ぼくたちの始まり
松島 巴さんは、一年生からの腐れ縁だ。四クラスあるのになぜか六回も同じクラスになっている。それなのに、ぼくと初めて口を利いたのは六年生になってからで、出席番号が並んでいるというだけでなぜか係仕事も班も一緒。担任の先生によるんだろうけど、こうした環境の変化にぼくはかなりストレスを感じた。
松島さんは人気がある。そのせいで常に誰かから話しかけられてしまう。担当の仕事をしている時に人が集まってくると、ぼくはどうしたって落ち着かない。基本ひとりが一番心地よいぼくにとって、金魚の糞がくっついてくる松島さんとの組み合わせは本当に勘弁してほしいことだと痛感した。
そんなことをうまく先生に伝えて変更を頼むこともできない情けないぼくは、一学期の前半が終わっていくのを祈るような気持ちで待つしかなかった。
学校に休息タイムが激減したせいで、給食も味わえなくなっている。
だからきっと、そのせいだと思うんだ。
朝、学校に来るときに涙が溢れ出すのは―――
男が泣くだなんて格好悪いから泣いてはいけない。
お父さんは居なくなる前に、よくぼくにそんなことを言っていた。
今年の一月から突然家出したお父さんからの連絡はなくなって、お母さんが見る見る衰弱してしまって、家に帰ると家事や買い物がぼくを待っている。腹をすかせた小さな弟が待っている。まだ五歳の弟に何度説明しても、我が家で起きていることは理解できるわけもなくてぼくはただ成り行きを待つしか手段がなかった。
そんな暇つぶしには丁度良いはずの学校暮らしが今じゃオアシスではなく拷問に近い。松島さんは面倒見が良すぎて、いつもひとりぼっちのぼくに声を掛けてくれる。でも、本当に迷惑だと思っていた。
ぼくは今日もひとりになりたいのに、ひとりになれなかった……。
帰り道。
徒歩五十分の距離をひとりで帰るのも気楽な一人旅みたいで大好きな時間だ。図書室で借りた本を一冊手に取ってランドセルを背負い、ぼくは本の目次に目を走らせながら歩き始めた。
道幅だけは広いひび割れたアスファルトの道には、ところどころで逞しい草が生えている。突き破って目を出すとあれよあれよという間に背丈が伸びて、黄色い花を咲かせる頃にはぼくの腰の高さになってしまう。その雑草の名前をぼくは知らない。いつも気になるけれど調べたことは一度もない。
この雑草のような強さがぼくにあればいいのに。ふと、そんなことを思っている自分に出会った。
ただでさえ歩くのが遅いぼくが本を眺めながら歩けば、五十分のはずが一時間を超えてしまう。だから、本当はいけないことだけど帰り道だけは秘密の抜け道を歩くことが多い。
すぅーと冷たい風が頬や首筋を撫でたと思って見上げると、ぼくの真上に広がる雲が見た事もないほど真っ黒くなっていた。ゴロゴロゴロゴロ……という物騒な音が響き渡り、大気の震えがそのまま肌に伝わってくる。
ポツン、と大粒の水が額にぶつかってきた。
すると、あっという間に大粒の雨がそこかしこを濡らしてアスファルトが真っ黒く染まっていった。
慌てて本をランドセルに突っ込んでから、ぼくはぼく史上最高速度で駆けだした。
秘密の道の途中には屋根がついたバス停があるから、そこを目指してとにかく一生懸命に走った。
雨宿りをしていると、タッタッタという軽快な足音が近付いてきて、顔を上げた瞬間、ドドドドドドドドドーーーーンという激しい落雷音に襲われた。
驚き過ぎて硬直していると、女の子の笑い声がする。
視線だけ泳がせてそちらを見れば松島さんがずぶぬれで立っていた。
「満島くんの驚き方、コントみたい」
彼女はよく笑う子だ。
髪の毛が重そうに濡れて、額から雨が筋となって流れ落ちているし、
白いポロシャツの襟から下にかけてすっかり濡れた生地が肌に張り付いていた。
スケルトン。
そんな単語が脳裏に浮かんで、ぼくは目のやり場に困ってまた足元を見つめた。
「雨、激しいね!」
大雨に負けないような大声で、彼女はぼくに話しかけてくる。だけど、ぼくは彼女を見ることができない。彼女は気付いていないのだろうか。自分の着ている服が、服としての意味を失っていることに。
恥ずかしくないのだろうか?
