旧魔法の研究者(三)
ミハイルの言葉に、今度こそイコンは顔色を変えざるを得なかった。都市部では科学の発達がめざましいと聞くが、それでも宇宙に関する研究は充分とは言えなかった。
宇宙を調査するための無人飛行ロケットが漸く開発されたばかりで、各種資源や生命体の存在を示すデータを取る作業は始まってすらいない。そういう類の話題が新聞に載れば必ず目を引くくらいに珍しい時代、いくら情報が電子的に受け渡しできると言っても、こんなに人里離れた場所で宇宙の情報を得られる筈もない。
だがこの目の前の男は、寝間着姿でテーブルにつくなり、そんな大前提をひっくり返したのだ。寝ぼけているのか、それとも気が触れたのか。そうイコンが考えてしまうのも無理もなかった。
「う、宇宙……ですか」
困惑のこもったイコンの声に、今度はミハイルがきょとんとした。だがその困惑の原因を勘違いしたのだろう、ミハイルは勿体ぶった顔でふんと鼻を鳴らした。
「おや? 勤勉家であられるイコン君でもわからないのだね? 宜しい、説明しよう。宇宙とは……」
「僕らの住む惑星を取り囲んでいるとされる、空気の一切ない真っ暗な空間の事です。その程度の知識くらい、僕にもあります」
極めて遺憾であるという気持ちを隠すそぶりもなく、イコンは声を荒げた。無関心を装って話を聞こうとしていた事など、すっかり頭から転げ落ちてしまっていた。
半年前、つまりミハイルの家に居候する前のイコンは、毎日を食料探しで費やし、およそ文化とは縁遠い生活を送っていた。その為か、イコンは「ものを知らない」と思われる事に極度のコンプレックスを抱いていた。そしてそれが行動理由だったのだろう、イコンのここ半年の成長は凄まじかった。
ミハイルに貰ったタブレット型コンピュータの使い方を数日でマスターし、家事一般を始めとした生活スキル、および一般教養レベルの雑学、新聞で取り上げられる話題を中心に猛勉強。学校に行っている子供らと大差ないレベルの知識を吸収してしまったのだった。何度も言うが、ここ半年の話である。
元々読み書きと多少の計算はできていたとはいえ、この人間離れした業績は紛れもなくイコン自身の努力の賜物であり、当然ミハイルも承知していた。
「ふむ、予想よりもまともな答えだ。及第点」
ミハイルは一転、大真面目な顔で頷いた。イコンをからかった事への謝罪はしないかわりに、こういう時のミハイルの切り替えは素早い。結局ミハイルは研究者であり、その性根は何よりも優先されるのだ。おかげでイコンの感情は、怒りから困惑に上書きされてしまうのだった。
しかしそんな事はおかまいなしに、ミハイルは既にぬるい紅茶に再度口をつけ、空いている左手で天井を指差した。
「正確に言えば、地上百キロメートル以上の上空にある空間を便宜的に宇宙と言っているにすぎないのだがね。物理学的には時空れ……」
「宇宙そのものの話は、とりあえず置いておきましょう」
イコンはミハイルの手から落ちそうになったティーカップを取り上げ、話を遮った。ミハイルに一日中喋らせていたら家の仕事が全く片付かない。だが聞き手がいなければ、ミハイルはふてくされてしまうだろう。その二つを解決する為には、ミハイルに話を要約してもらうよう誘導する必要があった。
「その宇宙空間に旧神達は存在してて、先生が使う魔法の源になっていると、そう言いたい訳ですね?」
「そうだよ、さっきからそう言っているだろう」
今更ながら、この当然と言いたげなミハイルの顔と話し方には、人をいらっとさせる雰囲気があった。本人は全く無自覚なのがまた始末に負えない。一度だけ説明を試みた事もあったが、「理解に苦しむ」と一蹴されてから後、イコンはもうすっかりミハイルの態度に諦めきってしまっていた。
「で、それが、異世界間の移動とどう関係してるんです?」
イコンは新しい紅茶を差し出した。二杯目の紅茶にはレモンの輪切りが浮かべられていて、すっとした香りがミハイルを包んだ。普段紅茶にレモンを入れる事はないが、ミハイルは更に上機嫌に口をつけ、満足げに頷いた。
「そうだな、少しややこしい話になる。本来なら黒板に一つ一つ書きながら説明せねばならないんだが……そうだね、今は極めて簡潔に言おう。魔力の長距離移動が可能なら人体も移動出来るんじゃないかって、ただそれだけの事だよ。簡単だろう?」
事もなげにミハイルは言うが、どう考えても理解困難である。簡潔すぎて話が飛躍しているようにしか思えないのは、イコンが未熟なせいではない。だが、それを自信たっぷりに言ってのけるミハイルの態度に、少なからず説得力があったのも事実だった。
おそらくだが、ミハイルは日頃から頭の片隅で難しい魔法の原理などを考察する習慣があるのだろう。「異端」の二つ名は、この天才的な頭脳があるがゆえなのだろうかと、イコンはふと思った。
それはそれとして。
「突飛すぎて全く理解出来ませんよ、その発想」
正直な感想はしっかり言わなくてはならない。イコンの言葉に、ミハイルは大げさにため息をついてみせた。
「はぁ、やはり天才にしか理解出来ない思考回路だったか。正式な論文にするには、凡人が解釈可能になるまで説明を加えねばな……」
「じゃ、朝食はいらないですね」
イコンは畳んだエプロンを広げ直しながら言った。ミハイルは一瞬ぽかんと口を開けたが、直ぐに朝食の危機への抗議モードとなった。
「何を言うか! 食べるに決まってるだろう! さあ早く、君のお得意な激甘フレンチトーストを出したまえ。朝の栄養補給だ!」
ミハイルは空の取り皿をテーブルの端で軽く叩いてみせた。子供みたいというか、ほぼ子供の行動である。先ほどまで見せていた研究者の側面は幻だったのかと、イコンでなければ思っていただろう。
「先生の嗜好に合わせて味付けしてるだけなのに、僕の味付けが偏っているみたいに言われるのは大変不本意なんですが……」
ため息をつきながらも、イコンは昨晩つけおきしておいたパンを冷蔵庫から取り出した。