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異界の門

 施錠されている筈の屋上の扉は半開きになっていた。新二はその隙間に身体を滑り込ませ、強引に扉を押し開けた。錆び付いた蝶番が軋み、不快な音を立てた。


 やっとの思いで屋上に出ると、そこには薄紫の(もや)のようなものが立ち込めていた。じき雨が降るのだろうかと空を仰いで、新二はその靄が天候のせいではない事に気がついた。その靄が空の方ではなく、新二がいる屋上を中心に濃くなっていたからだ。発生源はこの屋上に違いない。

 靄の中を数歩進んだところで、何かを探すように床を見回す人影が現れた。それは先程の少年だった。少年はこちらに気がつくと、はっとした顔でこちらへ歩み寄りながら声を荒げた。


「何をやってるんだ君は⁉︎ こんな悍ましい気配に毒された場所へ、部外者を連れて来るなんて!」


 それが見ず知らずの、しかも明らかに年上の自分へのぞんざいな発言ととらえた新二は露骨に眉をひそめた。だがよく見ると、少年の険しい視線は新二ではなく、彼の持つおかしな本の方へと向かっていた。つまり「君」はこの本の事で、「部外者」が自分を指しているという事か。


「『何をやっているんだ』⁉︎ それはこっちの台詞ですよ、ミハイル先生‼︎ よくもこの僕を捨てて行きやがりましたね⁉︎」

「す、捨てたとは人聞きが悪いなイコン君‼︎ せめて『置いてきた』と言いたまえよ! だいたい、前から思っていたが、君には師への尊敬の念というものが……」


 突然自分そっちのけで始まった少年と本の口論に目眩をおぼえながらも、新二は何とか現実に追いつこうと懸命に頭を巡らせた。


「あのー、ちょっといいだろうか?」

「「はい⁉︎」」

「取り込み中悪いんだが、この変な靄は一体何なんだ?」


 聞きたい事は山程あったが、現時点でまず解決すべきはこの靄だった。薄紫の靄自体、そうそう目にするものではないし、その靄が屋上を覆い尽くしているというのも尋常じゃない。そして同じタイミングで現れた、白髪の少年と喋る本――恐らくこの靄と無関係ではない筈だ。そんな新二の予想を裏づけるように、本は慌てた声を上げた。


「まずいです先生、靄が広がり過ぎてます! 早く消さないと‼︎」

「分かっているともイコン君‼︎ 君もよく分かってるだろう? この私に出来ない事など、これっぽっちもないんだってね!」


 そう言いながら少年は右手の指を伸ばして丸を書き、その周囲を切るような手捌きをすると、右手をさっと空へかざした。


エルダーサイン隔離セパレート‼︎」


 その凛とした声が発せられると、少年を中心に見えない何かが波紋のように広がり、新二の身体をすり抜けた。そしてそれが屋上全体を覆うと一転、景色は暗幕を降ろしたように見えなくなった。突然の出来事にぽかんと口をあける新二に対し、白髪の少年は得意げに鼻を鳴らした。


「現実世界への干渉を妨げる魔法壁だ。君のような一般人には分からないだろうが、これだけ強力な魔法壁を作れる者は、旧魔法エルダー使いの中でもほとんどいない。この場にいる事を光栄に思いたまえよ」


 続いて少年は右手を掲げたまま、左手で格子状に空を切った。


エルダーサイン、雲散霧消‼︎」


 その言葉に呼応するように、少年の周囲の靄は一瞬にして弾け飛んだ。どうやら手の動きと詠唱によって発動するらしいこの旧魔法エルダーとやらは、様々なパターンがあるようだ。


「まだ靄が残ってますよ!」

「ちっ、片手の印では火力不足か‼︎」


 少年は再び左手で空を切り詠唱した。だがやはり威力が弱かったのだろう、四散した靄の断片は屋上の端で寄り集まり、新たな靄の塊を成した。その靄の中から妙な音が聴こえて来る事に気付き、新二は音の方へと目を凝らした。

 沢山の空き缶を回収箱へ流し込んだような高い金属音、そして時折混じる粘液の音が、魔法壁からの反響音とも相まって、何とも気色悪いセッションを奏でた。だがそんな事はどうでも良かった。靄の中に、無数の足と身体をうねらせ蠢く巨大百足のような影が見える事に気付き、虫嫌いの新二は背筋を凍らせた。


