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孤独をあげたい  作者: 森 彗子
3/5

ぼくの世界に住み着かれて

あの日から君はぼくの世界の真ん中に居座っている。

虚ろだったぼくという存在が、君を獲得したことではっきりと浮かび上がっていく。



 木漏れ日が差す歩道を、ぼくはぼくのペース配分で歩き続けていた。


 手には書いたばかりの手紙を持って、最も近い場所に設置されている郵便ポストを目指す。


 彼女の住む町の名前は初めて見る地名だった。まさか県外に向けて手紙を書く日が来ようとは、思ってもないことで。


 人気者の彼女は、夏休み明けになってもまだ教室に存在感を残していた。綺麗でまっすぐな文字を眺めると、体の奥にツーンという言い様のない痛みが走る。


 彼女は小さなメッセージカードとそれが入る小さな封筒に、クラス全員分にありがとうという短いけれど決して忘れられない言葉を配って行った。


 だから、当然。居なくなった彼女のことを名残惜しむ声が毎日聞かれた。


 そんな中で、ぼくはまたひとりぼっちの心地よさの中にいて、自分だけの胸に仕舞ってある彼女とのやりとりを何食わぬ顔をしながらこっそりと楽しんでいる。


 一週間に一度のペースで、手紙は往復していた。



***


 元気ですか?

 私は元気です。


 でも、慣れない場所で一から始まる生活は思った以上に疲れます。


 離れてみて、私はとても素敵なところにいたんだなっていうことに気付きました。


 こちらは夏がとても足早にやってきて、今月いっぱいはまだ夏休み。学校が始まる前に図書館に通いがてら、周辺を散歩しながら色んな発見をしています。


 夜眠る前は、どうして自分はここにいるんだろう?って考えて、眠れなくなりました。


 新しい職場で働いて、仕事から帰ってくるお母さんと顔を合わせる時間があまりありません。

 こんな時、一人っ子って寂しいなって思います。


 市営住宅の五階に住んでいるんだけど、階段がとっても狭くて人とすれ違う時とても怖いです。


 目の前に公園があって、沢山の子供たちが遊んでいる声が聞こえて来るけれど、こんなに人がいるのに、私を知る人はまだ一人もいないのだと思うと、とても心細い気持ちになります。


***


 彼女は、

 畑野という苗字になったばかりの巴は、手紙の中では想像以上にか弱い女の子だった。


 はつらつとして明るいイメージとは程遠い内気な面を知るたびに、ぼくの中の巴は自分に似ているのだと思うようになっていった。



 ポストの前に来ると、ぼくは周囲をキョロキョロと見渡してから、封筒に口付けして、そっと投函する。無事に届きますようにという祈りと、慣れない土地で心細い想いをしている彼女を励ましたい気持ちを込めて。


 それから三日後には、巴から返事が届いた。

 北海道から千葉まで郵便物が届く時間は、切手を買った際に郵便局員から聞く限りでは早くて二日かかる。その情報が確かなら、巴はぼくの手紙を読んですぐに返信を書き、ポストに急いだことになるんじゃないだろうか?


 そんな必死な彼女を想像すると、どうしようもない程嬉しくて。


 手紙の封を切ると、とても良い香がする。

 あの時、巴が去るときに残した香と同じ、華やかでやさしい女の子らしい香。


 忘れられない鮮明が笑顔を思い浮かべながら、ぼくは彼女の心に寄り添いたい一心ですぐに返事を書いた。



-+-+-+-+-



 ぼくらの話題は図書館で借りた本の紹介から、最近インパクトがあった出来事とその感想や、普段は他人には打ち明けることのない家庭内の事情に至るまで、少しずつ、でも確実に距離を詰めていたと思う。


 もう、ぼくはひとりではなくなっている。

 いつ、どんなときも、なにをしていても、彼女が心の中にいる。


 新しい学校が始まったばかりの頃、彼女の手紙の内容は不安を吐露してばかりいた。話す速度も、会話のテンポも、話題にも馴染むのが難しそうだと巴は書いていた。


 家に帰っても話す相手がいないから、どうしてもぼく宛の手紙に今日感じたことを書いてしまうのだ、という。それはつまりぼくを頼ってくれているのだと思うとすごく嬉しくて、ただひたすらに嬉しくて、巴を励ます言葉だけじゃなく、彼女のさびしさが少しでも紛れるための話題をつづった。


