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地獄

 壁の穴から机の下を潜り部屋に入ったイコンが見たものは、地獄と形容するのも生温い、(おぞま)しき部屋のありさまだった。

 台所の中央部は大人一人分の大きさと形に凹み、そこにミハイルの身体が横たわっていたらしかった。床から湧き出る赤黒い液体は怪しい光を放ち、それに浸かりきったミハイルの身体は現在進行形で溶解している。顔は比較的残っているが、骨格標本のように顔の筋肉と歯が見え隠れしている。なまじ顔かたちがわかるせいで、現実味を全く感じない。たちの悪いフェイク画像でも見せられている気分だ。

 四肢はほとんどなくなっていて、泡を発し溶解する断面からは骨や筋肉、太い血管さえもはっきり見える。胴体ももちろん、服さえ大半が溶け落ち、滑らかな内臓が露わになりかけていた。心臓の拍動が目でわかる。肺を包む膜が収縮するのも。部屋全体に広がる仄かな生臭さの正体は、考えるまでもない。

 人がこんな姿になれるものなのか。

 これを「生きている」と言っていいのか。

 異常すぎる光景に、目を逸らすことが出来ない。


「……ィ……」


 か細いミハイルの呻き声が、イコンの理性を現実へと引きずり戻す。たまらずイコンは、その場で嘔吐した。一度吐き始めると止まらない。丸一日食べ物を口にしていないイコンの胃は、ただ胃酸だけを馬鹿みたいに噴出させる。嘔吐の苦しみが、ますますイコンに現実を突きつけた。冷たい汗と震え、そして涙が止まらない。

 

「……ク……」


 気づけば、ミハイルの目がこちらを見ていた。まぶたが溶け、眼窩からはみ出した眼球はピクピクと震えている。痛いのだろうか。感覚は生きているのだろうか。いや、そもそも先生はこの現状を認識できているのか?

 ミハイルは溶けかけの口を鯉のようにパクパクさせる。だが聞こえてくるのは呻き声だけ。

 ――先生は、何かを伝えようとしてる?

 イコンの思考回路が再びぎしぎしと動き始めた。手がかりがここにあるはずだ。あるはずなんだ。

 台所を見回すと、古びた紙束が目にとまった。きっと旧魔法の研究資料に違いない。赤くベタベタになった自分の手を見下ろし、イコンは拭けるものを目で探す。間もなく流しにかけておいたタオルを見つけ、顔と手を丁寧に拭い、そしてイコンは紙束へ飛びついた。

 その資料は当然のように暗号化されていた。イコン程度の知識で解けるようなぬるい暗号を、ミハイルが書く筈がない。それでもイコンにはページをくる選択しかなかった。

 こんな悪夢があってたまるか。先生が失敗をする筈がないんだ。この現実(じごく)をなかったことにできる奇跡の一手か、あるいは悪い夢から覚めて、先生に謝って、朝からやり直す方法か。それが資料の中にあるんだと、そう思いたかった。

 イコンの感覚は全てその紙束に注がれていた。現状を打破する鍵を見逃してなるものかと、薄暗い部屋の中で資料の読解に没頭する。だからイコンは気付けなかった。足元に赤黒い泥が渦巻いていた事に。

 突然、足場が抜けた。

 池に張った氷にヒビを入れておき、その上に人が乗ったとしたら、簡単に池へ落ちるだろう。そんな感じで、イコンは易々と泥に引きずり込まれた。違うことがあるとすれば、いつの間にか足首に泥の生温い感触があって、膝から下が動かなくなっていたくらいか。イコンに出来たのは、大事な資料をとっさに机上に放り投げることだけだった。

 泥を無力化しようと、イコンは右手をかざす。防護陣が何かの効果を示すと期待したものの、泥が無力化される様子はなし。この泥は召喚事故の産物ではないということか?

 胴から下を覆う泥は、かいてもかいても、身体に絡みついた。それどころか、遠巻きに新たな泥がイコンを囲い始めている。まるでイコンを絶対に取り込もうと、確固たる意思で動いているように。

 軽くパニックを起こしかけている頭を叩いて冷静を努める。顔が泥に埋まらぬうちに、呼吸が出来なくなる前に、何か打開策、打開策を。何か、何かないか!

 しかし、もう遅い。

 懸命にあがくイコンを嘲笑うかのように。

 津波となった泥はイコンを頭から飲み込んだ。


         ――イコンが×××るまで、あと四十分。

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