遠慮は絶対にいけない。彼らの言う「仕事は仕事」というのはそこなのだ。
ワシは、大英帝国のロンドンで大使館付武官と造兵造船監督官を兼ねておったことがある。明治四十二年ころだ。その当時のことだが、例えば自分の部下がアームストロング社なりビッカース社なりの重役に招かれて観劇に行ったり御馳走を頂いたりする。そうすると、そこにひとつの友好関係、というより負い目あるいは恩義の感情が生まれる。ここが日本的な感覚なのだ。日本人は、その負い目や恩義に支配され、御馳走の翌日、その会社なり海軍の事務所なりにおいて仕事の問題を論争するときに遠慮の感情にとらわれ、言いたいことも言わなくなる。つまり御馳走政策に乗ぜられるわけだ。接待されると日本人はお返しをせねばならないと思い込む。だが、イギリス人は単なる社交としか思っていないから、返礼など期待していない。ここに文化の差異があるのだ。このことに部下のひとりが気づいてワシに相談してきたことがある。
「こんな招待を受けましたが、どうしましょうか」
「そんなことは気にするな。決して遠慮してはいかぬ。第一、君は返礼できるならば返礼すれば宜しい。できなければ受けっぱなしで差し支えない」
「しかし、そんなことをすると具合が悪いのではないでしょうか」
「何も具合の悪いことはない。アングロサクソンの心理は決してそんなものじゃない。どんな招待を受けようが、翌日、海軍の事務所へその会社の重役を呼びつければよい。君は帝国海軍を代表しておるのであるから、思うとおりのことを言って主張を通さなければならぬ。それをやらないと、かえって軽蔑されるぞ。支那とか南米とかの海軍の代表が軽蔑されるのは皆これだ。御馳走された翌日に、重役を呼びつけてガミガミやってみたまえ。日本の士官は偉いと言われるよ」
ワシはそう言って訓戒したものだ。外交の折衝とて同じことである。いくら前夜にディナーの饗応を受けていようが、家族ぐるみの付き合いをしていようが、それに支配されて仕事に手心を加えるというようなことになるとアングロサクソンは非常に軽蔑する。
日本人のやり方はひどく公私を混交するので困る。例えば、ここに甲乙ふたりの日本人がいて、何か公務上の問題で大激論をやるとする。その二人は喧嘩別れになってしまう。公務上の遺恨によって私生活を支配されてしまうのだ。公私混同しているのだ。それで翌日、私交上の関係で会っても横を向いてしまったりして意地を張る。このような日本の習慣は国際社会では非常な禍根となる。アングロサクソンの性格は全く違う。つい先刻まで火花を散らして論争しておっても、その場を離れるとまるで生まれ変わったような人間同士になって、昔日の親友はいつまでも親友でありつづける。ワシがイギリスにいた頃、ちょうどバルフォアとロイドジョージが議会で激しい論争をしておった。
「衆議院で三度可決した議決は貴族院で否決できないというのは是か非か」
という問題だったと思う。バルフォアとロイドジョージは議会で延々と火を吹くような舌鋒を戦わせあっておった。ところが週末になると、この両名は相携えて南仏のリゾートへ行って仲良くゴルフをやったりしておる。そして、再び月曜日になると帰ってきて再び大激論を闘わせる。こんなことは日本の政治家などにはとてもできないことである。日本の議員は議会で一度喧嘩すると永世の敵になってしまう。ワシたち日本人には色々の長所もあるが、しかし、外国人と交際する場合に考えておかねばならないのは、公私混同の問題、あるいは義理や人情を感じすぎるという弱点だ。日本的な遠慮でもって相手の感情を和らげて譲歩を引き出し、それによってこちらの主張を通そうという考えは、アングロサクソンに対する場合には全く逆効果である。
英米人を参らせるためには、充分な根拠と材料でもって説破し、信念を以て闘うという戦法で進まなければならぬ。またそれによってこそ本当の意味での妥協もでき、友好関係も築かれるのである。個人関係においてもそうであって、アングロサクソンと親友になるためには「この男は頼むに足る、ともに大事に臨み得る」というような相互信頼があってこそ本当の親友になれるのである。チャラッポコでいい加減なおべっかばかりでできあがった友好関係は決して固いものではない。ことに対外的にはそうである。言うことも行うことも正々堂々たるもので、この男と提携すれば天下の大事ができるというくらいに思わせてこそ、国際的な握手がはじめて出来るのだ。
繰り返して言うが、外交場裡において謙譲的態度は敗北と同じである。つまり、日本的な謙譲など歯牙にもかけずに襲いかかってくるアングロサクソンの強い論法に対する準備がこちら側にないと、相手から二重三重に軽蔑される。だから謙遜主義を捨て、そうして山本権兵衛方式で行くのが秘訣である。
山本権兵衛方式という意味は、要するに、国際会議に当たっては、常に深き根拠を以て、正々堂々、どこから相手に攻められても論破されず、また論破するという準備を周到にしておくことである。現に、アメリカの議会などでは、議員が質問をしたり、議政壇上の討論をしたりするうえにおいて少しでも疑問の点があると、直ぐ下の図書館へ行って自分のとらえた疑問に対する材料を集める。しかし、日本の議会においてはそんな設備もないし、大臣が閣議などに臨む態度にしても、行き当たりばったり主義が多い。だから深く準備しておる人には勝てない。
