チカラ
気がつくと、机に突っ伏していた。
無理もない。合計九日間、飲まず食わずで没頭した。歪な形でイコンを繋ぎ止める禁術をやりとげた。
すっからかんになった魔力は、少し眠った程度では回復し切れていない。頭がぼうっとするのも、きっとそのせいだ。
眠ったまま手にしていた羽ペンは、先がすっかりくたくたになってしまっている。旧魔法で強化していたのだが、そのくたびれ具合は「もう一文字だって書いてやるものか」という意志すら感じる。
書き終えた本は、器用に脇に押しのけてあった。イコンを下敷きにしていなかった事にほっとする。
「おはよう……」
気がついたらそう言っていた。返事など期待していなかった。本の状態で喋れるのか、そもそも転記は成功したのか。それを考察するのもつらいくらい、頭が麻痺していた。
「おはようございます、先生」
……え?
確かに聞こえた。
目が丸くなる。
九日間の成果を目の当たりにして、ようやく思考回路が回り始めた。
「イコン君っ」
「はい、僕です」
間違いない。成功だ。
本の姿になっても、ちゃんと話ができるようだ。
本当に、良かった。
じんわり熱くなる目元を慌てて隠す。
「先生が目を覚まさなかったらどうしようって、僕……」
くぐもって聞こえる声に、首を傾げた。
「もしかして、泣いてる?」
「ないでなんがいまぜんっ!」
間髪入れぬ泣きまじりの返答に、苦笑いするしかない。
どうやって彼が声を発しているかも気になるが、今は彼が戻ってきた喜びに浸りたかった。
「意識がはっきりしているようで、何よりだ」
表紙をそっと撫でてやる。
イコンの声は泣き止まない。
少し迷って、本を抱き上げる。
不格好なりに、赤子をあやすように本をゆする。
しばらくそうしていたら、イコンはやっと静かになった。
「取り乱してすみません。やっと落ち着きました」
濁りない涼やかな声に、心から安堵する。
途端に、研究者としての興味が湧き始めた。
「いくつか質問、いいだろうか?」
「はい、なんでもどうぞ」
「君の記憶はどうなっている?」
イコンは束の間、沈黙する。
短い唸り声ののち。
「記憶に関しては、人間の頃と大差ないと考えます。先生の記憶らしきものも一部所有してますが、僕自身の記憶と混線してるわけではないので、混乱はしないです」
落ち着き払った答え。
良かった。
余計な記憶がイコンに影響するのではと危惧したが、取り越し苦労だったようだ。
「そうか。知識はどうだい?」
「大いに問題がありますね。僕自身が学んだ事以上のものが充満していて、しかも僕自身の知識と完全に混ざっています。分離は不可能かと。率直に言って、とても気持ち悪いです」
恨みがましく言われる。
「そうだろうな。私の知るほぼ全ての事を書き殴ったから。そこらの魔術書にひけをとらない程度の知識を、今の君は持っているんだよ」
「どうしてわざわざ、そんな事を」
語気を強めて問われ、私は再び苦笑いを浮かべた。
そこを知りたがるよな、イコンは。
インクを消費するという目的だけならば、無意味な字の羅列、あるいは緻密な線画でも良かったのだ。それなのに私は、彼に直接上書きする形で膨大な知識を授けた。
人格が破綻するかもしれないというリスクを承知の上で。
彼に預けた力の途方もなさを、理解した上で。
「今の君なら扱えると判断した。新たな体を扱う君であればね」
きっぱり答える。
私のしたことは、分身の創造に近い。
イコンの人格を極力破壊しないように留意はしつつ、私自身の知識を強引に彼の中へ詰め込んだ。普通の人間ならば、とうの昔にパニックを起こしているだろう。
「僕の手には余る力ですよ」
非難口調でイコンは言う。
膨大な知識に埋もれてもなお、彼は自我を保ち続けた。
彼を守ったものは何だ?
泥の魔力?
私の施した旧魔法?
それとも、彼に用意したこの本?
いや、どれも十分な理由となり得ない。
考察しがいがあるな、今回の実験は。
「大丈夫。君は最強の魔術書にふさわしい体を得たんだ。魂も泥の影響を受けて強化されている。私の知識がどんなに膨大だろうが、同化した程度で壊れたりはしないよ。だから存分に、自分の為したい事を為せばいいんだ」
初めから予想していたかのように、私は言う。
当然、そんな想定をしていたはずがない。私の魔術は、彼の魂を破壊する可能性があった。それは紛れもなく真実だ。
だが、それを明らかにしたところで何になるだろう。私の魔術が完全に成功しない限り、イコンはこの世にとどまれなかった。はじめから、命綱なしの綱渡りのような作業だった。それゆえに、一歩間違えたら、という前提自体が意味をなさない。
そう。全て「私の仮説通り」なのだ。彼に余計な不安を与えてはならない。彼に示す道には、迷いがあってはならない。
たとえ間違いがあったとしても。
迷いだけは、あってはいけない。
彼がどんな未来を選ぼうとも。
どんな破滅を望もうとも。
迷わず、道を指し示す。
それが「光」の役目だから。
「今の自分が何を為したいのか、僕にはわかりません」
隠しきれない困惑の吐露。
暖炉の火は、小さな音をたてて爆ぜている。
「これから考えていけばいい。時間はたっぷりあるのだから」
私はイコンを机の上に置く。
机がかたり、と頼りない音をたてた。
「先生は、この力で何を為したいというのですか?」
イコンの声が微かに震える。
ようやく気づいたか。
自分の師が、どんなに取り返しのつかない事をしたのかを。
どれだけ、世界にとって恐ろしい事をやってのけたのかを。
「……私が為すべき事は、もうないよ」
目を伏せ、囁くように私は答えた。
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
いつの間にかブクマが増え、作者は大変喜んでいます。月一更新ですが、今後ともよろしくお願いします。




