表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
孤独をあげたい  作者: 森 彗子
4/5

消すことのできない君へ

あの日見た虹の架け橋は今も鮮やかに覚えてる。

のろまなぼくを置いて彼女らしく生きてくれていることを

ぼくは星や太陽にお願いした。






 届かないとわかっていても、ぼくは巴宛に手紙を書き続けていた。

 彼女が消えた日から、彼女の残像だけを感じて、ぼくにまで嘘をついて守ろうとした何かをわかってあげようとして、励ましの言葉を選んだり、路頭に迷ったりしていないかとお節介な言葉を書き連ねた。


 その一方で無事に高校を卒業したぼくは地元の小さな会社に就職した。大型トラックの免許を取ってドライバーになったのだ。まだ中学生の弟にお小遣いをあげられることはひとつの喜びだったし、少し前から表情が穏やかになった母の発作も見られない日が続いていた。淡々と、だけど確実にぼくの暮らしは安定していたといえる。


 緊張する場面にくると、やはり吃音が出てうまくしゃべれないけれど、高価だけど在庫処分品だったヘッドフォンと音楽プレイヤーを通販で買ったぼくはリラックスを味方につけた。些細な失敗や細かなことをクヨクヨ気にせず、作り笑いでも笑顔を忘れず、最低限の受け答えをして、人畜無害の大人に成長して来れたと自負している。


 信頼される人になりたい。

 その思いがぼくを支えていた。



 だけど、巴のことを想うとき。

 自分の不甲斐なさに焦りと憤りを感じてしまう。

 ひどく惨めで情けない気持ちになってしまう。

 いくら自分を責めても、どうしようもないというのに、

 彼女の存在は今もぼくを揺さぶる。





 ある日、家に帰ると淡いピンク色の封筒がぼくの机にのっかっていた。


 汗臭いぼくは着替えをもって風呂場に向かうのが定番だけど、今日はその封筒の前で立ち止まったまま動けなくなってしまった。


 ぼくが知る限り、この色の封筒をくれるのは一人しかいない。


 まさか、巴から?


 そう思うのだけど、どうしても手が伸びない。


 ――――それは彼女が消えた日から四年目の夏のことだった。


 どうしてこんなに怖いのか、自分でもわからなかった。


 煎餅の缶に仕舞っておいた、薄いピンク色の封筒の束を取り出して、すでに何度も読んできた過去の手紙に触れながら気持ちを落ち着けていくと、十二歳から一度も顔を合わせていないはずの巴の顔が思い浮かんで来て、胸の奥をナイフの切っ先で傷つけられたような痛みを覚え、息ができない。


 自分でも知らないうちにぼくは傷付いていたことを思い知った。


 突然消えた巴、途絶えた絆、終わったと思ったぼくらの細くて長い友情。


 たった一枚の便せんを見ただけで、全身が震えてしまう。



 なんて弱いのだろう。



 臆病なんだろう。




 出せなかった手紙の束をつかんで、ぼくはそれを抱きしめた。

 

 行き場のない想いが綴られたぼくの手紙は、

 彼女から貰った手紙の束よりも多くて

 捨てることもできなかった。



 締め付けられる痛みとともに絞り出てきた涙の味は苦くて、ぼくは心の嵐が去るのをただじっと待つしかなかった。







 ひとしきり感情の大雨に打たれた後の余韻の中でやっと立ち上がったぼくは、机の上の手紙にやっと手を伸ばした。


 ひっくり返すと、差出人の名前はやはり巴からだった。



 ハサミで綺麗に開封すると、四つ折りの小さな便せんが一枚出てきた。


 折りたたんでいるとはいえ、それは一度クシャクシャに丸められたような状態で、一部が破けて欠損していた。


 そっと開いてくと、紙が鳴いた。

 その音は巴の泣き声のように感じた。



 ***


 たかしくん


 ごめんなさい。うそつきでごめんなさい。


 ばかでごめんなさい。


 ずっと謝りたかったことがあります。


 私は最低な人間でした。


 本当にごめんなさい。


 心配かけてごめんなさい。


 今更、どんな顔をして会えるのかと自問自答してました。


 でも、会いたくて


 会いたいです。


 会ってくれますか?



 あのバス停に行けばまた、会えますか?



