夜明け
私の意識は、ほとんど残っていなかった。
ただ、イコン君が来たことだけは覚えている。
泣いていた。叫んでいた。
彼だけは、助けなければと思った。
元々の願いは何だったか、もう思い出せない。
ただ、ひどく穏やかで、温かな光を見た気がする。
私を慈しむように受け入れる、日差しのように天から差す温もり。
ああ、天に昇るとは、こういう感覚なのか。
私に、こんな穏やかな最期を迎える資格などないというのに。
イコン君は、助かっただろうか。
私の魔法が解けてしまっていなければ、泥に取り込まれずに済んだはずだ。それが間に合ったと信じたい。
あぁ、やっと、死ねるのだな。
◇◇◇
穴の開いた天井がある。
そうか、これは夢か。
私の意識が完全に天に昇る前の、儚い夢だ。
現実の私はとても寝起きが悪かった。今も、夢の中で重い身体を何とか起こしている。
――にちゃり。
背中に気色悪い感触を覚え、私はゆっくり寝床を見下ろした。
寝床と思っていたのは、泥に溢れて赤黒く染まる床だった。
寝ぼけていた私の頭が、クリアに冷めていく。これは、紛れもない現実だ!
更に身体の違和感に気づき、私は立ち上がって自分を見下ろす。
いつもより床が近い視界。
子供サイズの手足。
だが、私は確かに死んだ筈。骨の髄まで溶けて、泥と一体に……。
いっ、たい、に……。
「イコン君!?」
嫌な仮説は容易にたてられた。それを否定したくて、私はイコンの姿を部屋に探す。
天井がすっかりなくなり、風通しの良くなった台所には、彼の姿はない。
赤黒く汚れた彼のタイが、床の泥からはみ出ていた。私はそれを重い足取りで拾い上げた。
やはり私は、彼を救えなかったのか。
「イコン君……イ、コン……」
目から、涙が溢れる。膝からくずおれた私は、息をするのも忘れ泣いた。
また、子供を犠牲にしてしまった。
私は、なぜ生きてしまったんだ……。
――先生!
懐かしい声がする。
現実逃避のあまり、幻聴が聞こえるようになってしまったか。
それも悪くはない。廃人となって、この幻聴と共に過ごすのも……。
――先生、目を覚ましたんですね!
いや待て。
この声、私の外から聞こえないか?
外というか、泥の中から。
――ちょっと、聞こえてないんですか先生? おーい。
声に合わせて泥がたゆたゆする。
「君……なのかい?」
――はい、イコンです。
今度は泥の一部がぽよよんと弾んだ。どう聞いても、声は泥が弾んだ辺りから聞こえる。
――お疑いでしたら、昨日の朝食のレシピを言いますが?
私の頭がおかしくなったんじゃない。
確かにそこにいるのだ。正真正銘、イコン本人が。
「イ……イコン君。君は、その……」
私が仮説を構築しようとする前に、イコンはすらすらと話し始める。
――泥に魂を定着させるのが精一杯でした。僕の身体を再構築するには、魔力も材料も時間も足りなくて。
「じゃあ、この泥の海が……」
――今の僕の全てです。先生の目覚めがもう少し遅れたら、ご挨拶もできずに消滅するところでした。本当に、運が良かった。
「待て、待つんだ。消滅?」
――はい。泥が完全に干からびてしまえば、僕の魂はあるべき場所に戻ります。申し訳ありません。先生を一人にするつもりはなかったのですが。
「そんな! それはだめだ! 死ぬべきは私なのに!」
――いいですか。先生が生き延びたのは偶然じゃありません。それを、身を持って証明しました。
「証明?」
――前は娘さんが。今回は僕が。先生に生きてほしいと願ったんです。その願いを、「旧神の力」が形にした。だけど先生はそれを知らなかった。知らずにその身を実験の礎にしようとした。だから僕も、この身で証明するしかなかったんです。実証第一の先生に理解して頂くには、こうするしかなかった。
「イ、コン、君……」
何ということだろう。
無知なのは私だった。
泥に飲まれれば死ぬのではない。
この泥こそが不死の元凶であったのだ。
そうとは知らず、私は、同じ過ちを……?
……そんなの。
許されるはずが、ないだろう!
「君を消滅させはしない」
理論の証明より先に、希望的観測が声になっていた。
前例などあるはずがない。
けれど、きっと不可能でもない。
――先生?
イコンに見せるべきは、絶望に打ちひしがれた泣き顔ではない。
師として恥ずかしくない、後ろ姿だ。
「君に、新たな体を用意しよう!」
私は涙を拭い、転がっていた大きな瓶と、壁にかかっていた自分のローブを手に取った。