その意味において偉かったのは山本権兵衛伯爵だ。これは山本伯爵から直に聞いた話だが、伯爵が海軍大臣だった頃、伯爵は閣議の二週間くらい前から想定問答を繰り返し、それから閣議に臨んだそうだ。例えば、海軍予算の問題の時に大蔵大臣はこう言うだろう、陸軍大臣はこう言うだろう、総理大臣はこう言うだろう、それをどのような論法で打ち破るかということを考えておく。ワシが山本海軍大臣の秘書官をしておった時には実に様々な事柄の調査を命ぜられたよ。
(いったい何のためにこんなことを調べるのか)
不思議に思うようなことまで調べさせられた。最初はその意味がわからなかったが、だんだん時間が経つと、いつも閣議の前にそれをやらされることがわかった。山本伯爵は実に念入りに手広く下準備をされておったのだ。だから、一見、関係なさそうなことまで調べておられた。そうして準備を強固にしてから閣議に臨む。そういうところに伊藤博文公爵が惚れ込んだらしい。人間の偉さというのは、勿論、天稟もあるが、しかし大部分は周到なる準備が元だと思う。山本伯爵のそんな偉いところは、ドイツ皇帝に拝謁した際にも現れた。
日露戦争後、英国皇帝から明治天皇にガーター勲章が御贈進され、大英帝国からはコンノート閣下が差遣された。その御答礼として伏見宮貞愛親王殿下が英国に差遣されることとなった。その首席随員は山本権兵衛伯爵だった。ワシも随員団の末席を汚して渡欧した。ほぼ二十日間にわたるロンドンでの御答礼の儀式が終わったのは明治四十一年五月の末だったと思う。その後、山本伯爵はフィッシャー元帥との会見や日英相互軍事協商への署名などを終えられ、六月七日にベルリンへ向かわれた。ドイツ皇帝ウィルへムル二世に謁見したのは六月十日だった。御座所における拝謁はわずか五分の予定であったが、結果的には四十分という長時間に伸びた。皇帝が時間を伸ばしてくださったわけだが、なぜ伸ばしてくださったかといえば山本権兵衛伯爵が滔々と活殺自在に応答したからである。
「今まで随分と日本の政治家に会ったが、あんなに偉い人はなかった」
とまでウィルヘルム二世は仰せられ、山本伯爵に惚れ込んだそうだ。ワシは侍立していたから、ちゃんとお二人の会話を聞いていたが、ホテルへ帰ってから山本伯爵に聞いてみた。
「今日のドイツ皇帝とのご会見は実に水際立ったものでした。よく咄嗟の間にあんな問答が出来たものです」
「お前、いいことに気がついた。しかし、俺は容易ならぬ相手と思ったから三日三晩考えたのだよ。皇帝の話題がどこまでくるか。彼がひとつの話題で来たら、俺はふたつの話題で行き、彼がふたつの話題で来たら、俺は三つの話題でおっかぶせてやろうと思っておったら、そのとおり来たのでうまくトントン拍子でいったのだ。まったく準備の賜物だよ」
三日三晩考えたというのだから、ワシは感心するほかなかった。偉人というものは、むろん天稟もあるけれども、その半面においては人に知れない非常な苦心をしておるものであるということをワシは覚った。非凡な人であるとか、天稟だとか、偶然だとか、我々は安易に考えるけれども、しかし、偉人というものは半面において人知れず苦心し準備し、どこからでも来いという心構えが出来てから事に臨む。だからこそ、態度も言語もしっかりしてくるのである。大業を成す人物が偶然にできるはずはない。ナポレオンでも秀吉でも皆そうだったろうと思う。
ワシントン会議においても、そのくらいの充分な準備をして臨むべきだった。もちろん加藤友三郎元帥は考えに考えておられたに違いない。だが、残念ながら政府全体あるいは全権団全体に充分な意思統一と交渉戦術があったかといえば、それは無かったのだ。それが何とも惜しまれる。むしろ、考えに考えていたのはアメリカだ。その点がワシは悔しいのだ。
アメリカはワシントン会議に臨む前に、日本はどのくらい、英仏伊はどのくらいと海軍の保有兵力の割当を勝手に決めてしまっていたそうだ。それはメイフラワー号という大統領のヨット内で密議されたのである。ハーディング大統領とヒューズ国務長官とロッジ上院議員の三人が秘かに謀議して、誰にも知らさずに計画を拵えていた。そうしてこの三人は、会議の冒頭に青天の霹靂のような大芝居を打つことまで考えた。その大芝居とは、例えば、会議の開会演説において米国自身が旗艦の廃棄を発表するというような衝撃的な発表をするというものだった。それによって各国代表のド胆を抜いてやろうと企んだのだ。そして実に念の入ったことに、事前にイギリスとの間にだけは連絡をつけておいたらしい。
大正十年十一月十二日、ヒューズ国務長官はまさに外交爆弾を炸裂させた。いきなり軍縮案を公表したのだ。あの頃、外交交渉は秘密交渉が当たり前であったから、開会式で自国の提案を公表するなどは常識破りだった。しかし、情報に飢えていた新聞各紙と世論は驚喜した。国際世論はヒューズ案を大歓迎し、これに抗しがたい雰囲気ができあがってしまった。日本人記者団も、そして日本全権団員でさえ、ヒューズ案の対米六割を支持する者が大多数を占めてしまった。均等を主張したワシなどは「海軍さえよければいいのか」と罵倒され、軍縮と人道に対する反逆者として非難される始末だった。
