活路
イコンを本にしてから数ヶ月が経った。家を貫いていた大穴を完全に修復し、雨除けの旧魔法を解除してようやく、私の気持ちに余裕が生まれた。それと共に、新たな疑問が湧きあがる。
――彼の元の身体は、本当に消滅したのか?
それを解明するべく、私は新たな日課を作った。朝の洗濯を終えて書斎に戻った私は、早速日課に取りかかる。積み置いた本を横目に、自分の思考を適当な紙に走り書いては丸めて、を繰り返す。
かつてない難問だ。あの場に残った赤黒い泥を全てインクとして使った今、イコンの身体に関する手がかりは全て失われたのだから。
ただ、消滅したと断言するのには疑問がある。あの忌まわしい泥は、イコンと私の身体を溶かして高濃度の魔力を生み出した。だが子供の姿として残った私の身体を考慮しても、消費された魔力の計算が合わないのだ。
娘が犠牲になった時、私の身体に現れた変化は僅かな若返りと白髪化のみだった。私から搾取された魔力が少ない分、娘の身体が使われたのだから、計算は合っている。
だが今回の変化は違う。あの泥は、三百年かけて蓄積した私の魔力を充分に吸い上げていた。その後にイコンの身体が消滅するのは、明らかな過剰消費だ。
インクにした泥の重量もおかしい。あれはどんなに重く見積もっても、赤子一人分の重さにすら届かなかった。いかなる魔術を使ったって、それなりに成長した子供の身体一人分を、そんな軽さにできる筈がないのだ。
おかしいのはそれだけじゃない。今のイコンが発する声、息遣い。ヒトの身体だった時と全く変わらず聞こえるのは妙だ。魔術の類で再現しているならば納得できるのだが、その痕跡もない。ならば、人間が呼吸し発声する為のパーツを、今でも使用していると考えるべきだ。
ひょっとすると、私は大きな思い違いをしているんじゃないか?
例えば、例えばの話。
イコンの身体は、泥に変性したのではなく。
この家のどこかにいて、単に視認不可能になってしまっただけである、とか。
いや、本を家から持ち出した時、彼に特段の変化はなかった。もちろん声だっていつも通りだったし、遠ざかって聞こえるなんてこともなかった。だからこの仮説は間違っている。
ならば、どうなっているのだ? 旧魔法の知識だけは誰にも負けない自信があるのに、答えが導き出せない。発想の転換が必要だ。そう、魔力の源が宇宙から降り注ぐという仮説に匹敵する大転換。宇宙という異空間の神秘を紐解くための……。
異空間。
それだ!!
イコンの身体は、全く別の空間に転移した。
そうだ。それなら説明がつく。イコンの身体だけが異空間に飛ばされて、魂は泥の中に残された。イコンに残されたわずかな魔力が魂と身体を繋ぎ、さらに私が魂を本に繋ぎ止めた。魂と身体が繋がっていて、魂がこちら側にあるのなら、魔術を発動させずとも発声は可能の筈。
もし、もしそれが正しいのなら。
身体の場所さえ突き止めれば、イコンの身体を取り戻すことが出来るのではないか?
いや、そんなに単純な結論にはならないんじゃ……。
「やけに考え込んでますね」
不安げなイコンの声に、はっと顔を上げる。外はいつの間にか夕暮れになっていて、網戸の外側には小さな蛾が一匹、おとなしく羽を広げていた。一方、調べ物で散らかした机の上は、もはやどの書類を置いているかさえわからぬ有り様だった。
「いけない、窓を閉めよう」
慌ててガラス窓に手をかける。その時、ひゅうっと風が吹き抜けた。蛾がふわり、と飛び立っていく。眼前をたゆたう前髪が鬱陶しい。机上の紙も何枚か飛んでしまったが、元々散らかっていたのでさほど問題ではなかった。
「はい。もう暖かい時期とはいえ、夜は冷えるでしょうから」
彼の言葉に、ふと首を傾げた。
冷えるでしょうから?
言葉の違和感を吟味し、そして目を瞬かせた。
多分、もっと早く気づくべきだったのだ。本がイコンの身体として機能しているならば、当然あるべきもののことに。
「イコン君。無礼を承知の上で、一つ疑問があるのだが、良いだろうか?」
「はい。何でもどうぞ」
「君は今、寒暖を感じているかい?」
「……うーん、感じているような、いないような……」
「大事なことだ、はっきりしたまえっ」
思わず語気が強まる。閉めかけの窓から再び、冷たい風が吹き込んだ。
「今、今の風だ。寒く感じたかい?」
「……寒くは、感じなかったんじゃないかと思います」
自信なさそうなイコンの答えを、ポケットから引っ張り出した手帳の一ページに殴り書く。
それはおかしいのだ。イコンの魂は本の中。であるならば、イコンは本を通じてあらゆる感覚を共有しなければならない。痛覚然り、温度感覚然り。なのに今、イコンは確かに言った。寒く感じていないと。
頭の中で、何十通りもの理論が展開されていく。書く右手が追いつかず、左手も筆記に使う。両の手で書く文字列は再読のためではなく、思考整理のためだ。
「わかった。他にも聞きたいことがあるんだが、えーと、何から聞こうか……」
興奮で指が震える。久々に何かがつかめそうな気配だった。停滞していた「実験」の糸口。どん詰まりの先に見えた僅かな光明。この発見が、イコンの身体を元に戻す鍵になるかもしれない。そんな根拠のない希望が、今の私の原動力であり、生きる意味だった。
「その前に、きちんと窓を閉めてくださいね」
――もはや何を言っても無駄か。
彼の声が、そう言っている気がした。
一月中にこちらも更新することができました。今回も読んでいただきありがとうございます。
最近pvがコンスタントについていて、大変励みになっています。私生活の変化等ありますが、今年も月一回の更新を維持し、できれば完結させたいとおもっています。もう少しだけ、この師弟の行く末にお付き合い頂ければ幸いです。
では、何かと苦しい時期ではありますが、皆さんもどうか無理せずお過ごしください。




