神よ
走っている間、狼の姿は一度も見なかった。しかし時折聞こえる遠吠えは、確実に家の方から遠ざかるように動いていた。不安はますます募り、血だらけの足はもつれるばかりだ。
ふと見上げると、月が東の空に顔を覗かせていた。ほぼ満ちた形の月は、怪しい赤色の光を放っている。月光が旧魔法の儀式に最も重要だという事は、先生の講義でも何度も強調されていた。
(今日が満月だって、先生は知ってたんだ)
先生が紛らわしい言い方をしたのは必然だ。僕が不安で逃げ出すように、わざと生贄を意識させるような事を言った。はっきり嘘をつくと僕が見抜いてしまうから、嘘じゃないギリギリの言葉選びで。そんなつまらない仕掛けに、自分は引っかかったんだ。それが情けなかった。
――間に合って。どうか。あの人を一人で死なせないでください。
柄にもなく、そんな願いが頭に浮かんだ。
親に殺されかけた瞬間、イコンの神様は死んだ。それ以来、心から祈った事は一度もない。神の存在を意識する事に嫌悪感すら抱いていた。そんな自分が今更祈ったところで、助けて貰えるとも思えない。それでも、祈らずにはいられなかった。先生が信じているであろう神様に。
――間に合わせてくれさえすれば、後は自分でどうにかしますから。
――誰より孤独を味わい、誰より世界を恨んだ人に、せめて娘さんの思いを伝えさせて下さい。それができるのは、僕だけなんです。
*
イコンが家を飛び出した後、ミハイルは家の出入り口全てにロック魔法をかけた。そして内側から椅子を積み上げ、ささやかなバリケードを作った。力仕事に慣れていないミハイルにとって、それは日が暮れるまでかかる大仕事だった。
感情を操作する薬を飲んだ影響だろうか、死への恐怖や悲しみは全く湧かなかった。
イコンを一人残す事が申し訳ないという気持ちはある。儀式に巻き込まないように一芝居打ったが、それがイコンにとって本当に良かったのか。イコンの意思を聞かずに家から追い出す方法は適切だったのか。
――いや、正しい筈だ。ミハイルの過去の問題に、イコンは関わらせてはならない。
ふと、イコンが来た日の事を思い出した。あの時は寝ぼけていたから妖精と勘違いした。今思い返してみれば、妖精よりも野生の獣に近い気配だった気がする。懐かしい記憶だ。
イコンは、あの時と比べて穏やかになった。きっと元が穏やかな性格であったのだろう。時折みせる不器用な笑顔。あの笑顔を見る事は、もう二度とない。そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。
儀式に十分な魔力を提供する満月があり、同時に地脈の力が増大して召喚事故を最小限に食い止めてくれる日。それが今日だった。それを知ったのは約一年前――イコンが居候する事になる数日前の事だった。イコンと出会う前から、この儀式を行う日は決まっていたのだ。
次の機会はいつになるかわからない。何百年も待たねばならないかもしれない。待っている間に決意が鈍るかも。あるいは娘の事を忘れてしまうかも。だからミハイルは、やるしかなかった。
ミハイルにとって、これから行う儀式はけじめだ。旧魔法の研究者として、そして娘を助けられなかった者として、何が正しかったかを証明する方法を考えた、その結論がこれなのだ。
誰も救われない、誰も幸せにならない。そんな事はわかっている。何度も迷った。本当に旧神の召喚をしていいのか。本当に、イコンを一人にしていいのか。
それでも、研究者としての矜持を曲げられなかった。旧神の召喚儀式を成功させ、友人や娘と同じ方法で死にたいのだ。だから今は、儀式の準備を黙々と進めている。山中を逃げているであろうイコンを案じながら、台所の床に魔法陣を書いている。数百年も研究を続けた魔法陣だ、目をつぶって書いても、他ごとを考えていても間違えない自信があった。問題があるとすれば、ただ一つだけ。
この魔法陣で、本当に召喚できるのか。
それを今から、自分の身体で確かめる。
理論的には正しい筈だ。けれどこれが正しくても正しくなくても、自分の命はここで尽きる。失敗は許されない。この魔法陣は、この儀式は、友人の理論はいつでも正しいのだから。数百年の研究で知識を培った私が、今日、天才の偉業を成功させてみせる。
天候よし、気温よし、湿度よし。のぼったばかりの月光が、明かりを落とした台所を薄く照らす。もう少しで、儀式に必要な魔力がこの場に満ちる。
神よ。残されるイコンの未来に祝福を。
ミハイルは書き上がった魔法陣の真ん中に横たわった。そして一つ息をつき、詠唱を始めた。
――イコンが×××るまで、残り三時間。