 手元にある小説や詩集で気に入った言葉をそのまま書くと、それを読んだ彼女から感想の言葉と、それからオリジナルの詩が入ってくるようになった。


 ぼくたちはやはり似ているのだと思った。


 巴が集団の中で感じる孤独について書いた詩を読み返せば返すほど、その一言一句を噛み締めるように見つめれば見つめる程、ぼくがずっと抱えてきた誰とも分かち合えないさびしさやもどかしさを彼女は自分らしい言葉で表現していたから。


 感じ方が似ている。

 それだけでぼくらはまるで生まれる前からの親友のような気持になれたと思う。


 でも、それは他人が読んだらぼくと同じように感じたかと言えばきっと違う感想を抱くようにも思える。


 別々の場所に居て、別々の日常を生きているぼくらに共通しているのは、家族に頼れないという孤独だから。


 家族がいて何もなく平和ならば、きっとぼくらのこの手紙の中身を読んだとしても、得られる感動は全く別のものになるだろう。それは、ぼくがお母さんや、行方不明のままのお父さんと解り合えなかったことからも解ることで。


 解り合えないということを知れば、他人と自分の距離も解るようになる。


 ぼくはこのひとりぼっちを誇りにさえ思っているところがある。



『お母さんに話したいことがあると言っても、寝不足で疲れている顔を見ると何も言い出せなくなる』


 そう書いてあったインクの文字が濡れた跡がくっきりと残っていた。


 アジサイの花弁のように点々と散りばめられた涙の跡を指先に感じると、いますぐ巴のそばに行って抱きしめてあげたいという気持ちが自然と湧き上がる。


 中学生になって、繰り返されるテストと、積み上げられていく山ほどの課題をこなしながらも、ぼくは年の離れた弟と二人で家のことをして、生活保護を貰いながら精神的に病んでしまった母親を支えながら暮らしていた。


 母は孤独を愛せない人で、父親が消えたのは全部自分のせいだと信じていた。二人がどんな夫婦関係だったかなんて知らないぼくには、ただ泣いている母の背中に手を乗せているしか、母の代わりに家事をして、弟の相手をするしかできない。


 この歯がゆさは巴に対するものとそう大きな差がない気がする。



 ぼくは最近になってようやく、手紙の中で自分の置かれている状況を巴に打ち明けるようになっていた。


『高志くんはすごく頑張ってたんだね』


 彼女の丁寧な文字を読んだとき、ぼくはまた突然胸の奥をかきむしられた。


 ぼくの頑張りを認めてくれた彼女の言葉には、壮絶な威力がある。


 それまでずっと誰にも言えずにいた気持ちが自然と溢れ出すような、そんな気分になっていった。



 安い食材で単調の料理しか作れないぼくらの話題は、レシピも含まれ始めて。イラストを描くことが好きな巴は、色鉛筆で丁寧に塗った完成図までつけて、ぼくに料理を教えてくれたりもした。


 携帯電話もカメラもネットも持っていないぼくらは、手間暇かかる手書きの手紙とイラストやらくがきを混ぜて、文通を楽しんでいた。似ている境遇の中で通じ合う心を感じられるのは、目の前にいるが何を考えているかもわからないクラスメイトや先生よりもずっと近くて、頼りになる存在だった。


 ぼくが巴にそう感じているように、巴もぼくをそう感じてくれてることが、ただ素直に幸せだったと言える。



 現実ではすべての仕草がゆっくりとしているぼくは、誰にも待ってもらえない。

 ゆっくりとしているなりに丁寧に文字を書き、本を読み、勉強をして、母と弟のために家事をして、巴を想って手紙を書く。中学生の間はずっとそれでよかった。



 受験が近付き、手紙の頻度が落ちていく中でも。巴はぼくに『信じてる』という言葉を繰り返し送ってくるようになった。未来を信じている。勝手にそう解釈していたぼくは、彼女が何を望んでいたのか気付いてはいなかったのかもしれない。



