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代償(三)

「起きた出来事に対する思考プロセスが、客観化されすぎているように思います」


 軽いめまいをこらえて、彼の返答を反芻し、理解し、現状を把握する。


「自分の感情が他人のものみたいに感じられる、ということかい? じゃあ、今の君には……」

「おそらく、『怒り』に分類される感情がない」


 目の前の本から発せられる声は、どこか遠く。

 事態は深刻だというのに、どうにも実感が湧かない。

 自我の存在に疑いを持ったイコンには、あまりに重い現実。

 取り乱しもせず答える彼の心中は、いかばかりか。


「『怒り』の感情がないというのは、確かかい?」

「はい。持っていないもののことはうまく言えませんが、過去の自分が感じたことの一部が、理解しづらくなっているんです」


 私は何も答えられず、うなだれた。

 彼の言葉が淡々と続く。


「客観的に見れば『怒り』の一種だと理解できます。過去の記憶に基づいて、『怒り』の感情を表現することもできます。けれど、どうも自分の感情として受け入れられない」


 代償は、あまりに重かった。イコンの言葉の意味は、つまり、イコンのアイデンティティに関わるパーツが失われているということだ。もし実験を中止していなかったら、彼は今頃、彼ではいられなくなっていただろう。

 なぜ? なんで? 

 犠牲を重ねてようやく、数百年の研究の成果が良い結果をもたらすと思ったのに。

 無表情でベットに横たわるセラの姿が、頭をよぎる。ずきりとした痛みが目の奥を走る。今度こそ、どん詰まりだ。

 聞かなければよかったと考えている自分に、心底腹が立つ。

 私の顔は今、平静を保てているだろうか?


「ふむ……そうか。そうなのか」


 (イコン)を撫でながら、そう言うことしかできない。

 私には、やはり無理だったのだ。天才の友が成し得たであろう偉業を引き継ぐことも、旧魔法を人助けのために使うことも。

 もっと早く、諦めていたら良かったというのか?

 いや、それも無理だ。「彼」が死んで、セラも助けられなかった。あの時の自分に選べたのは、今の現実(みらい)だけなのだから。

 いっそのこと、もっと残酷になれたら良かったのに。

 セラのこともイコン君のことも、旧魔法の成果に繋ぐための犠牲だと割り切れれば、どんなに楽だったか。

 

 ――本気で言ってるのか?


 内なる良心の声でさえ、冷え切った心には届かない。

 そのはずだった。


 ――君は馬鹿だなぁ。


 はっと、顔を上げた。

 聞き間違えようのない声。

 現実ではもう聞けない声。


 ――君は、君のままでいいんだよ。

  

 目の前に一瞬だけ、「彼」の姿があった。

 いつも通りの、腹の立つ笑み。

 霧のように消えてしまった彼の姿は、神秘ではあったが不気味ではなかった。

 今見たものが何だったのかを考える前に、自分の愚かな思考をかなぐり捨てた。

 いつの間にか流れ落ちていた涙を、力一杯拭いとる。

 ああ、そうだな。

 今やるべきは、今しか選べなかった自分を呪うことじゃなく、今出来る最善を尽くすことだ。


「それは確かに、君がイコン君である証」


 できる限り、凛とした声をつくる。


「僕の、証?」


 戸惑う声に、愛おしさすら感じる。

 セラは優秀すぎた。旧魔法の師匠として、彼女に教えることなどなかった。だから、大事な娘であっても、セラを弟子と呼ぶことはできない。

 だが、イコンは違う。私が一から教えあげた。育児なんて気の利いたことはできなかったが、旧魔法の教育だけはやり遂げた自信がある。

 だから、このとっておきの称号は、イコンにこそふさわしいと思うのだ。

 セラは、きっと理解してくれるだろう。


「そうだよ、我が一番弟子」


 (イコン)を撫でながら、私は言った。

こんばんは。なんとかひと月で投稿できました。

このひと月の間にも、読者の方に読んでいただいている気配を感じとっては、密かに小躍りしている作者です。大っぴらに喜んでしまうと皆様をドン引きさせてしまいますので、喜びを表現するのはこことTwitterくらいに留めておこうと思います。

いつも読んでいただき、ありがとうございます。研究者と育ての親、それぞれの悩みにミハイルがどう向き合うのか。イコンの感情欠落は戻せるのか。

引き続き、次回をお待ち頂けましたら幸いです。

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