気付いていないのなら、恥ずかしいとか思えないだろうに。
ぼくはチラリと一瞥して、やはりスケルトンになっているシャツの皺だけを見てすぐに目を反らした。
そんなぼくの仕草から、松島さんは自分で気付いてから小さな悲鳴を上げた。慌てて前を隠している。ひらべったい胸を両腕で隠した彼女の顔は真っ赤になっていた。
まだ日が沈む前の時間だというのに真っ暗で大雨に閉じ込められたぼくらは、三十分はふたりでバス停のひさしの下のベンチに座っていたと思われ。ずぶ濡れで次第に体が冷えてきたせいもあって、松島さんは震え出した。
「……寒いの?」
たまらなくなってぼくは珍しく自分から聞いていた。松島さんはコクリと首だけを動かして応えた。膝の上に置いたランドセルを開けて、手ぬぐいを取り出して彼女に差し出した。それはぼくがいつもお守り替わりに持ち歩いている使い古したタオルだ。小さな茶色の熊がプリントされていて、家族で楽しく旅行に出掛けたホテルで貰った温泉用のタオルだ。思い出をそばに置きたくて持って居たけれど、本来タオルは濡れた時に役に立つものでなければいけない。
そう思って。
本当は使いたくないけれど、濡れた服でさむがっている彼女にそっと渡した。
「……いいの?」
今度はぼくが頷いた。
ザァーザァー……
激しなったり少しだけ止んだり、気まぐれなスコールはまだ当分止みそうにない。空は相変わらず真っ黒くて、ぼくはため息をつきながらそれを見上げた。
ゴロゴロと遠く離れていく雷の音が聞こえ、間もなく通り雨が終わるのを予感させた。
「満島くん。私ね、夏休み前には転校するんだ。まだ皆には秘密だよ?」
空を見上げていた彼女が突然、そんなことを言った。
ぼくは驚いて、また小さく飛び上がった。
雷に驚いた時よりもずっと、本当に驚いていた。
「……お父さんとお母さんがね、離婚するんだ」
そうつぶやいた彼女の目から、大粒の涙が零れ落ちていく。
それを見たぼくはおろおろとしてしまったら、彼女はこっちを向いて泣き笑いをした。
「もぉ、満島くんたら……、本当に面白いね」
「!!!」
―――ぼくは何もしていない。
特別なことは、なにも。
突出した才能もなく、根暗で、人と関わるのをずっと避けてきたぼくが。
―――面白いだって???
それは、雷に打たれたぐらい衝撃的な言葉だった。
ぼくのタオルで涙を拭いた彼女は、いつものえくぼが愛嬌の笑顔に戻る。
この時、初めてぼくは。
この笑顔はもしかしたら、ずっと無理して笑っていたんじゃないかって、そう思ったんだ。
「あ!!虹が……!!」
満島さんの澄んだ声に驚いて、指さす方向に顔を上げると。
見た事もないほどくっきりとした虹の橋が空にかかっていて、黒い雲間から光の矢が地上へと降り注いでいた。
そんなすごい風景をぼくは女の子と眺めている。
ドクン、と心臓が跳ねた。
雨がすっかり上がって、雨宿りのひさしから彼女がぴょんと飛び出すと、ぼくに振り向きながら最高の笑顔を見せて言った。
「ありがとう!!聞いてくれて……。満島くんだけだから、秘密を守ってくれそうな人……」
消えるような彼女の声が微かに震えていた。
ぼくはどう返事をしたらいいかわからずにただ、その笑顔をじっと見つめ返した。後になって、ぼくも笑うべきだったと気付いたけれど。
彼女はあっという間に居なくなった。
取り巻く人の数が多い彼女と二人きりで話す機会はもうないまま―――。
漸く転校することを担任からクラスの皆に伝わると、益々彼女の周りには人だかりが出来てしまった。
帰り道。
頭でっかちのヒマワリが並んで咲いている通学路を歩いていると、道路を走る車が一台、ぼくのすぐそばで止まった。開いた窓から顔を出したのは松島さんだった。
「満島くん」
「松島さん」
車から降りて駆け寄ってきた彼女は顔にかかる髪を耳にかけて、いつもは三つ編みでしっかり結ばれていた髪をなびかせた。白いワンピースを着た彼女はぐっと大人っぽく見えて、ぼくはドギマギしてしまう。
「……最後まで秘密守ってくれて、ありがとう!私、満島くんのこと忘れないよ。それと、このタオルなんだけど……」
彼女は手提げかばんから雨の日にぼくが渡したタオルを覗かせた。
「……もらっても良い?」
ぼくはどんな顔をしたのか、自分でもわからなくて。だけどぼくを見つめる彼女は花が咲いたような笑顔を見せたから、ぼくは黙ってただ頷いたのだと思う。
最後に彼女は手紙を渡してきた。
薄いピンク色の封筒に四葉のシールで封を閉じた可愛らしい便せんが、自分にはまったく似合わないことを感じながら、戸惑いつつもそれを受け取って顔を上げると背の高い彼女が顔を近付けてきて素早くぼくの頬にキスをした。
「……手紙、読んで。嫌じゃなかったら、手紙頂戴ね」
彼女はそう言うと、えくぼのある笑顔を浮かべた。
今日はとても寂しそうだ、と思った。
「待って!!」
立ち去ろうとした彼女に、思わずそう叫んでいた。
車に向かって歩き出した彼女が振り向くと、ふわりと良い匂いがした。
「……ぼくの方こそ、ありがとう。
松島さんがいなかったら、ぼくは人と話せないまま小学校卒業しちゃうところだった」
ぼくの言葉に驚いた顔をした彼女はすぐに笑顔になると、
「迷惑じゃないかって、ずっと心配してたんだよ。
そう言って貰えて、すごくホッとした。ありがとう、満島くん」
そう言うと、彼女は今度こそ車に乗り込んだ。窓からこちらを見たその目には、びっしりと大粒の雫が浮かんでいるのを見て、ぼくは込み上げる涙を隠すこともなく彼女に向けて手を振った。
胸の奥から何かが込み上げてくる。
心臓を乱暴に握りつぶされるような、そんな強烈な痛みを覚えた。
走り去る車。振り返ってぼくを見つめ続ける彼女の顔が見えなくなるまで、ぼくは手を振った。
―――それが、ぼくたちの始まりだった。