旧神召喚
隔壁の向こう側で、大百足は今にも「壁」を壊さん勢いで暴れ回っていた。そんな中。
「……あまりに今更な事を仰るじゃないですか、先生」
「左手」は静かに、だがはっきりとそう言った。その声には少しの温もりも込められてはいなかった。
「僕は……いや、僕達は、とうの昔に道を外れた身。ですよね、ミハイル先生?」
「イコン君……私は……」
「勘違いしないで下さい、先生を責めているんじゃありません。僕は先生に、感謝しています」
「左手」は優しくそう言ったが、少年は青ざめた顔で俯き、そのまま黙りこんでしまった。何か訳ありなのだろうと察した新二は何も言い出せなかった。
「辛気臭い話はさておき、お願いがあります。シンジ先生」
「……何だ?」
「指先を数センチ下さい」
「左手」は少しの躊躇いもなくそう言った。あまりにあっさりとした、それでいて酷く剣呑な気配漂うその要求を、すんなり受け入れられる筈もなかった。新二は思わず「左手」を凝視していた。
「は!?」
「指を下さいと言いました。指が短くなる代わりに世界の消滅を防げるなら、安いもんでしょう?」
「い、いや、ちょ、それは待っ……!?」
「汝の指に生あらず、その血は生者に帰し、その体は地に帰す、故に……」
新二が止めるのも聞かず、「左手」は長い詠唱を始めてしまい、そして。
「……を以って、その身を召喚の礎と成せ、局所石化!!」
「左手」の最後の言葉とともに、人差し指と中指の先からさっと血の気が失せ、軽石のように乾いて脆くなっていった。その信じがたい一連の変化を、そして指先から昇る薄青い煙を、新二は呆然と見つめていた。
「流石はいかがわしい魔術の粋を集めた専門書の力、かなり無茶なアルケミーでしたが、全く問題なしですねっ!」
うきうきした声でそう言うと、「左手」は指先をコンクリートの床に突き立てた。そしてすっかり石化したそれを、マッチを擦るが如く一気に擦り付けた。
――グォリッゴリゴリゴリッッ!!
金おろしで指先をおろし続けているような寒気立つ感触、奥歯が浮き上がりそうな持続的振動、そして接地面から滲み出る血の気配――それら全てが、指先から背筋を駆け上った。新二は力の限り歯を食いしばり、眼を瞑って耐えるしかなかった。
「この魔法陣、君には教えていない筈だろう!?」
喫驚した少年の声に、新二はそっと薄眼を開けて足元を見た。そこにあったのは、赤黒い血と灰白色の粉によって書かれた円と五芒星。そして「左手」は目下、敷石を詰めるように隙間なく、象形文字らしきものを殴り書いている最中だった。
そして、指先は……?
いや、今見るべきではない。新二は焦点が指先に合う前に、ぎゅっと眼を瞑り直した。物理的に「骨身にしみる」気配だけで、もう十分精神をえぐられていた。
「僕の勉強量を舐めてもらっちゃ困ります! 先生の執筆した魔術書なら、スペルミスを全て指摘出来るくらいには、読み込んだんですからっ!」
リズミカルに象形文字を書く手を止めず、「左手」は力を込めてそう言った。その時だった。
――パリィィィン!!
ガラス板を割ったような鋭い音が新二と少年の耳を劈き、二人は音の方へと目を向けた。それは大百足が隔壁を破った音だった。大百足は無数の足を滑らかに動かし、隔離の内側をするする這い上がると、新二の頭上に覆い被さるように襲いかかった。
「させんよ!!」
少年はすかさず左手を手繰り寄せ、縛り上げる形に空を切り直した。
「旧印、強位束縛!!」
早口で唱えられたその言葉と同時に、大百足は身体を折り畳まれながら新二の傍らへと落下した。ずしんと鈍い音が床を揺らし、そして大百足はもがき苦しむように足をギチギチ鳴らした。
「世話が焼けるね君は。召喚魔法の予習ならば、スペルミスだけでなく、インク染みの位置まで頭に叩き込んでおくべきじゃないのかな?」
血の気が失せたままの顔で、少年は小さく笑みを浮かべてみせた。だが冗談めかした口調に反し、その額には脂汗が浮かんでいた。余裕のなさを悟られまいとするその姿が、何故か新二には眩しく見えた。
「ま、それは後で論ずるとして、だ。いいかい? 隔離は隔壁に比べて強固だが、魔力の消費が大きい上に印も複雑だ。一度解けてしまえば、再び隔離が発動するより先に大百足が襲って来るだろう。強位束縛もそうもたない。だからさっさと書き終えて召喚してみたまえ。小生意気な我が一番弟子!」
「一言余計ですよ、先生!!」
――カンッ!
最後の一文字を書き終え、「左手」はようやく床から指を離した。そして血の滴るのも構わず、その手を魔法陣の真上で広げた。
「我、死者の掟に従い召喚す。顕現せよ! ロード・オブ・ザ・グレート・アビス!」
「左手」の詠唱と共に魔法陣が鈍く光り、その中央から赤黒い液体が泡を立てて湧き出た。そしてその中から音もなく現れたのは、大きなかぎ爪を広げる、銀色の大きな――大百足などその拳で簡単に潰してしまいそうなくらいの――人間の腕の形をした、何かだった。