秘めた心
イコンは懸命に頭の中を整理しようとしていた。彼の思考を妨げていたのは、情報の多さや複雑さではなかった。
イコンは親に殺されかけた過去を持つ。だがそれはミハイルに一言も言っていない。よってこの過去にミハイルは全く関係しない。その筈だった。
だが今回の話を聞き、イコンの中で靄のような感情がたちこめつつあった。ミハイルが引き取った養女を死なせた事と、自分の過去。悪いことに、『親が子を殺す』という一点においてのみ、ミハイルとイコンは繋がってしまったのだ。
ミハイルは子供を助けようとしたし、イコンの親とは事情が違う。理屈ではわかる。だがわかるだけなのだ。
ミハイルの過去を許せない自分が、心の片隅で声にならない悲鳴を上げている。何故そんな感情が浮き出てきたのか、イコン自身にもわからない。
――先生は僕に大変良くしてくれている。それは確かだし、それでいいだろう?
言い聞かせるように心で唱えてみたが、靄は晴れない。強引に無視を決め込むと、「悲鳴」はいくらか和らいだ。
「これでわかったかい。私は、君に心配される資格などない人間なんだよ」
話が終わったと気づき、イコンははっと顔をあげた。起き上がっていたせいかもしれないが、ミハイルの顔色は話す前より悪くなっているように見えた。
「心配なんかしていません。そもそも心配するかは僕の自由です。資格とか関係ありませんよ」
無愛想というよりも不機嫌に、イコンは答えた。ミハイルは黙って項垂れていた。そんなミハイルを無視して立ち上がり、イコンは粥のお膳を机ごとベット脇に寄せた。
「いい具合に蒸らせた筈です。余程具合が悪いという事でなければ、今召し上がってください」
小鍋の蓋をあけると、ほかほかと玉子粥の良い香りが部屋いっぱいに広がった。イコンはミハイルの返事を待たずに、粥を器によそった。
「ああ、そうだね。早く食べて元気にならないとだし、頂こう」
ミハイルが器とスプーンを手に取ったのを見届け、イコンは改めて椅子に座り直した。二人の視線は自然と交わった。
「……えっと、イコン君?」
「はい、何でしょう」
「私の食事を眺めているつもりなのかい?」
ミハイルの目はビー玉のようにまん丸で、内に微かな当惑を秘めていた。
「いけませんか?」
「いや、いけなくはない。けれど、いつもの君なら他の家事をやりに出ていくと思って」
沈黙が流れた。
確かにいつもならば、速やかに台所へ下りていくところだ。ミハイルの過去に少なからず不愉快な感情を抱いている今なら、尚のこと。
だがいまはそうしたくない。ここにいた方がいいという第六感めいた何かが、イコンを引き止めていた。
イコンは小さく唸り、口を開いた。
「実は、こちらの部屋で読みたい本があるんです。先生がお粥を召し上がっている間だけで構いませんから、お借りしてもいいですか?」
「……まあ、構わないよ」
怪訝な顔をしながらもミハイルは承諾した。イコンは机の上の平積み本から、魔法と錬金術に関係のありそうな本を適当に選んだ。
「ではこの本をお借りします」
ほんの僅かに眉をひそめ、イコンは椅子に戻るなり本を広げた。ミハイルは既に粥を食べ始めていたが、イコンは一切視線を向けなかった。
「どうぞゆっくり召し上がってください。その方が長く読めますから」
顔も上げずにイコンは言った。
本を借りたかったというのは嘘だ。ついでに言うと、一人で食べるミハイルに気を遣ったわけではない。
強いて言うならば、ミハイルが「幻覚」と称するものをこの目で確かめられるのではと思いついた、ただそれだけ。
前提として、イコンは幽霊の存在を信じている訳ではない。けれど、そう呼ばれる類の何かが実際に見えている可能性はある。それはきっと、魔法や何らかの学問で説明できる物質の筈だ。それを確かめられるかもしれない好機。そうイコンは思っていた。
*
結果として、最後までイコンの目に「幽霊」が映ることはなかった。内心がっかりしながら、すっかり片付いたお膳に手をかける。その時、ミハイルが顔を上げた。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
その顔には、生気のない作り笑いが浮かんでいた。イコンの作った粥なのだから美味しいに決まっている。だがそんな理由で無理に笑ったのではないだろう。そうイコンは思った。
「それは良かったです」
「……ありがとう」
かすれ声で、ミハイルは言った。おそらく、何か勘違いをしている。しかしその間違いに意味などなく、誤解を解く必要性は感じなかった。
「では今日一日、安静に寝ておいて下さい。時々様子を見にくるつもりですが、何かあれば呼びつけて構いませんから」
ため息混じりにそう言い扉へ向かうと、背後から穏やかな返事が返ってきた。
「そうさせてもらうよ。今ならよく眠れそうだ」
扉を開けながら振り返り、ミハイルの姿を確認する。ミハイルは既に布団にもぐり、こちらに背を向けていた。イコンは静かに微笑んだ。
「では失礼します」
軋む扉の音が、いつもより重たく聞こえた。