とにかくヒューズの爆弾発言が世論を支配してしまった。海軍艦船の現有兵力というものは各国ともなかなか秘密に出来ないもので、各国の海軍現勢力はお互いに十分わかっていたわけだ。なにしろ形があるものだから、軍艦を内密に造るというわけにはいかない。今日では色々なことで懲りて非常に秘密を保つようになっておるが、海軍の勢力の実在はなかなか隠せないものなのだ。一時に卒然として現れてくるものじゃない。どうしても戦艦を造るのには三年かかる。諜報機関さえ発達しておれば、たいがい判明するわけである。
アメリカは各国の海軍力を正確に計量した。そして、ここからがアメリカ人の腹黒さだが、米側はあえて交渉相手国の海軍力を過大に見積もったのだ。そして、その算定を高飛車に押し付け、大幅に廃艦させようと計ったのだ。だから会議が揉めたのは当然であった。
それからもうひとつ、ワシントン会議で気づいた大切なことがある。わが軍事諜報の弱点だ。我々は事前に相手国の兵力がどの位とか、どこの要塞がどういう構造だとか、それにはどういう大砲が備えてあるとか、そういう物的な情報については非常に熱心で、また相当に調査が行き届いておったけれども、人物というものの調査がなかなか出来ておらなかった。ワシントン会議に臨む際も、米国代表はヒューズとかハーディングとかロッジとかが来るというのはわかっておったのに、彼らがいかなる性格の者で、どんな宗教を信仰しているか、どこの会議でどういう発言をしており、その論法はこうであるというような研究が全然なかったのである。今日でもそうじゃないかと思う。これは戦争と同じことで、やはり統帥者の性格が戦さの仕方を支配するのであるから、鉄砲が何挺あるというが如き研究も大事だが、向こうの指導者がどういう人間かということを知って、その弱点に突っ込むということが極めて必要なことだ。外交でもやはりそうだ。だから国際会議に当たっては、会議の事務みたいなことにのみとらわれないで、相手国代表の論法とか性格とか経歴等を調べてかからなければならぬ。
人間というものは、初っ端に参らされてタジタジすると精神的に非常に敗北するものである。例えば昨今の対支問題においても、支那が日本をへこませるにはどういう方法で来るか、また英米仏が共同するにしてもどういう方法で来るか、日本に対してどういう舌端を向けてくるか、そういうことを深く研究洞察して、それに対する方途を深く考えておかぬと立ち上がりに失敗する。戦争においても不意を突かれるということが一番の禁物になっておる。自分の考えておらない所へ突っ込んでこられて、タジタジすると後はすっかり崩れてしまう。だから不意打ちを受けないということがとても大切なのだが、それは外交でもそうであるし、また個人の議論においてもそうである。
ことにアングロサクソン相手の場合はそうだ。だから、こちらが日本流の謙譲主義で行けば、それを察知したアングロサクソンは、その弱点を見出してグングン攻めてくる。しかし、そこまで読み切って、正論を以て逆手を一本打って参らしてしまうと「これは手強い」と思って態度をすっかり変えてくる。先ほどのナイト提督の話でも、向こうは材料も持たずに最初は頑張るが、最後には論破されて折れてしまうのだ。正論に従う。これがやはり隠然とアメリカ人の心理を支配しておる。この原理に日本人が未だ気づいてないのは残念だ。
国際会議も戦争と同じことで、最後まで突っ張った方の勝ちだ。ワシントン会議では日本全権団の内訌のために我が陣営は非常に乱れたが、アメリカ全権団の方も日本側の強い主張に直面し、だんだん陣営が傾いてきていたのだ。戦争の際、最後の五分間というのは、自軍の死傷や損害のみが目につくものであるが、その時の戒めは、敵も同じ手傷を負っておる、否、味方より以上だぞと考えて積極的に攻撃する者がいつでも勝つということだ。会議もそれと同じことである。アメリカの方は日本の突っ張りでまさに政権瓦解の瀬戸際までいったのだ。本当に最後の五分間というところで、もう一歩、日本が突っ込めば勝てたのだ。ワシはそこを主張したのであって、決して無茶を言ったわけではない。
ワシントン会議において日本が英米に屈従した結果を見て、支那は抗日侮日をはじめた。日本人は英米に対して弱い、と支那人は思っておる。だから日本が英米追従外交を続けている限り、支那人は付け上がるばかりである。ワシントンで山東還付を調印したりするから、支那側は大連と旅順も還付せよと言ってくるようになったのだ。実際、あの時に、いまワシが申したようにやっていたら、たとえ会議が破れたとしても、雨降って地固まる、のたとえどおり却ってよろしかったとワシは思う。ワシントン会議があの有り様でなかったら、その後のロンドン軍縮会議も起こらなかったかも知れないし、第一、いま日本を悩ませている支那事変というものも起こらずにすんだかも知れない。譲歩が乱を招くということについて、日本人はもっと真剣に反省しなければならない。
