代償(一)
イコンの詠唱は相変わらずのセンスだったが、グノーメの召喚自体は問題なく行われた。真っ白に輝く鹿の姿で現れたグノーメに、イコンは庭の雑草を刈り取る指示を出した。その結果、伸び放題だった雑草は半日かけて食み尽くされた。
「無事に召喚できました!」
グノーメが消えたのを確認し、イコンは嬉しそうに言った。
「言った通りだっただろう?」
庭を掃きながら私は微笑む。
測定器の針は十一時に届かんとする勢いで振れた。グノーメの召喚ですらこうなのだ。万が一にも旧神を召喚してしまったら、測定器は確実に壊れてしまうだろう。イコンの持つ書の力は、私の想像を遥かに超えているのかもしれない。
グノーメがいる間、私はいつでも防護陣を書けるよう気を張り詰めていた。イコンには、ばれていなかった筈だ。
「はい!」
イコンの返事はとても元気の良いものだった。余計な知識を与えられた事に嫌悪感を示していたが、きっと、もう大丈夫。私はそう信じて疑わなかった。
***
異変があったのは、その翌日だった。
「イコン君、おはよう。今日はどの旧魔法を試そうか?」
書斎の扉を開け、机の上のイコンに声をかけるが、返事はない。
「どうしたんだい、イコン君?」
本を間違えたかと表紙をよく見直すが、確かにイコンだ。
なのに、返事はない。彼の魔力は、昨日よりも強く感じられるのに。
胸騒ぎを覚え、イコンを開く。五十八ページまでめくったところで、私は我が目を疑った。
グノーメの召喚に関する記述をした箇所が、見たこともない魔法陣の形に書き換わっていたのである。しかもその陣はうっすらと光を帯びていた。既にアクティブになっていたのだ。私が一言でも余計な詠唱をしようものなら、何か強大なものが顕現し、暴走する。私はそう直感した。
私はイコンを閉じて左手に持ち替え、右手で机に強力な防護陣を書きつけた。本がはみ出ないように大きく、声を上げないよう慎重に。蝋石の乾いた音だけが部屋に響く。
黙々と書きながら、昨日の召喚を思い出した。あの召喚が原因としか考えられない。だが召喚自体に不備はなかった筈だ。未知のパラメーターになりえたのは――書の力。
(書の力が、魂の存在を脅かしているって事か)
考えもしなかった。イコンの魂を留めている魔力が、イコンの魂を蝕む原因になるなんて。
いや、考えるべきだったのかもしれない。イコンに未来を指し示す前に。「君は生きたいか」と問う前に。たとえ全てが未知数で、帰還不能点となる実験だったとしても。
とめどない後悔の念が、私を押し潰そうとする。イコンを持つ手が重い。だがそれでも、私達は進み続けるしかないんだ。そういう道を選んでしまったのだから。そうだろう、イコン?
防護陣を書き終え、私はイコンを開いてその中心に据えた。イコンのページの魔法陣が、ゆっくり光を帯びていく。それに呼応するように、防護陣もその光を強めていった。
両者の光は五分ほど拮抗した。その間、イコンの文字は不安定に震え、かろうじて原型を留めているだけのように見えた。最後に強く輝いたのは防護陣の光。それを最後に、漣のように乱れた文字は、元通りに復元された。
「イコン、君?」
恐る恐る、彼の名を呼ぶ。
「……先生?」
寝起きのような返事。
「目が覚めたかい、イコン君」
額の汗をさりげなく拭い、私は微笑んでみせる。
「……すみません、意識が途切れてました。本になっても睡眠が必要になるとは思いませんでした」
特に慌てる様子もなく、イコンは淡々と自らの状況を分析する。今起こっていた事を全く把握していないようだ。
多分、だが。
イコンの魂は死にかけていた。いや、ほぼほぼ死んでいた。イコンの意識が途切れていた間、彼の魂は機能していなかった。不安定になった書の力が、イコンの魂を使ってロクでもないものを召喚しようとしていたのだから。
もし防護陣が機能していなかったら。今頃イコンは、ただの物言わぬ魔導書に成り下がっていただろう。
首筋を伝う冷や汗が心地悪い。すぐに拭い去ってしまいたいが、動揺を悟られたくはない。私は、薄っぺらい微笑みを保つのが精一杯だった。
「そうだね。昨日使った書の力が影響したに違いないよ。今日は無理せず、ゆっくり過ごそうか」
「そうですね」
素直な返事に、僅かながら安堵した。
エルダーサイン最新話です。
不穏な気配になって参りました。書の力とは何なのか。イコンの魂は今のままで大丈夫なのか。
もう少しだけ、彼らの行く末にお付き合い頂けましたら幸いです。
次回は八月末〜九月頭を予定しています。