***


 今日、虹を見ました。

 虹を見ると、たかしくんと見た虹を

 思い出しました。

 願い事をかけると良いそうです。

 二人とも夢が叶いますように。


 巴


*** 


 突然届いた絵はがきには、見事な虹が写されていて、巴の書いた字の金色のインクが目に沁みた。


 自分から言い出せない言葉をどれほど抱えていたのか、ぼくには読み取れなかった。


 心地よい雰囲気を自分から壊したくない。

 おそらくきっと、そうした思いがあったのかもしれない。



 そんな遠慮が、いつの間にかぼくらの心の距離を離していったんだ。




 自分の言いたいことに気を取られてばかりいると、相手の言いたいことをおろそかに聞いているのだと、ずっと後になってぼくは気付くことになる。

 



 巴の手紙はいつの間にか仔猫や仔犬の絵ハガキになり、長々と書き綴られていた文字数がガクンと減って、書いてある言葉からも心を感じ取ることができなくなったのは、ぼくが高校に上がって夏休み前の定期テストを終えた頃だ。


 何てことのないあいさつ程度の言葉になっていた短い文面を何度眺めても、彼女の気持ちが感じられなくて、ぼくは思い切って電話をかけてみることにした。


 夜七時ぐらいなら家にいるはず。

 巴はかなり真面目な女の子で、実生活の中では寂しさや気だるさを表に出さずに、小学生の頃のような優等生を演じているのだと、そう思い込んでいた。その事に気付くきっかけになったのは―――。


 コールが鳴ってすぐに応答したのは、巴のお母さんだった。


「もしもし、ともちゃん?」


 飛びつくように、悲壮な声色は震え、かなり気持ちが高ぶった様子が、受話器の穴の奥から僕の脳裏に流れ込んできた。


「あ、あの! ぼ、ぼ、ぼ………ぼくは………」


 吃音持ちのぼくはすぐに言葉が出て行かない。

 焦るときほどその悪い癖が、ぼくの初動を邪魔する。


 でも、この特徴のおかげで相手はすぐにぼくのことを思い出すこともある。

 巴のお母さんも、ぼくのことは知っている。

 それはすでに何度か電話で話したことがあるせいで、いつもは巴からかけてくる電話が多かった。電話代を気にして、折り返し電話をかけようとすると、お風呂に入ってくるとか、コンビニに買い出しに行ってくるとか、そんな用事が介入してきて時間をズラされることもあった。そのため、ぼくが折り返すと決まってお母さんが電話に出て、「いつも話し相手になってくれてるみたいで、ありがとうね」と丁寧なお礼をされた。


 そんなやりとりは三度は経験していたから、巴のお母さんはすぐにぼくだと解ってくれた。


「高志君、巴がどこにもいないの!」


 聞けば巴は前日の朝顔を合わせたきり、一度も帰宅せず三十六時間も音信不通らしい。


「こんなこと、今まで一度もなかったから……」


 おばさんはかなり動揺していた。


 ぼくは北海道のパッとしない町に住んでいる。

 巴が居るのは千葉県の海岸線沿いの街らしい。


 学校のパソコンでネットができるから、ぼくは彼女の住む町の地図をモニターの画面いっぱいに広げて、ストリートビューを開いた。


 灰色の空と、同じ色の海と、こっちとそう代り映えのしない国道の痛み具合と、道行く車やトラックや通りすがりの人々を眺めた。顔にはぼかしが入り、誰かもわからなくなっている。おばさんと巴の話をしていると、その映像が脳内スクリーンに流れた。


 主要な道路をずっと追いかけて、レンタルビデオ店や本屋、生活に必要なものが手に入るスーパーやドラッグストア、安価の洋服屋さん、ファミリーレストランなどを見て、こっちとあっちではそれほど大きな違いは見つからなかった。同じぐらいの田舎臭い街並みに、ぼくはなぜかとても安心した。