ワシントン軍縮会議の結果、日本海軍は対米六割に保有艦数を制限されたが、フランスはさらにひどかった。日本の勢力の半分くらいにまで制限されたのだ。そのフランスの海軍代表にデュポンという老提督がいた。このデュポン提督も大いに論陣を張ったものである。実に血涙交々至るという日々の奮闘ぶりであった。それがたたり、会議の間、デュポン提督は米国新聞によって非常な毒筆を以て攻撃されておられた。結局、フランスが屈従して、デュポン提督はワシントンから孤影悄然として帰国することになった。ワシも見送りに行ったのだが、驚いたことには非常に沢山の見送りが来ていた。その大部分はアメリカ人だ。アメリカ側の主張に猛烈と反対したデュポン提督に対し、アメリカ人は讃辞を送ったのだ。「さすがはフランス人、よく闘った」、「フランスの名誉のため死を賭して争った」と称賛の声を惜しまなかった。その感情が多くの見送り人となって現れたのである。デュポン提督の主張はアメリカの政策と相容れなかったから、アメリカの新聞はこぞってデュポン提督を非難した。しかし、これは政策上のことである。政策とは別に個人というものをアングロサクソンは見ている。デュポン提督の堂々たる態度、正を正と言い、フランスの国益を担って奮戦したその姿にアメリカ人は敬意を表したのだ。国際的な信用とは、このことだよ。この機微をつかまなければならぬ。デュポン提督はパリへ帰ると病気になって死んでしまわれたが、軍縮会議の激務がたたったのだろう。
ワシがもっとも感心したのは米国全権のヒューズだ。ヒューズはどちらかというと訥弁で策略も何もないという印象だったが、それだけに赤誠が全身に現れておった。ヒューズが発言すると皆がよく耳を傾けて聴いておった。あの人格が会議を成功させたのだとワシは思う。人格の力がものをいうのだ。相手に感動を起こさせ、敬意を払わせるのは人格だ。一方、英国全権のバルフォアもなかなか偉い男だった。なにしろ外交生活を五十年もやっておる海千山千の老雄だから弁論といい振舞といい実に上手かった。しかし、バルフォアが発言すると、誰もがうんざりしたような顔つきをした。
(またバルフォアか)
そんな雰囲気があって、どうしても会議を主導できなかった。外国人同士であっても何か感得するものがあるのだ。だから、外交交渉を決定づけるのは最終的には人格力なのだと思う。したがって、ひとたび口を開いたときは深遠率直なる根拠を以て戦うという調子でいけば、だいたい主張というものは通ってしまうものだ。人を動かすのはなんといっても赤誠だ。それと人格だ。ヒューズとバルフォアを見較べてワシにはそれがよくわかった。もしバルフォアが議長であったら、会議はもっと紛糾し、まとまらなかっただろう。
国際会議では言葉が問題になる。ワシら日本人は外国語が苦手だからのう。しかし、だからといって無理に英語を使う必要はない。熱誠を以て当たれば日本語で話しても意は通じる。加藤友三郎元帥は英語の達者な人だった。だが、ワシントン会議ではいっさい英語を使っておられなかった。そうしてスタンフォード大学におった経済学の講師の市橋という人に通訳をさせていた。それでいいんだ。幣原喜重郎全権は英語ができるので英語を話したが、結果は甚だよろしくなかった。英米人の土俵たる英語でやりあっては勝てる訳がない。ワシの体験からいうと、国家の安危に繋がる重大な折衝に英語を使わねばならぬとか、フランス語を使わねばならぬとか、そういう必要は絶対にない。そういうときには語学専門の通訳を連れていってやれば宜しいのだ。フランス人でもドイツ人でも大物は、みな自国語で大切な折衝をやる。それがまた一つの作戦でもあるのだ。翻訳の間に次の論法を考えることができるからだ。英語やフランス語だけが国際外交の言語だなどと誰が決めたのか。そんな時代は既に過ぎ去った。ことに今日の国際会議には言葉の異なる国々がたくさん集まるのだから通訳会議は当然のことである。遠慮なくいうと、片手間にやった英語などというものは決して使うものじゃない。みずから日本語という武器を捨てて敵に投ずる様なものだ。英語のできる人なら向こうの言うことはたいてい解るのだから胸中で準備はできる。その余裕を獲得するためにも、こっちから発言するときは日本語を使うのだ。
外交官の諸君は国家の利益を背負って大きな責任を感じる機会が多いだろう。外交官は、その国へ行けばその国の言葉を使わねばならぬというように考えるのは積弊だとワシは思う。ことに地位が高くなって首席全権とか何とかになればなおさらのことだ。得意な人はもちろん、不得意な人まで外国語を使おうとする。しかし、外国語を使わなくとも相手は何とも思わない。むしろ通訳を積極的に活用することだ。加藤友三郎元帥と幣原喜重郎全権を身近で見てきたワシには、そのあたりの機微がよくわかる。英語の素養は非常に必要であるが、しかし、それを自分の武器として論争に用いるべきではない。日本人にとって外国語は必ずしも有効な武器ではない。むしろ日本語こそが武器になるのだ。ワシは幾多の国際会議に出席して、そのことを痛切に感じておる。日本語を話すことは決して恥じゃないし、また通訳を専門に稽古しておる人もあるのだから、その能力を借りれば良い。檜舞台で自分が立役者になったときは、自国語以外の言語を決して使うものではない。