 ***


 手紙はそこで終わっていた。



 あのバス停とは、たぶん間違いなくぼくらが一緒に雨上がりの虹を見た場所だと思われ。


 でも日時は書いてない。


 謝ってばかりで、肝心なことは何ひとつ書かれていない。


 巴は自分の弱さを見せられない子なのだと思う。

 だけど、こうして一度はひねりつぶして捨てた手紙を拾い上げて、ぼくに送ってきたということは、何かよほどのことがあったのだろう、とそう思った。


 日時の書いてない手紙から封筒の消印に視線を移す。

 切手は貼られておらず、消印もない。


 ……ということは、つまり。


 ――――そんなわけないだろう、と思いながら。


 ぼくは靴を履いて、ふらりと外に出て行った。

 市営住宅の狭い階段を下りて地上に立つと、ふわふわとした不思議な感覚がする。


 日が落ちそうな夏の初めの茜色の空の下を、夢心地で歩きながら、自宅から徒歩で十五分程度の道をぼくなりの速度を上げて、走ったり歩いたりしながらやっとたどり着いた。


 田舎のバスは時刻通りには来ない。

 ましてはこのバス停を利用する人は少なくて、取り壊しを待つ古い団地の道角に立つ楕円形のバス停まで直線であと数十メートルのところまで来たところで、ぼくは動けなくなった。



 バス停には人がいた。


 白っぽいワンピースを着た女の人がぼんやりと道路を見つめて立っていた。



 椅子は撤去され、雨宿りをした屋根もなくなったその場所に、まっすぐと立つ女性の足元にはキャスター付きの大きなカバンがあった。



 

 目を凝らしても、眼鏡をかけても視力0.9もないぼくには、その女の人が巴かどうかはわからない。立ち姿から、八年前の記憶に残っている巴と比較しようとしても、うまくいかない。



 消印のない封筒を握りしめて、ぼくは一歩を踏み出した。




 細く長い影がついてくる。

 ぼくはぼくのペースを崩せない。


 急いでいるつもりでもなぜか足がもつれてうまく前に進めている気がしない。


 巴が謝ろうとしたことが何か、ぼくはうっすらと気付いている。


 どうしてぼくに実情を話すのをやめたのか。

 どうしてぼくに手紙を書けなくなっていったのか。


 ぼくはのろまだけど人の気持ちはなんとなくわかるつもりだ。


 家出した父さん、心の安定を失った母さん、

 物わかりの良い器用で頭の回転が速い弟……。

 みんなの気持ちはぼくなりに感じて知っているつもりだ。



 根気強くぼくの達成を見守ってくれた先生たち。

 接し方がわからないだけで、

 決してぼくを排除しようとしなかったクラスメイト達。

 彼らの気持ちもぼくなりに感じて有難く受け止めてきたつもりだ。


 ゆっくりでも確かに前に進んできたぼくは

 巴の謝ろうとしていることが何なのか

 たぶんわかっている。




 横顔の女の人がこちらを向いた。


 だるまさん転んだ、をしたときのように。

 ぼくは立ち止まったまま、巴らしき彼女を待った。



 体を向けて走り出したのを見て

 確信に変わる。




 ぼくも走り出した。




 つま先が地面に躓かないように、足を上げて必死で走った。





 目の前に来たら、紛れもなくぼくが知っている顔の彼女は

 涙目でほほ笑んだ。


 えくぼが、巴であることを証明している。



「……会いに来ちゃった」



 彼女は掠れた声でそう言った。



 手を伸ばし、ためらいもなくぼくにしがみついてきた。



 あの懐かしい花のような香りがした。

 


 ぼくの体にあたる彼女の体は、すごく柔らかくて熱くて、驚いた。



 そしてもっと驚いたのは、彼女のお腹がふっくらとしていること……。


「………」


 驚きすぎて何も言えない。言葉がすぐに出て来ない。


 巴は俯いて、自分の膨らんだお腹が見えるように服を手で押さえた。


「……この子には、父親がいないの」


 夕日に染まる彼女の顔を眺めながら、ぼくはごくりと唾を飲み込んだ。


「……家に帰ったら、お母さんもいなくなってて……」


 小さな子供みたいに涙交じりの声色で、彼女は必至で説明しようとしていた。


「私がばかだったの……。

 これからどうすればいいか、わからないの」


 ワッと泣き出した彼女はぼくの前で膝をついた。

 慌てて両肩を捕まえて、立ち上がらせる。


 アスファルトの上に妊婦さんを座らせられない。


 俺に抱き着いて泣きじゃくる彼女が落ち着くまで、しばらく動けなかった。




 事情を聴くためにぼくは彼女の荷物と、彼女の手を引いて、家に帰った。


 母さんも弟も最初は驚いた顔をしたけど、お客様として受け入れてくれた。


 生活保護から抜け出してぼくの給料だけで三人家族を養っていたから、一応大黒柱としての権限はあるみたいで、彼女をしばらくうちに置くことを反対されることはなかった。


 しばらくめそめそと泣くだけで話すこともできなさげな巴を、ぼくの部屋に敷いた布団の中に入れてやった。母さんは膨らんだ彼女のお腹を見て、すごく心配そうに俺にそっと囁いてくる。


