はなげ
はなげがでていた、一本。
人に会うからには最低限身だしなみを整えなければ。
鏡の向こうには、はなげを飛びださせた私。
これはよくない。
私は親指と人差し指の爪を向かい合わせると、それを鼻腔に近づけた。
鼻の穴に意識が集中し、洗面所のせっけんやらはピントが外れてぼやけた背景に成り下がる。
穴の中で湾曲し、鼻孔に配慮するかのように身を潜める毛の群れの中、よそのことは知らないと言わんばかりに一本のはなげが生えていた。
……見えた。
爪と爪とのスペースがゼロに近づき、私が狙った場所を寸分狂わず挟みこむ。気分はまるでユーフォーキャッチャーのようだ。
私はゆっくりと腕を引き、はなげを抜く。痛みなどない。
指にゆっくりとピントを合わせたとき、そこにはなげはなかった。
はなげは依然として、私の鼻から伸びていたのだ。鼻孔に広がる暗闇が私の認識を狂わせた。穴の中心部から生えていると思っていたはなげは、実のところ、穴の下部から生えていたというわけだ。
ここにきて私は鼻腔の中が、黒色であるはなげの領域であると理解した。
私は再び鼻孔に指をいれる。今度は人差し指の腹にはなげの感触。
人差し指は固定したまますり寄るように親指を滑らせ、はなげを挟んだ。
そして引き抜く。
ぬるりとした。はなげのまとっていた粘液が指の力を逃したのだ。挟む力が足りなかったためはなげを引き抜くことは叶わなかった。
そのときピンセットが思い浮かんだ。たしか寝室の引き出しにピンセットがあったはずだ。
されども私はその場から足を動かさなかった。自分の特徴を生かして抵抗を続けるはなげに対して、道具を使うのは違う気がした。また、ピンセットを取りに寝室に向かう私の姿はひどく情けなく思えたのだ。
何度目になるのか、私の親指と人差し指は鼻孔に侵入する。フォーメーションは最初と同じく爪で挟む形だ。
最早はなげの位置は把握していたため、私は流れるような動作ではなげをつまんだ。
爪を擦り合わせることで得られる、じりじりとした異物が挟まっている感触。
私は爪先が白くなるほどに力をこめ、そして力任せに引き抜いた。
ブツリ……。
頭のどこかで音がした。
一瞬遅れて目は潤み鼻孔内に染み渡る鈍い痛み。
指先を確認すると、確かにはなげが挟まっていた。鏡に映る私もはなげをのぞかせてはいない。
鼻から飛び出ていたはなげ。いったいどれ程の長さだったのだろうか。私ははなげをしげしげと眺めた。
あんなに抵抗してみせたのに、そのはなげはほかの毛たちと変わらない長さしかなかった。
観察していて違和感を感じた。その毛には末端によくある毛根みたいな膨らみが見当たらなかったのだ。まるで途中でちぎれたかのような……。
はなげは身を切り、本体である毛根を守ったのだ。それはトカゲの尻尾切りに通ずるものが感じられた。
このはなげが人であったなら私は逆立ちしても敵わなかっただろう。
きっとまた生えてくる。
私は強敵との再戦を頭の中で思い描きながら、玄関の扉を開けた。
そこには最早宅配のお兄ちゃんはおらず、ポストに一枚不在通知表が入っていた。