いま思い返してみて偉かったと思うのは小村寿太郎外務大臣だ。ワシは、日露戦争の開戦前、ペトログラードの公使館附武官の補佐官だった。当時の駐露公使が小村さんだ。いろいろ御世話にもなり、興味深い話も聞かせていただいた。小村公使は実に犀利な人で、洞察が深くて鋭かった。公使館でお目にかかることが度々あって、ときに小村公使の部屋にお邪魔すると、たいがい小村公使はアームチェアにもたれて眼をつむって考えておられた。山本権兵衛伯爵と同じだ。時間さえあれば常に大事な問題を考えておられたのだ。小村公使は山本侯爵と非常に仲が良く、ポーツマス会議で小村外相がご苦労されていたときなど、いちばんの同情を以て内地から小村外相を支援していたのは山本伯爵だった。本当に小村外相の心情を理解していたのは山本伯爵だったと思う。
山本さんにせよ小村さんにせよ、あの当時の人たちは立派な人格者が多かったように思う。議論では相手と刺し違えるような気迫を持ち、また国事のためには命も惜しくないという覚悟で交渉された。つまり、金石の言を常に発せられておったわけなのだ。チャランポランや誤魔化しは一切やらなかった。外交というものは権謀術数などではいけない。そういう時代は、とうに過ぎ去ってしまった。人格と識見、胆力、それが重大な力である。詐術権謀などを用いるには世界は進歩し過ぎてしまっておる。
そもそも日本の安全は、日本が諸外国より畏れられ敬せられるところにある。なぜなら列強は、その畏れるもののみを敬するからじゃ。欧米列強とは、そういう相手なのだ。しからば列強から畏敬せられる日本の実力とは如何なるものであるか。これはむろん物心両面における我が国家国民の力の総和であって、そこには日本伝来の道徳もあり、文化もあり、武力もあり、経済力もあり、政治外交の力もある。しかしながら、今日のような国際関係において、国家の存亡を賭して我が民族の生存権を確保し、東洋永遠の平和を招来せしむるため積極的に出でんとするとき、一朝危機に臨んで第一線に立ち、国家民族を保護するものは、なんといっても国軍である。
およそ戦争の起こるのは、多くの場合、その戦争を仕掛けられる国に間隙があり、乗ずべき弱点があるからだ。例えば、ある国が国内の政争に没頭して人心の不統一を来たし、あるいはまた道徳が地に墜ちて文弱に流れ、国防を怠り、敵国から与し易しと思われるようになると、相手国はその政策において必ず高圧的になり、横車を押そうとするようになる。
「この国は圧迫すれば言うことを聞くであろう」
そんなふうに軽侮されるからこそ係争というものが起こってくる。こちらが隙を見せるから相手国は相談的でなくして、高圧的に無理を通そうとするようになる。それが非常に人々を激昂させ、思わぬ動機から戦争になったりする。これに反して、国家に厳然たる軍備があり、万古に輝く道徳があって、挙国一致、国策遂行に向かったならば、戦争はそうたやすく起こるものではない。その意味において、対米六割は譲歩しすぎている。最低でも七割、当たり前に考えて均等でよかったのだ。どうして不平等な軍縮条約に調印などしたのか、ワシはどうしても納得がいかなかった。
平和や軍縮を声高に叫ぶ者たちは「軍備制限の理想は戦争の根絶にあり」と言っておるが、こんなものはインチキなテーゼだ。現実は必ずしもそうならない。たとえ銃砲刀槍を一掃し、軍艦や飛行機を絶滅したとしても、人に感情あり、意志あり、口舌あり、腕力ある限りは、争闘は絶えないものである。太古蒙昧の時代より今日に至るまで戦争の絶えざるはこれが為である。決して武器の数の問題ではない。けれども制限によって互いに競争をやめれば、戦争の機会を少なくし得る望みはある。しかし、それは主として、互いに感情を激発せしめない場合に限る。もし不公平なる制限によって、他国の所持し得るものを自国は所持し得ないとなると、感情の融和どころか、結果は却って反感を生じ、戦争の機会を少なくし得る望みは皆無となってしまう。ワシントン軍縮条約は、この点において遺憾ながら失敗であった。
言葉を代えて言えば、戦争の原因は人類の宿命的本能に胚胎しており、古来より戦争は軍備あるがために起こるにあらず。列強の争覇的野心が国際間に覇道を促し、相対国の存立を脅威するに起因するのである。故に列強が公明、博愛、正義の前に絶対に服従するに至らざれば戦争の防止は不可能である。つまり、列強各国にこの誠意さえあれば、軍縮などするまでもなく戦争は起こらないのだ。即ち軍備問題の如きは、各国の任意に放任するも、自然に制限せられるに至るはずじゃ。だから絶対的戦争防止の方法としては、この誠意実現の外には何ものもない。すなわち何れの国も他を脅威し、他を刺激し、両国民の感情を悪化させないという心があれば平和は保たれる。
そこで問題になるのは、列強諸国に絶対的な誠意があるか否かということになる。「ある」などと考える者がいたら何と甘いことか。事実、アメリカ海軍は大規模な海軍拡張計画を何度も立案し、その都度、挫折しておったのだ。連邦議会の賛同が得られずに海軍予算が減額されたり、世論の反対にあったりした。ここが見落とされているところなのだが、国富は必ずしも海軍増強を保証しない。アメリカは確かに富国だが、その富はアメリカ国民の贅沢な生活に消費せられておる。アメリカ政府といえども贅沢に慣れたアメリカ国民から富を奪って海軍建設に充当できるか、といえばできないのだ。民主主義だからだ。日本は確かに貧しいが、日本人は倹約節約の生活の中にも楽しみを見出している。海軍建設は十分できるし、これまでもやってきた。だから国富を比較して、それで総てを断じてしまうのは間違いじゃ。
