師と弟子
泥が目から、耳から、口から入る。
何も見えない。何も聞こえない。
灼ける、灼ける、灼ける――
手の先が、顔の皮膚が、髪の毛の一本までもが、灼けていく。声にならない呻きを、泥がたちまち押し潰していく。
灼け続ける脳を、血液を、記号と文字が駆け巡った。ちっとも理解できないのに、わかってしまう。
感覚的で、刹那的。断片的だが統合された知の集合体。
断じてこれは、勉強による理解と同一のプロセスではない。
魂に直接刻み付けられる、痛みを伴うインプット。
その情報はまさしく、先生の研究資料の内容だった。泥に溶かされかけている自分は今、先生の知識とリンクしそうになっている。
やっぱりそうなんだ。この赤い泥は、先生を溶かし取り込んでいるのだ。そしていずれは僕も取りこむだろう。
いや、逆だ。もっと身を委ねてしまえば、先生を救う方法が「わかる」んじゃないか?
――イコン君、やめなさい。
突如、頭に声が響く。もう二度と聞くことはないと思っていた、穏やかな声。
目に熱いものがこみあげる。
「先生!」
――君が来てくれて、嬉しかったよ。でも、もういいんだ。
哀しい声は、どこまでも遠く。
――今から君を分離する。少し痛いかもしれないけれど、我慢してくれ。
その声に届く術を、僕はまだ知らない。
それでも。
「嫌です! 僕は、先生を連れ戻します!」
泥の中で、僕は叫んだ。
初めての反抗。
息をのむ気配。
「先生は、セラさんの死に責任を感じているんですよね? でもそれは……」
――セラは死んでなどいなかった。
先生の言葉に、今度は僕が息をのんだ。
――私の中で眠っていたんだ。この姿になって「わかった」よ。
ああ、そうか。
遺志ではない、これは意志だったのだ。
先生が生きることを願い続けて眠る娘を、先生はどう思っただろう。
もし知っていたら、先生は思いとどまってくれただろうか。
なんとなく、それは違うような気がした。
先生は研究者だから。
不死の身体を使った実験は、先生にとって魅力的すぎたのだ。
「こちらに戻ってください、貴方はまだ生きなきゃいけない!」
縋る言葉に、厳かな声が答える。
――今の君ならわかるだろう? 私はもう、泥と一体になり過ぎた。それに私は、ずっと死にたかったのだよ。これでやっと、死ねるんだ。
諦め切ったような、ほっとしたような。
先生の声からは、奇妙な雰囲気が感じられた。
「そんな、そんなのってないです! やっと娘さんのことがわかったのに、それなのに……」
先生が死を望んでるかどうか。
本当はどうだっていいんだ。
大事なのは、僕がどう思うかを、まだ先生に言ってないってこと!
「こんな終わり方はダメだ、なぜ、もっと色々話してくれなかったんですか! 僕は、もっと、先生に教えてほしい! 旧魔法や、美味しかった料理のこと、先生自身のこと、なんでもいいですから!」
最後の最後で願った事が、自分を殺すことだなんて。
「こんなの……悲しすぎます!」
泥まじりの涙が頬を伝う。
ひとときの無言ののち。
――すまない。私の方が、限界のようだ。
気配が消えた。
先生の魔力は、まだ残っている。僕の周囲をきらり、きらりと取り巻いている。
まるで、少しでも僕を守ろうとするかのように。
けれども、泥の魔力は諸共に僕を飲み込んでいく。
溶ける。
融ける。
とけおちていく。
自分を塗り替えていく知識の暴力。
自分自身の存在と引き換えの、叡智。
「わかる」
今の自分は、神の力の一部を有している。
この泥こそが、旧神の力そのものだったのだ。
もはや自身の境界すら曖昧で。
それでも、為したいことだけはわかっている。
そのための魔力を、もっと。
「……屋根は、邪魔だ」
骨だけの右手を頭上にかざす。
「消し飛ばせ」
詠唱とは呼びがたい乱雑な言霊が、魔力に変換され右手に集約する。そうしてできた光玉は、天井に光の柱を突き立て、爆発した。
天上の月は、静かに佇んでいる。
空から降り注ぐ魔力の霧が、家を覆った。
――イコンが×××るまで、あと十分。




