旧魔法の研究者(一)
むかし、むかし。
未知の力が希望の存在だと信じられていた頃。
魔法使いが派閥を作り争い始める、ずっとずっと前の事。
一人の優秀な魔法使いがおりました。
その人は天賦の才能を人々の為に使い、自らの持つ知識を惜しみなく人々に与えました。
人々は彼を慕い敬うようになり、いつの頃からか、彼は「幸福を与える者」と呼ばれるようになりました。
ですがそんな彼にも、どうしても幸せにできない者がいたのでした。
*
肌を刺す冷気。
ちらつく粉雪。
痩せた父の背に揺られる、幼い自分。
山への道すがらすれ違う、伏し目がちの村人達。
父は山小屋の前で自分を背から下ろし、虚ろな目で、自分へと――
「うあぁぁぁっ!」
彼はベッドの上で、裏返った叫び声と共にはね起きた。まだ外は薄暗く寒いというのに、青年はシャツを汗ぐっしょりにして息を切らしていた。
(……また、あの時の……)
幼い頃の記憶を今だに夢に見て怯えるとは、自分はなんて成長がないのだろうか。高鳴る鼓動を落ち着かせようと、青年は掛け布団を頭からかぶり直し、深呼吸した。
(これだから冬は嫌いなんだ……余計な事を思い出す)
彼の名はイコン。現在は「異端の魔法使い」ミハイルの元で働く助手である。
(くそっ、こんなに汗びっしょりじゃ、眠れやしない)
起床にはまだ早かったが、イコンは諦めて布団から起き上がる事にした。汗のせいで冷たくなっていく寝間着を脱ぎ捨て、枕元に畳んでおいた下着類を順に身にまとう。そして姿見の横にかけてある濃紺の燕尾服を羽織り、身だしなみをチェック。
(……前髪のはねが気になる)
寝癖を丁寧に直し、更に確認。十分すぎるほど身なりをきっちり整えたものの、陽の光はまだ差し込んでは来なかった。懐中時計の針は五時を指していた。勉強をしようかとも考えたものの、先程の夢が頭をかすめ、書物を読む気分にはなれなかった。
(もういいや、朝食を作ろう)
静まり返った屋敷に音を響かせぬよう、注意深くドアを押し開ける。そして薄暗い廊下へと足を踏み出そう……としたが、思い直した。踵を返して窓際に置かれた燭台の前に立ち、微かに震える右手を燭台の上で開いた。
「練習は昼間にやれって言われてるけど、防御陣もあるし、問題ない、筈」
燭台の下に敷かれた金属板を左手で軽くなぞり、一つ頷く。それに刻まれているのは、魔法の暴走を止める魔法陣。そしてその上に置かれた燭台は、旧魔法の実践練習用にとミハイルが置いたものだ。
上着の左ポケットから取り出したメモを見ながら、神経を集中させた右手の指を慎重に動かしていく。仄かに光る指先の軌跡は、少しずつ球体状の魔法陣――立体陣を形成していった。立体陣が完成すると、彼はその真上で右手をかざし、不安混じりの低い声で囁いた。
「……我焚べるは、我が願い。その力を示せ、火を守りし精霊」
すると立体陣の中央がみるみる曇り始め、その小さな雲の中からぬるりと、赤い光を放つトカゲのような尻尾が一本現れた。その尻尾が蝋燭の頭を軽く撫でると、小さな炎がぽうっと灯る。そして尻尾は雲の中へと引っ込み、立体陣と雲は光る粉を落としながら消えていった。無事成功。イコンは胸を撫で下ろした。
「良かった。先生を起こさなくて済んだ」
燭台を持ち上げてオレンジの炎を窓にかざすと、顔を出したばかりの日の光が燭台を照らした。
*
午前八時。
イコンが朝食を食卓に並べ終えたところで聞こえ始めた、二階から駆け下りてくる凄まじい足音。イコンはふうとため息を吐くと、エプロンを席にかけて食堂のドア脇に歩み寄り、待機。足音の主がまさに開けんとするタイミングを図り、扉を一気に引き開けた。
「う、うわわぁっ!」
突然のドア全開に、声の主は足を滑らせ前につんのめっていった。だが踏み出した右足が一歩間に合い止まると、彼は右膝を支えに上体を起こし、乱れた寝間着の裾を直しながら振り返った。
「酷いじゃないか、イコン君! 危うく転ぶところだった!」
「いえ、ドアにぶつかって顔を打ってはいけないと思いましたので。それに裸足で駆け下りてくるあたり、召喚魔法に失敗して意識を乗っ取られてしまった可能性も考慮しました」
派手に転ばなかった事に内心舌打ちしながらも、イコンはすまし顔でそう言った。当然、そんな不測の事態を想定している訳がない。実際は、無遠慮にうるさい音を立てて降りてきた若白髪の男――ミハイルへのプチ制裁であった。
「それより先生、まだ寝間着姿だったんですか。着替えないと冷えますよ?」
ふてくされ顔のミハイルに、イコンは自分の上着を羽織らせた。ミハイルはそれで肩を包み、目を細めた。
「あー、確かに温かいね。服もそうだが、この食堂もだ。朝早くからストーブをつけておいてくれたんだろう?」
「ええ、たまたま早く目が覚めてしまったので」
イコンは軽く流した。特に面白くもない夢の話はする必要がない。だがそれが何か気に入らなかったのか、ミハイルはむすうっと口を尖らせ、イコンをジト目で見つめた。それでもイコンは黙ったまま、紅茶ポットに湯を注ぎ始めてしまった。
「……そうかい」
ため息を一度吐き、ミハイルは大人しく席に着いた。どうも寝間着姿のまま食事しようという事らしい。本当は洗濯が遅くなるので避けて欲しいのだが、何やら機嫌が良くなさそうなのでそうも言いづらい。イコンは紅茶をミハイルの前に差し出し、何気なくを装いつつ聞いた。
「で、今日は何があったんです?」
この質問で、ミハイルはぱぁっと表情を明るくした。実にちょろい先生だ。この扱いやすさのおかげで、ミハイルの元で住み込みできていると言っても過言ではない。
「あ、よくぞ聞いてくれたよイコン君! 僕らは異世界を移動する事が可能かもしれないんだ!」
入れたての紅茶の香りを堪能しながら、ミハイルはそう言った。
本当はもう少し全体を書き終えて推敲を重ねる予定でしたが、草稿の進みがあまり良くないので、推敲を終え次第、現場に出す事としました。つまり不定期更新です。気長にお待ち頂けましたら幸いですm(__)m