それにしてもアメリカ海軍のしたたかさはどうだ。内政的に軍拡が上手くいかないから、外交的な軍縮条約で競争国の軍備を抑え込む。それが軍縮条約だ。何と悪賢いことではないか。
米国は世界第一の富国である。その文化政策に関する限り、何ら異存はないが、軍備の世界第一は他国に対する絶大の脅威となる。米国の如き大富国が、武力における優越確保の観念を棄て、平等の地位に甘んぜざる限り、軍備制限の精神は決して実現されない。米国の武力が世界平和に対する脅威となる。これに加え、米国の如き巨富と偉大なる資源と工業力とを以てすれば、戦時の所要に応じて余りあるのであって、この実力が既に至大の脅威となっておるのである。この点よりすれば、米国の如きは寧ろ他国に劣れる軍備を以てしても、なおかつ国防上安心できるはずだ。いわんや均等においてをや。要するに軍備制限は国力制限に及ばなければ徹底しないことになる。故に英米のように他国の企及し難き実力を有する大富国が自ら抑制謙譲すべきなのだ。それでこそ、はじめて世界に平和の春風が吹き始めるので、しからざる限りは、つまり英米の優越権を許す限りは、絶対に平和は成立しない。そう断言して間違いない。ここのところは充分に両国識者の反省を促さねばならぬと同時に、日仏伊の識者に対しても、熟考を煩わさねばならぬ大切な重点である。
ワシントン会議は大正十一年二月十一日に終わったが、ワシはひどい頭痛に悩まされておったので、全権団より一足先に帰国させてもらった。堪え難いほどの頭痛だったが、入院後、頭部痙疽症とわかった。二週間以上、ワシは頭痛に苦悶し続けたが、切開はしなかった。幸い膿が出て、ようやく苦痛がおさまった。いやあ本当に苦しかった。訓練や演習には耐えられても、あの頭痛だけは参った。ワシントンで怒ってばかりいたからだろうな、呵々。
その後、ワシは加藤友三郎海軍大臣から潜水艦戦術を研究するよう申しつけられた。加藤大臣は航空戦力にも関心を向けておられた。主力艦を六割に抑え込まれたから、その劣勢を補助戦力で補おうとされたのだ。
昭和元年の末、ワシは連合艦隊司令長官を仰せつかった。ほぼ二年の任期中、ずいぶん過酷な訓練を部下に強いたものじゃ。皆よく耐えてくれた。演習中、事故も起こった。しかし、あんなに難しい訓練を艦隊に課したワシの本意は、軍縮条約によって抑制された戦力を演習によってわずかでも向上させようと考えたからだ。対米六割の劣勢を、機力と術力と精神力で補おうとしたのだ。
昭和五年のロンドン軍縮会議のとき、ワシは海軍軍令部長だった。ワシントン会議のときに比べれば、ロンドン会議に臨んだ日本全権団は良くまとまっていた。対米七割という海軍の要求は政府でも全権団でも共有されていた。ワシは軍令部長として絶対に確保すべき三条件を提示した。それは、総括対米七割、大型巡洋艦対米七割、潜水艦所要量七万八千トンの確保だ。もちろんワシ個人の意見ではない。海軍軍令部として国防に責任を持つための合理的な兵力量だった。ワシの個人的意見は「自主自由の国力発揮」だったから、こんなものが軍縮会議で通用するはずがない。だから対米七割で妥協したのだ。ワシは今でも、英米優越を容認する七割よりも、国力に応じた弾力性のある自主的海軍の方がよいと思う。だから、今だからこそ言うが、軍縮交渉が決裂してくれる方が望ましいと秘かに考えておった。ワシントン会議の頃とは異なって、世論にも交渉決裂やむなしという意見が少なくなかった。世論は気まぐれだ。すでに軍縮熱は冷めておった。だが、政府も海軍省も何が何でも交渉成立を目指すという考えだった。
それにしても日本全権団の交渉ぶりはバカ正直にすぎた。七割を要求して七割を確保しようとしたのだ。君、そう思わないか。八割を要求しておいて七割におさめるとか、その程度の当たり前の駆け引きすらしなかったのだ。結果的には例によって譲歩してしまいおった。総括七割は確保したものの、大巡は六割、潜水艦も五万二千トンに抑え込まれた。ワシは軍令部長として政府に抵抗した。
「ロンドン条約にて決定されたる兵力量を以てしては、到底、我が国防の安定を期すること能わず」
これに対する政府の回答は訳の分からぬ抽象論だった。
「世界的平和ならびに経済的見地よりしてこの手段に出でたるは、けだしやむを得ざる所である」
海軍軍令部は戦略の根本的見直しを迫られた。それはそれで良い。政府がそのように決め、帝国議会がこれを承認したのだから。ただ問題だったのは、こうした譲歩がかえって列強からの蔑視を招いたということだ。むしろロンドン交渉が決裂して自由建艦になった方がよかったとワシは考えている。かりにアメリカが国力にまかせて大海軍を建艦したとする。日本は劣勢に陥るが、英仏伊などの各国もアメリカに脅威を感ずるであろう。さすれば日英仏伊が接近し、対米同盟の成立が現実味を帯びてくる。日英仏伊の四ヶ国が協同してアメリカに対抗するなら経済的負担も少なくて済むのだよ。アメリカが海軍力を突出させるなら、それこそ不戦条約の精神に違反するとして公明正大の論陣を張ることができる。交渉には必ず作用と反作用があるのだ。自国の安全保障を犠牲にしてまで軍縮条約を締結する必要はなかったよ。