「たかし。あんたの彼女なのかい?」


 ぼくは首を振った。


「ついさっきそこで会ったんだ。すごく困ってるから、落ち着くまでうちに置いてあげたいんだけど……」


「……私は良いよ。内職、手伝ってくれるかしら」


 母は造花の組み立てという内職をしている。黙々と作業すると、余計な雑念はどこかへ飛んでいくから精神衛生的にも良いと言って、近所の友達の誘いで始めた仕事だ。時には友達と談話しながら綺麗な花を作る作業は、本当に楽しいらしい。


「まこと」


 弟の名前を呼ぶと、察しの良いまことは「俺は別にいいけど」と答えた。


 襖を閉めて、横になりながら濡らしタオルで目を冷やしている巴の前であぐらをかいて座ったら、せっかく冷やしている目からはまだ大粒の涙が止め処なく溢れていた。


「……巴。大事なことだから聞くけど……」


 言い淀んだところで、時間は待ってくれない。お腹の子供の命運を考えると、とりあえずやるべきことはやらなければいけない、とぼくは考えた。


「父親がいないその子供、産むつもりなんだよね?」


 巴はどこを見ているのかわからない目つきで、ほほを強張らせた。


「妊娠、何か月なの?」


 彼女は観念したような顔をしてから、「六か月目だと思う」と答えた。


 だと思う、という歯切れの悪さに嫌な予感がする。


「病院にはちゃんと行った?」


 ぼくの問いかけに対して、また巴はギクリと肩をいからせた。


 そして、予想通りの答えをひどくもったいぶって言うと、巴はまた泣き出した。


「病院には、行けてないの。保険証もお金もないんだよ?

お母さんはどこに行っちゃったのか、わからないし……。

三年ぶりに家に帰ったら、知らない人が住んでて……」


「その、帰るまではどこでどう暮らしてたの?」


 ぼくの問いが拷問だといわんばかりに、巴は悲痛な顔をしてタオルケットを噛み締めた。


「住み込みでバイトしてたの」


 小さな声だ。やましいことでもあるような、そんな自信のなさを感じる。


「どんなバイト?」


 思い切って聞いてみなくちゃ、どうしてこうなったのかがわからない。

 だけど、巴はタオルケットを頭から被って沈黙した。


 言いたくない、という意思の表れだと思われ……。


「……わかった。それはもういい。

ただ、父親がいないっていうのはつまり、付き合っていた人と別れたっていうことで良いのかな?」


 ぼくはかなり気を遣いながら聞き出そうとした。

 その男は巴が妊娠していることを知っているのかどうか、聞き出さねば。

 それしか頭になかった。


「……別れたっていうか、そもそも深い付き合いじゃなかったっていうか……」


 歯切れの悪い言い訳だとしても、ぼくは巴の言葉になりきれない声を聴くために心を澄ませた。オドオドとして、だけど他に頼る人がいなくて、ぼくのところに来たのだろう。そう思うと、うれしいような切ないような気分になる。


 巴は時間をかけて妊娠に至った経緯をそれとなく話した。それは常識を逸脱していて、すぐには受け入れがたい内容だった。


「巴は、その人のことが好きだったんでしょ?」

「……それは、その…………好きとは程遠い……、生きていくために……」


 唖然とした。


 だけど、ぼんやりしているわけにはいかない。


「……私、バカだったの……」と、また泣き出した巴のタオルケットを、俺はむしり取った。


 驚いた顔で、ぼくを見上げてくる瞳を見つめ返しながら。


「その子を産みたいの? 産みたくないの?」


 巴はショックを受けたように、目を見開いて固まっていた。


「巴。産んで育てる覚悟あるの?」


 ぼくはできる限り優しい声を心掛けた。

 巴は厭々と首を振って、「私にはできない!!」と叫んだ。




 彼女が落ち着くのを待って、ぼくは中古で買った軽自動車に彼女を乗せて、産婦人科の個人病院を訪ねた。以前、母さんが更年期障害の治療でお世話になった先生だ。電話で事情を説明すると、診察してくれるというので好意に甘えさせて貰うことにした。


 巴は酷く緊張しながら、診察室に入っている間ぼくは待合室で腰掛けることもできずに待っていた。


 薄暗い明りの下で、カチカチと時計の秒針が時を刻んでいる。


「たかしくん、どうぞこちらへ」


 院長先生の奥さんがぼくを手招きして、一番奥の診察室に招き入れられると、モニターに映った白いものが元気よくミジンコのように動いていた。よく見れば二等身の赤ちゃんだということはすぐにわかった。


