旧魔法の研究者(四)
焼きたてのフレンチトーストをすっかり平らげてしまうと、ミハイルは至福で緩みきった唇をナプキンで軽く押さえた。
「うん、今日も素晴らしい朝食だった。トーストは砂糖を変えたのかな? 優しいがしっかりした甘みで美味しかった。ごちそうさま」
ミハイルの声は弾んでいた。
「満足して頂けたなら何よりです」
特に気にするでもない顔で、イコンは答えた。だが心中では、ミハイルが一々反応を示すことに喜んでいた。
ミハイルは自分ではほとんど料理をしない。だが、何故か舌は大変肥えているようで、些細な味の変化にもこうして気づいてくれるのだ。作りがいのある相手であるからこそ、イコンの料理は半年でしっかり上達したのである。
「さて、今日は何をするね? イコン君」
空いた皿を下げようとするイコンを見上げ、ミハイルは心底嬉しそうに尋ねた。近くからじろじろ見られるのを好まないイコンは、あえてミハイルを直視しないようにした。
「はい、お借りしている本の続きを読もうかと思っていますが……」
答えながらちらと見ると、ミハイルはひどい呆れ顔をこちらに向けていた。そんなに幻滅されるような事を言っただろうかと、内心イコンは首を傾げた。
「あーもう、察してくれたまえよ。今日は気分が良いから、君の旧魔法の練習に付き合おうと言っているのだよ」
口をへの字に曲げ、軽く苛立たしげにミハイルは言った。漸く合点がいった。今のミハイルは「構ってくれモード」なのだ。この状態の先生は、寛容な上に割と口が軽くなる。難しい魔法を教えてもらうのには絶好の機会だ。
「なんだい、そんなに私が魔法を教えたがるのがおかしいかい?」
余程妙な顔で固まっていたというのだろうか、ミハイルはイコンの顔をまじまじと見つめ続けた。
「ああいえ、てっきり先生は論文作成にとりかかるのかと思ってましたので、面食らっただけです」
「それは夜でも出来る事だ。せっかく太陽の加護がある時間帯なのだから、少々危険な事をしても大丈夫だよ」
ミハイルは軽く胸を張った。「加護」という言葉には嫌悪を感じたイコンだが、今は旧魔法を教えてもらえる事に対する素直な喜びが勝った。
「ありがとうございます、それでは、お言葉に甘えて。えっと、何を練習しよう……」
試したい旧魔法はいくつかある。そのうち、ミハイルに見てもらっても大丈夫そうなのは……と、イコンが思案した時だった。
「そうそう、朝食の時から気づいていたのだけど、その燭台の炎はサラマンダーだね?」
振り返る事なく、背後を指差してミハイルは言った。イコンの背筋が凍りついた。即座に顔色を伺う。多少曇り顔ではあるが、ミハイルは本当にただ尋ねているだけのようだった。セーフだ。
「すみません。何度も練習してるので大丈夫だと思いまして」
無断で旧魔法を使った事に対し、まずは謝罪するのが妥当だろう。無表情なのはおかしいから、両目尻を少し下げて伏し目がちにする。これで「申し訳なさそうに首を垂れる助手」の姿が出来上がった。
「……ふむ、サラマンダー位なら、もういいか」
イコンの思惑通り、ミハイルはイコンの姿に反省の色を見たようだった。もし機嫌が良くない時だったら、小一時間は小言を聞かされていたに違いない。
「防護の陣も書いてあるし、その燭台相手に使う程度なら問題ない。万に一つ燃え広がっても、自動発動型の消火用魔法陣が発動するから大丈夫だろう。だが、それ以外での使用は駄目だからね。わかっているとは思うが」
難しい表情ではあるが、ミハイルは怒ってはいなかった。単に必要な説教を済ませた教師としての顔。
ミハイルは機嫌が悪い時こそあれ、怒る事は滅多にない人間だった。この人が怒ったら一体どんな顔をするのだろう。正直、興味はある。だが予感もあった。
ミハイルは本気で怒らせてはならない類の人間だという予感。ミハイルの言動には、どこか自らを律している節があった。それは具体的に指摘できるレベルではないのだが、イコンは共に生活している中で微かに、だが確実に感じとっていた。
もしその枷が外れたら、この人はどれだけの感情をぶちまけるのだろう。そしてそれは、自分にどれだけの影響を及ぼすのだろう。今の平和な日常の中で、それを想像するのは無理があった。そして想像がつかない以上、イコンにとってそれは「現実に起きない方が良い事」にカテゴライズされていた。
「はい、わかっています」
イコンは神妙な顔で――それは作り物ではなく、心からの表情だった――静かに頷いた。