大蔵省の連中は経済だ、財政だと騒いだが、国防や安全保障の方が重要ではないのか。敵国に占領されたら、財政も何もあるものか。そもそも世界的平和とは何のことか。そんなものは虚飾だ。ロンドン軍縮条約が成立したとき、英米の新聞は日本政府を称賛した。それはそうだよ。英米に有利な軍縮条約に日本が調印したのだから。英米に都合のよい条約なのだから、英米新聞は、そりゃ、日本をいくらでも褒める。だが腹の底では逆のことを考えているのだ。日本政府が日本の国益を勝ち取れば、それは英米にとっての損であり、英米新聞は日本を非難してくる。しかし、日本が国益を追求すれば必然的にそうなるのであって、非難されるくらいでちょうどよいのだ。しかるに日本人にはそのことがわかっておらぬ。日本が国益を犠牲にしたというのに、国際世論から誉められているからといって妙に自己満足しておった。実際には少しも良くない。日本政府の譲歩こそが戦力の不均衡を生み、平和を破る因になることを政府も国民もわかっておらなかった。ワシは我慢がならず、ついに軍令部長の職を辞した。
しかしながら、その軍縮条約もついに終わる時がきた。昭和九年三月、アメリカは大規模な海軍拡張計画を発表した。何と身勝手な事よ。これを見た日本政府は同年十二月、米国政府に対してワシントン条約廃棄を通告した。当たり前のことだ。その日、ワシは久しぶりに軍装し、事の次第を東郷平八郎元帥の墓前に報告したものだ。
自由建艦時代に入ったからといって心配することはない。今日、科学技術は日進月歩に進歩している。一挙に多数の艦船を建造しても直ぐに時代遅れになってしまう。そんな不合理なことはどの国もするはずはない。我が国としては着実な製艦を行いながら、工業技術の進歩と技術者の育成を達成し、いわゆる経済軍備を実現していけばよい。そして、自存自衛に必要な対米七割の海軍力を保持すればよい。アメリカを凌駕することなど不可能だし、そんな必要はないのであるから、我が国の財政は成り立つであろう。さらに長期的な視点に立てば、空軍がやがて発達し、水上艦艇は戦争の主力から脱落することも起こるだろうから、軍縮条約の命脈が尽きるのも時代の趨勢だったのだよ。そう考えれば、何も心配は要らない。我が国の工業、科学、兵学、用兵などの力を発揮しつつ、敵国に隙を見せぬようにしていけばよい。
いま、アジアは欧米列強の植民地となり、支那大陸は混乱している。そのアジアのなかで安定勢力たりえるのは日本しかない。アジアの諸国民を奴隷状態から解放することは、もとより容易にはあらずといえども、日本がその第一線に立たぬ限り、隣接国民を塗炭の窮苦より救うことはできない。
そうだ、外交官の諸君に申し上げたいことがあるとすれば、それは区々たる外交事務にとらわれることなく、また外交辞令で事足れりとすることなく、国家を背負う気概と経綸を身につけて、山本権兵衛伯爵や加藤友三郎元帥のように堂々と外交交渉に臨んで欲しいということだ。そのためには、結局、自己修養するしかない。だからワシは、いつも郷土の偉人、橋本左内先生の話をするのだ。まあ、最後に聞いてくれたまえ。
経綸からいって、また人物から見て、実に偉かったのは橋本左内先生だ。先生は蘭学修行を通じて世界情勢を理解された。吉田松陰も烈士として立派な人であったが、世界的知識においては左内先生の方が偉かった。当時の日露同盟論などをみても立派なものだ。あれは左内先生がまだ二十二才か二十三才の時に書いた外交論だ。そんなに若い頃から堂々と日本の国策を論じておられたのだから、いかに傑出しておられたかがわかる。
ワシはよく青年諸君に向かって言うのだが、左内先生は典型的な日本精神の持ち主であられたが、今日の青年とてあのとおりになれるのだ。左内先生が偉かったのは、忠孝一貫、至誠一貫の人物であったからだ。だからこそあれだけの努力もでき、勉強もするようになって偉くなったのだ。左内先生が十五才の時に書かかれた「啓発録」という文書がある。あれが先生の成功の根本であった。そこに秘訣が書いてある。左内先生のように偉くなりたいと思えば、私心というものを忘れてかかってみることだ。そうすれば学ぶことも徹底し、是非曲直を判断することも神のようになる。私欲を去り良心を喚起せば、心の鏡が明々皓々と輝いて総ての理非曲直が判然とし、世に尽くすのにも間違いがなく、真剣になれる。要するに至誠に固まれば左内先生のようになれる。日本の青年は皆なれるのだ。すべて至誠に発する発憤努力だ。山本権兵衛伯爵の大業も至誠に発した熟慮断行だった。偉人というものは卒然としてできるものじゃない。半面に苦心努力があってできるのだ。日本の青年は、決して酔生夢死に堕すということがあってはならない。朝から晩まで寝ても醒めても大義のために尽くそうということを忘れなかった左内先生のことを考えて欲しい。
左内先生がまだ十五歳のとき、聖賢の書を父から与えられ、師について学問した。だが一向に進歩をみない。それで左内先生は身の不才を顧みて泣かれた。そして、未だ自分に足りないものは何かとお考えになり、それを書き記した。それが「啓発録」だ。