 だけど、その安心はすぐに不安に変わる。

 おばさんの口から、巴が定時制高校に通っていることを初めて知って驚いた。


「そこで知り合った友達がね、ちょっと不良っぽい子が多いんだけど。もしかしたら家出して、友達のところにいるのかもしれないわね」


 おばさんはまるで他人事のように冷静に、そう言った。


 巴は県内ではそこそこの進学校に合格して入学したと言っていたのに。

 ぼくに嘘を吐いていたなんて……。


「あの子、勉強嫌いになって全然受験に身が入ってなかったのよ」


 呆然とするぼくの耳に、次々と知られざる真実が飛び込んでくる。


「気付いた時には手遅れだったわ。私がもっと気を配るべきだったの……。

あんな不良と付き合うなんて、自暴自棄になってるのかもしれない」


 おばさんは憔悴した様子で、ため息を何度も零した。


「……と、巴さんは……、とても、とてもお母さんのことを、想っていましたよ……」


 それがやっと言えて、それじゃまるでもう二度と巴が戻って来ないみたいな言葉になっていることに気付いて、ぼくは慌てて訂正した。


「巴は、お母さん想いの良い子です!」


 自分でも驚くほど自然に、ひっかかりなく発音出来て驚いた。


 それからなぜかおばさんは、ぼく相手に一時間も良くしゃべった。


 離婚した経緯や、自分の仕事の大変さ、給料が安くてファストファッションの店でさえ満足のいく買い物をさせてやれず、穴の開いた靴下や下着を着ている娘が不憫でならないと。自分さえ我慢していれば、子供に不自由のない生活をさせてやれたかもしれないのに、あの時はどうしても別れた夫とこれ以上一緒には暮らせないと思い詰めてしまったのだと。


 大人でも自分の選択に自信がないのだ、とぼくは感じた。

 でも、ぼくから見ればまだおばさんは自分の足で立っているじゃないか、と思う。うちの母親は早々に心の病を患って、今ではもうまともにできる会話さえ少ない。


 小六の夏から四年間も文通していたのに、ぼくにさえも彼女は見栄を張っていた。自分が置かれている状況が恥ずかしかったのだろうか?


 親の事情でそうなっていることを恥じるなんて必要は一切ないのに。


 こんなに遠く離れていたら、彼女を探しに行くこともできない。


 ぼくは受話器を握りしめて、ただ祈るしか出来ない今を非常にもどかしく感じた。


 早く大人になって、出来るなら巴とそばに行きたい。


 巴の近くで住んで、巴と毎日他愛無い話をして。

 ぼくたちにしかわからない話をして。


 彼女を励ましたい。




 そんな想いが溢れて、ぼくは上を向いた。


 そうしなければまた、簡単に涙が落ちてしまいそうだったから……。



 

 気が済んだようにおばさんは「帰ってきたら電話させるわね」と言って、電話を切ってしまった。


 そうなるとまた、なぜぼくに実状を話せなかったのか深く考えてしまう。



 今まで築き上げてきたはずのぼくらの関係って、一体なんだったんだろう?



 ぼくにだけはどんな弱音も素直に吐ける、と書いたときの気持ちに嘘はなかったと思いたくて、腕でごしごしと乱暴に涙をぬぐった。


 特別な友達だと思っていた。

 彼女にとって、ぼくは特別な友達になれていたと信じていた。


 どうしようもない無力感がやってきて、ぼくは電話台の前で膝を抱えた。惨め、という言葉がふさわしいのかどうか微妙だけど、明らかなのは巴はぼくの前から本当の意味で居なくなってしまったという事実。




 ――――それから一か月間、辛抱強く連絡を待ったものの。巴から電話がくることはなく、こちらからいくら電話をかけてもおばさんさえも捕まらなかった。


 留守番電話もない、着信履歴をチェックしているとも思えない。

 思い切って手紙を出してみたもののなぜか宛先人不明で返送されてくる始末だった。


 返ってきた自分で書いた文字を指先でなぞり、巴の名前を何度もつぶやいた。



 返事のない彼女の名を口にするたびに、

 ハンマーで叩かれているような強い痛みを心に感じて息が詰まりそうになる。


 ぼくが頼りないから?

 ぼくが鈍感だから?

 ぼくがのろまで不器用だから?



 会いに行く甲斐性もないぼくを彼女は切り離したとしか、思えなかった。





 とにかく、


 巴は消えた。


 それが現実だ。





 ぼくの世界から、忽然と消えてしまった彼女の身を思うと

 胸が張り裂けそうだった――――。


 


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