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渇望

 ミハイルが完全に寝付くまでの間、イコンは一時間おきに様子を見に行かねばならなかった。粥を食べて元気になった病人(ミハイル)が、隙あらば起きだしそうな気配だったからだ。

 子供じみてはいるが、病み上がりでも本を読みたいという気持ちは分からなくもない。けれど、精神的負荷からくる体調不良は休まなくては良くならない。根本的解決が出来ない問題ならば尚更。

 イコン自身も悪夢でうなされる時がある。そんな日は家事の作業を軽めにして誤魔化していた。幸いミハイルには体調が悪いと気づかれた事がない。


「やっと……寝たかな。困った先生だ」


 寝息をたてている安らかな顔を覗き込み、イコンは微笑んだ。



 *



 翌朝。

 ミハイルは仄かに柑橘の香りをさせて食卓についた。ミハイルが香水の類を身につけることはまずない。だからそんな香りをさせているという事は、大抵、思いつきで妙な薬を試作した事を意味していた。

 ミハイルの薬は精神的な作用があるものが多い。前に実験と称して試し飲みさせられた時は、一日中気分が高揚してしまって寝るのも大変だったと記憶している。

 ともかく、朝からそんな事をしていたとは珍しい。だがミハイルの行動としては想定の範囲内だ。


「おはよう。昨日は湿っぽい話をしてすまなかった」


 席に着くなり、改まった表情でミハイルは言った。新作の薬の効能から話し始めると思っていたイコンは面食らったが、直ぐに首を振った。


「おはようございます。いえ、大事なお話でしたので、昨日聞けて良かったと思います」


 にこりともせず答える。けれど本当に、イコンは良かったと思っていた。昨日ほど具合が悪そうな先生はなかなか見ないし、事情を知らずに狼狽する必要がなくなったのは素直にありがたい。


「そうだね、私も話せて良かったと思うよ。気持ちに整理がついた」


 吐瀉の直前みたいな顔で、しかし穏やかにミハイルは言った。その声にはまだ疲れが残っている。今日も安静にさせておいた方が良さそうだ。


「そうですか。では、朝食にしましょう」


 イコンはあくまで淡々と答え、サラダの器をテーブルへと置いた。だがその胸には、大きな疑問を抱えていた。それは前々から気になっていた事であると同時に、先生に聞くにはあまりに不謹慎な疑問だった。だからイコンは顔に出さなかった。出ていなかった筈なのだ。それなのにミハイルは、不意に目をぱちりと見開き言った。


「ふむ、何か聞きたそうな顔だね?」


 背筋を走る悪寒。それは指先、足先へと伝播し、そして体内を密やかに循環する。

 ミハイルの眼を改めて見つめる。そこには疲弊の色こそあるが曇りはない。沈黙と逡巡ののち、イコンは観念して口を開いた。


「はい、一つ質問があるのですが、よろしいでしょうか?」

「何だい?」


 ミハイルは目を細くして弱々しく微笑む。こんな顔の人間に聞くべきではない――そんな遠慮は、今聞かなかったら一生聞けないという直感で無理に押しのけた。


「先生は、何年、生きているんですか?」


 微かに震えた声が、部屋の緊張を強くする。きっと先生は驚いているだろう。先生にしてみれば藪から棒の質問でしかないから。けれど、ミハイルの表情は動かなかった。


「どうして、そんな事を?」


 人形を思わせる感情なき微笑みだった。


「前に仰ってましたよね。『旧魔法は数百年前なら盛んだった』って。伝聞じゃなく、まるで実際に変遷を見たかのような言い方でした。それが気になってたんです」


 全ての皿がテーブルに置かれた事を再確認し、イコンは静かに席に着く。


「加えて今回のお話です。先生は学生時代、旧魔法を学び舎で勉強されていたんですよね。でもそれって、少なくとも百年は遡らないとありえない光景だと思うのですが、違いますか?」


 努めて冷静に。不安で昂る気持ちを抑え込み、イコンは自分の考えを述べた。ミハイルはふっと目を閉じ、その口元からは笑みさえ消えた。


「やはり君は聡い子だね。そうだ、私は()()()()()()()()()()()()()。娘を殺したのは、二百五十年ほど前の出来事だ」


 ゆっくり開かれたミハイルの目は、ここではないどこかを見つめている。そこに今のイコンは映っていない。


「今に至るまで、ほとんど老いもせず生きてきた。生半可な殺し方では死なない可能性すらある。実際にはちゃんと死んだ事がないから、仮説の正否はわからないけれど」


 ミハイルの声には微かに悲しみがこもっている。だがその顔からはどのような表情も、悲しみすら読み取れない。その奇妙なアンバランスさが、何故か美しいとイコンには思えた。


「それはセラさんに使おうとした魔法の影響ですか?」


 続くイコンの質問に、ミハイルは頷いてみせる。


「恐らくは。具体的な理論なんて調べてない。わかりたくもない。でも、それしか心当たりはない」


 ミハイルの顔が漸く動いた。ごく僅かな、それでいてはっきりとした苦痛の歪み。一瞬だがイコンは見逃さなかった。きっと本当は、ここで質問をやめた方が良いのだろう。それでも、知りたくて仕方なかった自分の疑問は止められない。


「娘さんの身体を代償に発動させたのは旧魔法なんですよね? けれど一般的な旧魔法では、物質の代償を要求する魔法はなかったように思います。それが錬金術との大きな相違の一つだと記憶しているのですが」

「その通りだ。基本的には旧魔法で物質の代償は要しない。ただ、旧神の召喚だけは特殊でね、この魔法は何がおきてもおかしくないんだ。だから結果を安定させる為に必要なんだよ……」


 無言の数秒で、透き通るようだったミハイルの気配が()()()()変わった。不穏に塗れたその気配は、もはやどす黒いとしか形容しようがない。


「生きた人間の身体が、ね」


 それまで無だったミハイルの顔がじんわり、じんわりと感情を露わにする。目元から、口元から溢れるのは、この家で見てきたどの顔でもない。悲しみ? 怒り? 違う、違う――これは、渇望?


「わかってくれるね? 今の君なら」


 先生が発したものとは考え難い、ねっとりと優しい声。

 気づいてしまった。

 気づきたくなかった。


 僕を()()()()()()()()()()()()()()()()


 イコンを動かしたのは、騙されたとか裏切られたとか、そんな冷静な思考じゃない。純粋な、危機からの逃走本能だった。イコンの身体は勝手に椅子を蹴り飛ばし、扉へと走り寄っていた。力任せに扉を押し開け、靴も履かずに外へと飛び出し、脇目も振らずに山中を疾走する。実の父親に殺されかけた、あの日のように。

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