「おいおい、何だよあの馬鹿でかい影⁉︎」

「あの靄は異界に繋がる門の役割をしています。その門が開きかけているので、異界の生物達はこちら側へ出て来ようと動いているんです」


 にわかには信じ難い話を淡々と語る本の言葉に、新二は理解が追いつかなかった。底知れぬ恐怖に身体ががたつくのをこらえられず、新二は上擦った声をあげた。


「お前らがやったのか? な、何のために⁉︎」

「僕達じゃありません。何者かがこの近辺で中途半端な召喚魔法を発動させたみたいですね。目的まではわかりませんが。で、それをたまたま見つけた先生は一つずつ壊して回っていたわけです。でもここの召喚陣は……」


 一足遅かった、という事か。


「やむを得ません、僕の書の力で一掃を……」

「止めたまえイコン君! 前に教えただろう⁉︎ 書の力は君の魂を削る!」


 空を切り続けながら少年が叫ぶ。二人の会話から察するに、この少年、見た目程若い訳ではないらしい。新二自身と比べて上か下か、そこまでの事は分からないが、少なくともこの「喋る本」が師と仰ぐくらいの年齢ではあるのだろう。


「ですが先生、ぐずぐずしていたら異界に引きずりこまれます‼︎ 手段を選んではいられません‼︎」


 焦りと苛立ちが入り混じった声に、少年は奥歯をぎりりと噛み締めた。


「……うぅ、昔の私ならこの程度の靄など一撃で蹴散らせたのに、今は開門を阻止するので精一杯とは……」

「泣き言を言う暇があったら手を動かす‼︎ ほら、怠惰の貴方も手伝って下さい‼︎」


 新二は目を瞬かせた。


「怠惰の……って、俺の事か?」

「良いから、僕についてるベルトを外して、僕を手の上で広げて下さい‼︎ 早く‼︎」


 本に急き立てられるまま、新二はしぶしぶ革紐を解くと本を広げた。その中には万年筆を使って書いたものだろうか、筆記体のアルファベットがびっしりと細かに書き連ねてあった。掠れ、滲み、ぼやけが随所に目立つその文字は、石榴色の光を帯びていた。


転記ポスティング!」


 本の発した声と共に、その光はページから浮き上がると、餌に群がる蟻の如く一気に腕を這い上がった。驚いて袖を捲ると、肘から先は細かな筆記体で真っ黒に埋め尽くされていた。


「何だこれ⁉︎」

「今から貴方の左腕をお借りします」

「はい⁉︎」

所有ポゼッション!」


 軽くパニックになっている新二にはお構いなく、本は更に言葉を唱えた。すると腕の文字が淡く光り、湧き水のように冷たい何かが末端から腕を侵食していった。肘から先の感覚がなくなり、力が入らなくなった。そして脱力し一度落ちかけた新二の左腕は、直ぐに操り糸に引っ張られたように宙に留まった。


「僕の本、持ってて貰えますか?」


 自分の左腕から聞こえる声に、もう新二は驚かなかった。現状を理解しようとする努力すら放棄していた。何が起きているかは全く分からないが、少なくともこの本は、門というやつが開くのを阻止する為に動いている。ならば自分は、本の言う通りに動くしかない――新二は黙って頷き、本を右手で受け取った。

 新二の左手は一度地を指さして静止し、そして目にも留まらぬ速さで空を切り始めた。それと同時に五指全てが、それぞれ別のものを描いて互いを繋ぎ合うように細かに動いた。新二の目には何も映らなかったが、指の軌道を見る限り、球体に沿って何かを書き込んでいるように新二には見えた。


エルダーサイン、吸引力の変わらぬただ一つの墓穴!」


 どこかで聞いた覚えのある言い回しが声となって聞こえるとともに、左手が下へとかざされた。すると床から黒い泡が吹き出し、その中央が渦を巻いて凹み始めた。同時に竜巻のような風の流れがその中から生まれ、周囲の靄を容赦なく飲み込んでいった。――いや、靄だけでなく、少年と新二すらその竜巻に飲み込まれそうになっていた。


「イコン君! 流石にやり過ぎじゃないかい⁉︎」

「何言ってんですか‼︎ 早くしないと異形の者達が顕現します‼︎ この位無茶しなくては‼︎」


 はためくフードを押さえ声をあげる少年と同様、新二も些か度の過ぎた魔法ではないかと懸念していた。だが新二には声をあげる余裕などなかった。本をしっかり腕で保持しつつ、両足を踏ん張り耐えるのが精一杯だった。そんな中、周囲の靄は順調に回収されていった。


――が。


「……あれ‼︎」


 僅かに残った靄の中をかきのけるようにうねり現れたのは、象すら軽々と締め上げられそうな程大きな、赤錆色の百足だった。

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