真実
日がすっかり落ちても、イコンは山中を走り続けた。息が切れる、足がもつれる。止まるのが怖くて、振り返るのも怖くて、イコンはただただ走った。
地上に張り出していた木の根に躓いて、イコンは漸く走るのをやめた。足先が血まみれな事なんかどうでも良かった。靴下は穴が空き、燕尾服も引っ掻き傷だらけ。タイはとうに取って上着のポケットに入れている。捨てる事が出来なかったのは、ミハイルにもらった大事なものだったからだ。
薄闇に浮かぶ景色をぐるっと見回す。一つ隣の山へ踏み入っていたらしい。ミハイルが本気を出せば探しに来られる距離。わかっていても、もう一歩も動けない。イコンはその場でうずくまるしかなかった。
初めて料理を作った時、召喚に失敗して紙を焦がした時、一緒に街へ下りて買い物をした時……。
幸せな時間だった。全て嘘だったなんて、騙されていたなんて、すぐには信じられない。
額の汗を拭おうと手をやり、初めて自分が泣きじゃくっている事を知った。どんなに拭っても涙は止まらなかった。ハンカチを丸めて両目に押し当てても駄目だった。傷の裂け目から溢れ出る血のように、両目は際限なく涙を流し続けた。
「あぁ、なんで……」
なんで、こんな事になってしまったのか。
いずれは、こうなる運命だったのか。
否。否だ。そんな風に思いたくない。召喚材料にされるところだったなんて。
「冷静になれ、イコン。冷静にならなきゃ駄目だ」
涙を拭う手は止めず、イコンはぐっちゃぐちゃに乱れた頭の中を整理しようとする。先生の一言一句、一挙手一投足がとっちらかった記憶の沼。一々気を取られていては、冷静に考えるなど出来るはずもない。何かに集中しなければ。
「何でもいい、何でもいいから、集中して考えるべき事を……!」
気がつけば、今朝の記憶を手繰っている自分がいた。今朝の先生は、薬の香りをさせて降りてきて……。
「何故、朝から薬を作る必要があった?」
ふと浮き上がった疑問が、イコン本来の思考回路を淡々と動かす。
僕の朝食に毒を盛るため? いいや。そんな事が出来る程、僕はあの場から目を離してはいない。それに、僕が薬を口にする前に話を切り出しはしないだろう。じゃあどうして……?
「自分で飲んだんだ」
そうとしか考えられない。理由は? 仮説の域を出ないが、おそらく、僕に何かを知られないよう、表情を誤魔化すため。
素の先生は隠し事や嘘が下手だ。先生の隠し事を見抜けなかった事は今まで一度もない。それは先生も自覚していただろう。だから、わざわざ感情を操作する薬を飲んだのでは?
「じゃあ、先生は、僕を殺す気なんかなかったって事、なのか……?」
安易な希望。それを無心に信じられたなら、どんなに幸せだったか。けれど今のイコンは、それを無慈悲に打ち砕く理性を持っていた。今までの仮説に、イコンを生贄にしようとした事実を覆すだけの力はないのだ。
ならば、自分がまだ先生に捕まっていないのは何故だ?
本気で僕を生贄にするなら、椅子を蹴り飛ばした時点で結界を張っていた筈だ。そうでなくとも、旧魔法を使えば簡単に僕を捕まえられる。けれど先生は追ってくる気配すらない。隠匿の魔法さえ使えず山道で蹲る無力な少年は、今もこうして泣き続けている。
僕を召喚材料にするなら、もっと前――僕が先生の家に来たその日に出来た筈。わざわざ色んな事を学ばせる必要なんかなかった。
そうだ、先生は不器用ながらも僕を育ててくれた。僕が一人で生活していけるように、一年限りの共同生活を約束し、実行してくれた。それは事実であり、真実だ。
イコンはポケットからくしゃくしゃになったタイを取り出した。タイの裏側には極小の防護陣が書いてあり、召喚事故からイコンの身体を守るだけの力がある。そうミハイルは言っていた。召喚材料にしようとしている人間に、こんな物を渡すだろうか?
……待て。
朝の会話。
先生は僕を材料にするとは一言も言っていない。ただ、召喚の材料に人間の身体が必要だって……。
不老の人体。
死を伴う旧神の召喚。
二つのワードが雷火の如く繋がる。
先生が本当にやりたかった事、実証したかった事。
――僕は、取り返しのつかない勘違いをしていた。
「先生は、自分を材料にして召喚するつもりなのか……!」
友の理論を証明し、自分の命を確実に葬る事が、今まで生き続けた先生のやりたかった事なのか。そうだとすれば、あまりに悲しい最期だ。僕を危険な場所から遠ざける為に似合わない芝居をし、友や娘と同じ方法で孤独な死を選ぶなんて。
……同じ?
「同じじゃない」
先生の友人の時、側にいた妻は死んだんだ。では、なぜ先生は生き残れたんだ?
「……娘さんのおかげ、と考えるべきだ」
幼いながらも賢い子だったというから、旧魔法の即興アレンジで先生を助けた可能性は充分ある。おそらく、先生の友人の時も、妻は同じことを試みたのだろう。そして友人の時は失敗し、先生の時は成功した。それだけの違い。
先生は気づいただろうか? 先生が生き延びたのは娘さんの遺志なのだと。娘さんは望んでこの結果を選んだのだと。
「多分、気づいてない」
――ならば。
「止めなくては!」
涙はとうに止まっていた。イコンは皺だらけのハンカチを簡単にたたみ直し、ポケットにしまった。ついでにタイを右手首に巻きつけて雑に縛る。もっとも、防護陣の効果については実践経験がないため、今から証明する事になるのだが。
不意に、狼の遠吠えが山中に響き渡った。昔、狼と親しかった時に一つだけ覚えた、仲間に危険を知らせる声。先生の家の方からだった。
「先生……!」
よろよろと、イコンは走り出した。その疲れ切った身体に鞭打って。