「サイズ的には18週目から20週目のあたりだね。問題なく育ってるよ」


 還暦前の院長先生はとても人当たりが良い。心療内科と婦人科を行き来していた母にとっては最高の担当医だとぼくは思っていて、全面的に信頼してる。


 岩井先生は「おめでとう、たかしくん」とぼくに言った。


「いえ……。彼女は友達で、そういうんじゃないんです」と否定すると、先生は奥さんと顔を見合わせた。


 内視鏡画像をプリントアウトして、それを巴に渡すと、巴は画像をじっと見つめて唇を噛んでいる。


 身支度が整うまで、先にぼくが先生と話をした。事情を説明すると、先生は複雑そうな顔になった。


「……てっきり、君の彼女かと」


「……すいません。でも、彼女はぼくにとって大切な友達です」


 本心だったし、それ以外の言葉は思いつかない。

 


 巴はかしこまった顔をしてぼくの隣の椅子に座った。


 先生は身を乗り出すようにして、巴の顔を覗き込むと、


「君は未婚で子供を産んで育てる覚悟はできているのかい?」と聞いた。


 彼女は肯定も否定もせずに、意を決したようにお腹の父親について話し始めた。

 


 巴は中学三年生の一学期から不登校に陥っていた。

 だから受験はできなくて、工業系の定時制高校に入学した。

 そこで新しい友達が出来ると、誘われるがままに夜の集会についていった。

 暴走族の集会は刺激的で単純に新鮮だったようだ。


 バイクの後ろに乗ってヘルメットなしで夜風を切るのが楽しくて、両親の離婚依頼解消できないやり場のない寂しさを埋めるにはちょうどいいスリルだった。刺激のない一年間の後の刺激的な経験に彼女は夢中になっていった。


 欲しいと思っていた優しい言葉をかけてくれる不良グループの仲間に温かく受け入れられたことで、学校にも家にも帰らず、彼らの誰かしらの家に転々と泊まるような生活が始まった。だけど肝心なお金がないと、食べることも着ることもままならない。そこで手っ取り早くお金を稼ぐために、紹介されたキャバクラで歳を誤魔化して働き、慣れない酒でなんども失敗をし、壊したグラスの弁償にと店長に強要されて、デリバリーデートでサービスをする仕事を始めたのが家出から一年後のことだった。

 家出先で家賃替わりに体で払っていた彼女にとって、その転身は抵抗が少なかったのだという。


 でも時々ふと目が覚めたように自分はこんなことをしたいわけではないと思い立ち、何度も家に帰ろうとしたけれど、家出するきっかけのことを考えるとどうしても家に帰れなかった。

 巴のおばさんは離婚した翌年から再婚を考えていた。職場の同僚から紹介されて付き合い始めた相手を家に呼ぶようになり、毎晩のように薄い壁の向こうから母親の何とも言えない声が聞こえてくるようなるまで時間はかからなかった。


 そんな環境では受験勉強にも身が入るわけがない。晩御飯にもありつけない。

 図書館も午後六時には閉館するし、廃棄が決定したコンビニ弁当をこっそり分けて貰って、公園のベンチで一人飯をしていたそうだ。


 そんなことになっていたなんて、ぼくは本当にショックだった。


 ぼくに書いた手紙にはそんなこと微塵も書き込まれてはいなかった。


「たかしくんに書いた手紙は、理想だったの。

手紙を書いている間は、理想の暮らしの中に居られて幸せだったから」


 まるでマッチ売りの少女が、売り物にならなくなったマッチを擦って火を灯し、ごちそうや大好きなおばあさんの幻を見て心救われていた、といったような悲しい慰めが心に浮んだ。そして、容赦なく、ぼくの心を締め付けてくる。


 

 ようやく肝心の赤ん坊の父親の話に及ぶと、巴は歯切れの悪いこと。

 のんびり温厚なぼくでさえ、イライラした。


 おどおどと打ち明け始めた彼女の言葉は、言いよどむだけあって酷いものだった。


 巴はデリバリーデートで常連客になった男の愛人になった。


 その相手は、地位も名誉もある中年の美容整形外科の医者だったそうだ。



 既婚者で、生き別れた父親と歳の変わらない男に

 高級マンションを与えられ、ブランドの服やバッグや装飾品を買ってもらって、

 まったく金に困らない暮らしを一年。


 愛人と言うからにはもちろん男女の関係ではあったわけで、彼女がピルを飲んでやることをすれば妊娠の心配など要らなかったのだけど、体調を崩した彼女は医者と相談してピルを休む期間を設けた。その事情を知っていたはずの中年男は、酔っぱらって避妊具をつけるのを怠け乱暴をした。


