侵入
イコンが家を視界に捉えた時、月はしっかりその姿を現していた。中天にはまだ遠いが、家を飛び出してから時間が経っているのは確かだ。もう儀式は終わってしまっただろうか。いや、家が元の形を保っているなら、まだ儀式は終わってない筈だ。もはや引きずる事しかできない両足を懸命に動かし、イコンは玄関の扉へと駆け寄った。
「先生! 遅くなってすみません!」
扉を開けようとするが、ほのかに光を放つドアノブは微動だにしない。単に鍵をかけただけではない、魔法だ。そしてこの魔法が解けていないという事は、先生はまだ生きている。
家の見取り図が頭に浮かんだ。きっと先生は、出入り口全てに同じ仕掛けを施しているに違いない。玄関から部屋に入ろうとしたら、少なくともドアを二つ開ける事になる。先生の強固な魔法を二回解除するのは悪手だ。ひょっとすると、普通は考えないであろう侵入経路の方が早いか。
――壁をぶち破ろう。
どこの壁を壊すかと、家の周りをぐるりと回った。そして間もなく、台所の窓から光が漏れ出ている事にイコンは気付いた。夜の雪原を思わせる青白い光。背筋がぞわりとした。きっとここに、先生は居る。中でまだ儀式を続けているんだ。
ダメで元々と窓ガラスに手をかけるが、やはり微動だにしない。ついでに強化魔法もかけられているのか、ガラスは鈍い音で軋んだ。やはり侵入路は壁しかない。
使える旧魔法は限られている。その中で一番、壁を破壊できそうなものを。さすがに、全ての壁に強化魔法を施している可能性はないと思いたい。
イコンは足から流れる血を壁に擦り付け、大きめの魔法陣を書き始めた。そしてその上から蝋石でなぞり、タイを巻きつけた右手を魔法陣に当てる。満月のおかげなのか、召喚自体は失敗しなかった。丁寧に書き込んだ魔法陣の中央に、金槌を持った小人が一人現れる。
「地を司る精霊よ、汝の力を以って我が道を示せ――壁を抉れ、ノッカー!」
簡単な詠唱に合わせて一つ頷き、小人は槌を思い切り壁に打ち付けた。漣のような振動と金属を叩く音が発生したと思う間もなく、壁が球状に膨れ上がる。爆発と見紛うその威力は、家の壁に人が通れるだけの穴を開け、ついでにイコンを吹き飛ばした。背後の木で背中を強かに打ち、激しい激痛が襲う。
役目を終えたノッカーは、爆風に吹き飛ばされながら正常に姿を消した。だが今はそんな事に構っていられない。痛みで悲鳴を上げる身体を這いずらせ、イコンは開いた穴に潜り込もうとした。
潜り込もうとして、身体が竦んだ。
「何だ、これ」
台所の床が見える。そこには一面、赤黒い光を放つ液体が広がっていた。湧き出る泉のように、それは薄暗い部屋の中央から流れ出ているようだった。微かに水音も聞こえてくる。
……血か?
いや、血にしてはさらさらしすぎている。血特有の鉄臭い匂いもない。その代わり、乗り物酔いのような吐き気がイコンを強く襲う。台所周辺で魔力の濃度が濃くなっているせいなのかもしれない。
異様な光景と吐き気のせいで、意識が飛びかける。だが呆然としている時間はない。
痛みと悪寒がぎゅうっと胸を締め付けた。この先に行ってはならない。第六感めいた何かがそう囁きかけ、動きをますます鈍らせる。それでも、僕は。
「先生に、伝えなきゃならない事が、あるんだ……!」
地に縫いとめられたように重い身体を、腕の力で強引に引きずる。イコンは傷だらけの身体を赤黒い液体に浸し、穴を潜った。どんどん強くなる悪寒と吐き気に抗い、奥歯をぎりりと噛みしめながら。
――イコンが×××るまで、残り一時間。




