記憶の記録
私の手は真っ赤だった。
部屋中に散った泥を集め、天井についた泥をかき落とす。乾きかけた泥には霧吹きをかけ、旧魔法で浮き上がらせる。そんな事を丸二日続けた。
「先生。先生の身体も再構築したばかりですし、ご飯を召し上がって休みを取らないと、倒れてしまいますよ」
「そうだね。でも、ゆっくりしてはいられないから」
イコンの気遣う声に、私は額に脂汗をにじませて答える。
吐く息が重い。手足の感覚がない。長すぎる袖と裾が、うっとうしくてしょうがない。
自分が無理をしていることは、自分が一番よくわかっている。でも、まだ止まるわけにはいかない。
最低限の水分を取るために、腕に魔法陣を書き込んで身体に直接補給する。かなり無茶なやり方だが、時間短縮のためにはやむを得ない。
今まで生きてきた三百年、こんなに旧魔法を連発したのは初めてだった。
「魔力が枯渇しかけてます、本当に休んでください」
心配するイコンの声を右から左に流し、最後の泥を浮き上がらせ、瓶に落とす。
これでひとまず、イコンの魂をもたせることが出来る。
「これで、全部だね」
「はい、全てです。ありがとうございます」
その声を最後に、私の意識は飛んだ。
◇◇◇
真っ暗だ。
暗い水底。
水面が遠い。
光が遠い。
――息が、苦しい。
「イコン君、今、助けるから」
そう言う自分の方が、光から遠のいていく。
手を伸ばしても、届かない。
ああ、遠ざかる……。
「イコン君!」
がばりと飛び起きる。
私の目に飛び込んだのは、赤い泥を封じた瓶の姿だった。
「おはようございます。ここにいますよ、僕は」
泥の中から聞こえる声は、紛れもなくイコンのもの。その事実がどんなに心を穏やかにするか、イコン自身は知らない。
「どれくらい眠っていた?」
「一日もたってません」
「そうか、眠り過ぎた」
短く答え、私は立ち上がる。ぶかぶかの服を部屋の隅に脱ぎ捨て、イコンの古着を引っ張り出し身にまとった。ついでに壁にかけてある鏡で、今の姿をしっかりと見つめる。
ボサボサの短髪は絹のように真っ白。眼は暗い灰色。顔は幼少時の自分の顔がベースだが、目元だけはイコンに似ているように見える。
痛む心は、今はいらない。
手櫛で髪を整える。
「男前になっただろうか?」
わざとおどけて言いながら、イコンの方へと振り返った。
少しの無言をおいて。
「いきなりどうしたんですか、先生?」
返ってきたのは、困惑した声。
「ふむ。この姿に変化したせいか、自信家の性格が強く現れているようだ。実に興味深いね」
不敵な笑みを浮かべ、そんな風に切り返す。
後ろは向かないと決めた。後悔しないと決めた。
今の自分に、後ろ向きの感情は不要だ。
だから私は演じよう。
「彼」のような、どこまでもマイペースな天才の姿を。
「彼」が私にとって光だったように。
今度は私が、イコンの光になってみせる。
これからは、私が「彼」になるんだ。
「はあ、そうですか」
なかば呆れたような返事。
そう、イコンはそれでいい。
今まで、私たちはお互いを気遣いすぎていた。
互いが遠かった。
だが、私たちは姿を変えた。
違う姿でやり直すのだから、距離は近すぎるくらいで丁度いいのだ。
「さあ、ここからが正念場だ。君にも頑張ってもらおうか」
「もちろんです。僕に出来る事ならなんなりと」
イコンは力強く答える。
私は瓶を机の上へ置くと、一番下の深い引き出しを開けた。中には筆記具や紙が散乱している。その中から一冊の本と一本の羽根を取り、机の上に置く。
本の方は牛革の表紙に質の良い紙を綴じた形で、辞書と同じくらい分厚い。羽根はガチョウのそれを加工したもので、根元部分はナイフで削ってある。
「これから何をするんですか?」
訝しむイコンの瓶を、私は軽く撫でてやった。
「君の魂を、この本に定着させようと思う」
「本に、定着……」
「言っておくけれど、止めるなら今しかないよ」
ぱらぱらと本をめくりながら告げる。
本のページは僅かに日焼けしているが、字を書くスペースは新品のように美しい。ページ抜けもない。きっと、良い体になるだろう。
「火に焼かれない限りは不死身。もちろん、この身体になったら自殺なんかできない。自分の意思で移動する事さえ、困難になるだろう」
イコンは無言のまま。
私の口から、最後の残酷な質問が出るのを待っている。
「それでも、君は生きたいか?」
わずかの沈黙。
けれど私にとっては、永遠にも等しい静寂。
「……はい、生きたいです。先生と共に」
決意に満ちた声に、安堵を覚えた。
私は卑怯だ。
自力で死ねなかったばかりか、弟子を地獄の淵に引きずり込もうとしている。
彼の甘さと、精神的な若さにつけ込んで。
「それでこそだよ、我が弟子」
ああ。だから私は、せめて。
この命尽きるまで、君を守ると誓おう。
この本と、私の魂にかけて。
「これから転記を始める。君は黙って精神を集中させること」
左腕に、水分補給とごく微量の栄養補給を行うための魔法陣を書きこむ。これで一週間は書き続けられるはずだ。
「私が書き終えるまでに自分を見失ったら、命はないと思いたまえよ」
羽ペンの先に軽く魔力を込め、私は念を押す。
私が書き始めてしまったら、彼はきっと戻れない。
生者にも、死者にも。
「大丈夫です、始めてください」
覚悟の声を、私は羽ペンに吸い上げた。
吸い上げたその泥で、少しずつ書いていく。
イコンが来た日のこと。
イコンが覚えた旧魔法。どんな風に成功したか、どんな風に間違えたか。
イコンの考えた詠唱。講義の際に「センスがない」「カッコよくない」と一蹴した詠唱すら、一言一句、書き留める。
吸い上げて、書く。
吸い上げて、書く。
誤字は少量の泥で潰し。
脱字は小さく付け加え。
それでもまだ、瓶にいっぱいの泥を書ききるには足りない。
思い出せ。
思い出せ。
なんでもいい、イコンのことを、思い出せるだけ。
そうだ、彼は錬金術にも興味を持っていた。料理のレシピもいい。ついでだから、旧魔法以外の知識も書けるだけ書いてしまおう。
思いつく限りのことを、私は七日七晩書き続けた。