 挙句の果てに翌月の生理が止まった。

 妊娠の可能性を伝えると、男はマンションから巴をつまみ出した。


 新しい若い愛人と入れ替えで、手切れ金の五十万円を渡されて、もう要らないと言われたのだという。



 岩井先生も、奥さんも、ただ茫然とした顔をぼくに向けて黙りこくっていた。



「君が一番まずかったのは、すぐに産婦人科に行かなかったことだ」



 岩井先生は憤るようにそう言った。

 そして、奥さんは「確かに、すぐに妊娠だと感じて動いていれば……」と、語尾がかすんでいく。


「でも、私は保険証を持っていませんでした」と、巴が必死に言い訳をした。


 疲れを覚えながらも、ぼくは巴の目を見て言った。


「保険証にこだわってるけど、それよりもまずは自分の体を最優先すれば良かったんだ。五十万円も持っていたなら、どうしてすぐに医者に行ってなんとかしなかったんだよ?」


 自分でも意外なほど、はっきりとそう言っていた。

 巴の両眼にはまた涙があふれだす。


 ぼくと再会してからずっと泣きっぱなしの巴の目は真っ赤に腫れていた。


「……でも、でもね!

この子だけは、ずっと私と一緒にいてくれたのよ!!


お父さんにもパパにも捨てられた私のところに

生まれて来ようとしているの……」


 彼女は泣きながら叫んだ。


 ぼくも先生らも、その言葉にハッとした。



「路頭に迷って、貰ったお金でネットカフェで寝泊まりしながら、これからのことを考えながら、どうしようもなく一人を感じていると、お腹の中に自分とは別の命がいるんだって思ったら、……こんなに小さくても私はこの子に……救われたの……」


 かすれ声だけど愛おしそうにそう語る巴の顔は、優しかった。


 さっきまで自分のことを話すことで精いっぱいだったはずの彼女は、膨らんだおなかをなでるように慈しみながら、「おろすなんて……、殺すなんて……、私にはできないよ……」と、小さな声で言ったんだ。


 だったら、話は決まっている。


 岩井先生も同じことを思ったのか、ぼくと目が合うと頷いた。


「よくわかったけど、ひとつ聞いても良いかい?

巴ちゃんはどうして千葉から北海道に来たんだい?

お母さんの実家は千葉だろう?

お父さんを頼ろうと思ったの?」


「……お父さんにも新しい家庭があります。

……私、本当は死ぬつもりで北海道に来ました。

地球岬の崖の上から身を投げようって本気で考えて、飛行機のチケットを買いました。

だから、財布の中はもう空っぽで……」


 巴はショルダーバッグから薄紫色の折り畳み財布を取り出して、中身をぼくたちに見せた。所持金、2,587円。


「……でも、バス代も汽車代も足りなくなって、こんな体で身売りなんて出来ないし」


 くらくらする頭を支えるつもりでぼくは眉間を指先で抑えた。


 ぼくはずっと巴はぼくよりも賢い子だと思っていた。

 優等生で面倒見が良くて、明るくて笑顔がキュートで、誰からも愛される女の子。


 だけど、今。

 ぼくの前に現れた巴は、ぼくの頭の中の偏見を完膚なきまで叩き壊した。


 寂しさは人生を壊すのだと思う。


 母さんも、巴のお母さんも、巴も、寂しさに押しつぶされた。



 病気になったり、娘よりも恋人を選んだり、頼る相手を見失って明後日の方向に突き進んでしまったり。



 死ぬつもりで北海道行きのチケットを買った、なんて。


 そんな話、悪いけど笑ってしまうよ。




 ぼくは我慢できなくて、噴き出した。





 「バカだなぁ」




 気付けばぼくはそんなことを言って、大笑いしていた。




 泣いていた巴がきょとんとした顔でぼくを見ている。



 そんな彼女の、笑顔のない真顔を見ていると。

 


 「死ぬんじゃなくて、ぼくのところに来て良かったんじゃない?」



 自然と零れ落ちた言葉に、

 巴はくしゃりと顔をゆがませてまた小さな女の子のように泣き出した。


 



 ぼくは岩井先生の指導のもと、巴の戸籍謄本を取り寄せて住民票を異動させた。そして、国民健康保険の手続きをするために窓口に行く途中で、巴に提案した。


「ねぇ、巴。ぼくの家族になる?」

 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