人間はいつまでも子供らしい心を持っていてはいかぬ。母の許にあって菓子をもらうような心持ちでは大義に徹することはできない。昔の武士の子は十三にして敵陣へ行って首を取ってきた。ああいう気概を持たねばならぬ。気概がなくては何事も進歩するものではない。武士が人に尊敬されるのは気概である。
そうして次に、その気概を以て志を立てるということである。志を立てなければいかなる努力もただ右往左往して一向まとまりがない。志を立てるということは、これから江戸へ行こうか、あるいは九州へ行こうかと決めることであって、目標を定めればいかなる足弱であっても結局は江戸にも九州にも着くのである。
その次が勉学だ。すなわち私心を去り、気概を持ち、志を立てても勉強しなければ、自分の知識が空虚となる。無駄骨を折る。いつ戦陣に出ても大丈夫なように、古来の兵学をよく学び、名将のやったことを腹蔵して抜かりの無いように準備しておくことである。
それから友を選べということだ。世に善友と悪友とあるが、善友とみたならば兄弟の如く親しんで教えを乞うべきである。悪友とみたならば自分の修めた道を以てその人を救ってやれということである。善友は大切だけれども、善友とは苦言を投げかけてくれるからこそ善友だ。だから時には不快になることもあるが、それは自分の足らない所を注意してくれているのだから、たとえ耳うるさくとも、感謝しなければならない。そのようなことが「啓発録」には書いてある。
そして、左内先生は書いたとおりに修養なされた。これが出発点だ。この気持ちで事に臨んだから、やることなすこと総てが徹底したのだ。
川路聖謨という、煮ても焼いても食えない、ちょうど今日で言えばスターリンみたいな男が幕府の大老であった。福井藩主の松平春嶽公は、川路大老のところへ左内先生を使者として出したことがある。春嶽公は事前に左内先生に注意を与えられた。
「川路という奴は似ても焼いても食えない代物であるからよほど気をつけてゆけ」
「承知いたしました」
左内先生は二十三才くらいだった。川路大老は傲然と構えて若輩の左内先生を見下し、軽くあしらおうとした。左内先生は冷静にそれを受けとめ、諄々と質問を進め、一言々々、川路大老が誤魔化し得ないような質問を次から次へとかぶせていった。とうとう川路大老の方が青くなったという。のちに川路大老は春嶽公に言った。
「あなたの家来には実に偉い人がある。左内という男は、年は若いが恐るべき人物だ。いままで私はあんな人物に出会ったことがない。彼の言々句々いちいち私の肺腑を突き、短刀で胸をえぐられるようで、実に驚いた」
その左内先生は、常日頃こう仰っていたという。
「人と談判をして説得できないのは自分の準備が足らないのだ。だから研究してまたゆくのだ。相手を馬鹿と思ってはいけない。自分が足りないと思え」
実に至言だ。これこそ外交の秘訣ではないかな。こういうところは、やはり本当の誠の心があるから出てくるわけである。たいがいの者は、話の通じない相手をみれば「訳の分からないバカな奴だ」と見下し、相手を責めるものだが、左内先生は自分を責めて目的を達せよと戒められたのだ。
左内先生の主張は攘夷でもなく、鎖国でもなかった。開国しなければ日本は国が保たないという主義であったのだが、それにはまず内を治めて強力な内閣をつくらねばならぬと考えた。しかるに時の将軍は病弱だった。これでは危ないから徳川慶喜公を擁立して内閣のような組織をつくれと提案した。島津家、鍋島家、山内家などから偉材を集めて内閣をこしらえ、慶喜将軍を輔翼させようとお考えなさった。だからこそ時の将軍の廃位を企てられた。この左内先生の深謀遠慮に西郷南洲翁は賛成した。
西郷南洲翁が城山で自決したとき、南洲翁の携えていた鞄の中には左内先生からの手紙が入っていた。まさに刎頸の交わりをしていたのだ。南洲翁と左内先生は深く信じ合い、左内先生の死後も南洲翁は尊敬しつづけていたのだ。だからこそ南洲翁の鞄には左内先生の手紙が収まっていたのだ。
福井藩主松平春嶽公もまた偉かった人で、南洲翁に対する島津斉彬公の如きものだった。やはり駿馬も伯楽に会わなければ伸び得ないのである。しかし、なんといっても人の誠意というものは恐ろしいもので、あれほどの偉人ができたのは全く誠の心から出発したからである。その秘訣が書かれておるのが「啓発録」だ。
もちろん橋本左内という人物が現れたのは、代々のご先祖様があり、福井という郷土があり、家族や親類縁者、友人知己があり、師がいて聖賢の教えがあり、さらには御皇室や日本という国体があってのことだ。そのような全体が左内先生を生んだのだ。君だってそうだよ。君が一人でここに存在しているわけではない。君の身体も命も君一人のものじゃない。君を成立せしめている様々な生命の連鎖を自覚すれば、自ずと覚悟も定まるというものだ。
加藤寬治大将は、この八ヶ月後、脳溢血のため急逝しました。
国際世論は気まぐれです。欧州大戦後に一世を風靡した軍縮歓迎の国際世論は、その後、数年を経ずして早くも冷めました。各国政府の軍縮政策は十年ほど継続したに過ぎませんでした。海軍軍縮条約は、大正十二年から昭和十年まで主要海軍国の海軍軍備を制限し続けましたが、軍縮条約が失効すると列国はバネが弾むように軍備拡張に邁進しました。結局、軍縮条約はアメリカ的詐術外交だったにすぎませんでした。アメリカは、外形的に平和を装いつつ、実質的に世界第一の海軍国となりました。