5.
葉煙草の煙が、宵闇の空へと立ち上り消えていく。
先程から手に持たれたそれは、吸われる様子がない。
店の入口近くの壁に身を預けるようにして、麒澄は腕を組み、瞳を閉じていた。
中では例のふたりの言い争う声が微かにだが聞こえてくる。
込み入った話になってきた頃合いを見計らって、麒澄は外に出ていた。あまりむやみに聞いていい話ではないだろう。そう思っていたのだが。
(……医生、薬を作ってほしいんだ)
元気な少年の声が、ふと脳裏によぎる。それがいつのことだったのか。近い過去であったはずなのだが、麒澄は思い出すことができなかった。
昔から知る、縛魔師の子供だった。
春の宵の華のような藤色の髪を高く結い上げ、正装である白の布着に、紅紐で胸と長い袖部分に縫い取りの装飾を施してある陰陽服を着込んだ姿で少年は、薬の依頼のためにわざわざ紅麗に訪れていた。明らかに仕事中に抜け出してきたことが、正装であることからよく分かる。
少年は麒澄に、術力を回復させる滋養の薬を作ってくれと言ってきた。
(飲ませたい人がいるんだ。お願い、医生!)
麒澄は言った。薬代になるようなものをよこせと。そうしたら作ってやると。
少年は笑み浮かべてこう言ったのだ。
(これから僕のことについて、起こりうる全ての出来事と引き替えに)
(……里奈が下りてきている)
(足りないって言うんだ、術力が)
(母さんのこと、聞かせてくれるって……)
(内緒だよ、僕が里奈に会ってるって……あの人には……)
(絶対……許してくれな……)
まるで壊れた人形の口のように、かたかたと音を立てて、少年の声が次々と頭の中によぎる。
報酬には充分すぎるほど、むしろ秘密という名の咎に近いほど、それは麒澄にとって興味深い話であり、報酬では済まなくなるくらい、恢々たる話だったのだ。
麒澄は大きく息を吐いた。
香彩と紫雨が麗国北部を本拠地とする『河南』と呼ばれる術社会の最高峰の血族であることは、知っていた。
河南の強大かつ甚大な術力は、本来ならば血族の女児のみに宿るものであり、成長と共に元ある術力を底上げする。だが男児は雀の涙ほどの術力しか受け継がないどころか、母親の術力そのものを吸収し消滅させてしまう為、男児を産んだ女と通じた男は、罪として『河南』そのものに殺されるという。
今ふたりが在るのは、逃亡中、妻であり母であった女が自らを犠牲にして、麗国の城主に助けを求めたため。
そして。
(逃亡先の居場所を『河南』に密告したのが、香彩の母親の妹)
名を、里奈といった……。
葉煙草はいつの間にか短くなっていた。
充分に吸える長さなのだが、麒澄はどうもそれが気に食わない。常に気持ち少し長めの物を吸うのが好きだった。それが余裕の現れの様と、勘違いをしていたのかもしれない。 煙草を取りに中に入るくらい、かまわないだろう。中のふたりは自分が外に出たことすら気づいていないのだから。
軽く最後に一服を、と思い葉煙草を咥えようとした。
だが。 その気配に。
火の付いたままの葉煙草が、地に落ちて転がる。
「……火の不始末は火事の元だな、麒澄」
心の中の動揺を見透かされたかのような言い様に、麒澄は咄嗟に言葉を返すことができない。
ただおおげさに、現れた客人に対して歓迎の礼をとるのみ。
「これはこれは、ようこそいらっしゃいました。大宰殿」
<終>