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旧魔法の研究者(五)

 ミハイルが着替えている間に朝食の後片付けを終える。そして洗濯物を機械に放り込み、一応窓のカーテンを閉める。授業は、朝食をとったテーブルの上で始まった。


「では一時限目、復習の時間だよ」


 ミハイルは燭台の炎を優しく撫でた。炎は素直に光を失い、机の上は薄暗くなった。視界の隅では、薪ストーブの光が揺らめいている。ミハイルは燭台をイコンの前へと押しやった。


「平面の魔法陣で、火をつけてみたまえ」


 イコンは一つ頷き、ポケットから鶏の血入りの壜と蝋石、羊皮紙を取り出した。そしてそれらを使い、セオリー通りに魔法陣を書き上げた。初めは奇怪な模様の羅列にしか見えなかった魔法陣も、手元を見ずに書ける程度には馴染み深くなっていた。

 書き終わった魔法陣の上で手をかざし、イコンはシンプルに唱えた。


「火を灯せ、精霊よ」


 短い詠唱と共に、魔法陣から赤い靄が立ち上る。その中から現れた炎の鉤爪は、空を弧に切った。と、小さな破裂音に続いて蝋燭に火が灯り、部屋は明るさを取り戻した。蝋燭の先端は数センチほど溶け、短くなっていた。

 明らかに火力の強い召喚だった。失敗だ。イコンは苦い顔で項垂れた。だがミハイルは満足げに頷いた。


「最小限の召喚に留めるのは、一応合格かな」


 通常の旧魔法では精霊や旧神を部分的に呼び出し、力を限定的に使用する。だがこの加減を間違えると、召喚対象を丸ごと召喚する事態になる。

 精霊はともかく、神を完全に掌握できる魔法使いは存在しない。だからそんな事が起これば致命的だ。悪い時は召喚者ごと、周囲の土地を消し炭にする事もあるらしい。魔法使い達は、このような事態を召喚事故とよんでいた。


 幸い、イコンは召喚事故に遭ったことが一度もなかった。ミハイルの防護陣が優秀だから、というよりは、大がかりな召喚を試した事がないから、という方が正しい。


 ミハイルは、召喚事故への防止策を怠らない人間だった。

 例えば、強力な精霊や旧神の召喚は絶対に口にしなかったし、行わなかった。また、イコンに旧魔法を使わせる際は、必ず自らの防護陣の上で召喚させた。そしてミハイルのいない場所では決して旧魔法を使わないよう、常に言いつけていた。


 過剰とも思えるこれらの配慮には、理由があった。

 ミハイルには、親しい人間を召喚事故で失った過去があるらしい。その話を聞こうとすると重苦しい空気になってしまうので、イコンは詳しい話を聞けずにいた。その一件がミハイルの人生に大きな影を落としたのは、間違いないだろう。


 とはいえ、今のイコンには高度な召喚魔法を試したいという気持ちもあった。特に今日はミハイルの機嫌が良いようだから、是非とも難しい旧魔法(エルダー)を教えて貰おう。そうイコンは考えていた。


「召喚部位の指定を、次の目標としよう。今度は立体魔法陣で。サラマンダーの尾を指定するよ」


 ミハイルから次の指示が出た。朝と同じ通り、指先に集中して立体魔法陣を描く。


 平面の魔法陣は血と蝋石を用いて書くものだが、空中では当然使えない。そのため作られたのが、自らの魔力を指先に集中させ、魔力の痕跡を空中に残して書く立体魔法陣だという。

 因みに、最初に考案したのはミハイルの友人だったらしい。習い始めの頃、なぜ空中に書くのかを尋ねた事があった。ミハイルは苦笑して言った。「立体的に書きたいってだけの理由だったんだろう。独特な思考回路を持ってたからね、彼」


「!」


 突然、イコンの指先が硬直した。他ごとを考えていたせいで運指が狂った事に気付いたからだ。朝ほど綺麗な魔法陣は書けていない。だがリカバリーは可能そうだ。ほうと息を吐くと、再び魔法陣作成に集中する。


 立体魔法陣による召喚の難易度自体は、意外にも平面魔法陣と大差ない。だが書く時点で高度な技術を要するこの魔法は、一般の魔法使いには受け入れられなかった。

 その為、立体魔法陣を真に使いこなしているのはミハイル位で、あとは物好きが道楽ついでに覚えているっきりなのだという。

 立体魔法陣の話の最後、ミハイルは泣きそうなほど歪んだ顔で言った。「考案者が死んでいなかったら、一般の魔法使いにもやりやすい方法を作れたかもしれないのにね」


 そんな事をまた思い出している間にも、イコンは無事に魔法陣を書き終わった。いよいよ詠唱に移る。だがこの時、イコンの頭の中は真っ白だった。サラマンダーの事など頭になかったのだから当然だ。朝の呪文すら思い出せない。焦りが募った。


「ほ、炎の……」


 イコンの声が震えた。ミハイルの顔から余裕が消える。召喚事故への備えは万全だが、もしもの時はミハイルが力ずくで事故を抑えねばならない。イコンは知らない事だが、この時点で、家中の防護陣をアクティブにする準備をミハイルは済ませていた。


「精霊、よ……」


 たどたどしく漏れる呪文は、たよりなく詠唱を刻む。


「お前は、地の底から、吹き出る炎、この小さな芯に、わずかな恵みを!」


 言い切ると共に、魔法陣の中央から赤い靄がぼうと立ち上った。中から現れたのは……。


「ぃよっし!」


 思わず声が漏れた。朝より一回り大きい、爬虫類の尾のようなものが、蝋燭の先端をひと撫でした。今度は蝋燭を削らずに着火できた。それが嬉しくて、イコンは思わずミハイルへと目を移した。


「うーん」


 だが意外にも、ミハイルは不満げに唸っていた。さっきよりも確実に良い結果の筈なのだ。イコンにはミハイルの表情を理解しかねた。


「……そうだね、召喚自体は成功と言って良いだろう。魔法陣は乱れていたし、本来使う予定の呪文ではなかったようだけど、よくリカバリーした」


 ミハイルは言葉を選ぶように評価を始めた。


「だが、召喚文句は普通の言い回しで良かった筈だ。君の詠唱は……そうだな、センスがずれてるんだよ」


 センスについてはともかく、ミハイルの好みに沿っていない自覚はあった。だがミハイルの好む詠唱はとにかく漢字が多く、覚えるのが難しい。

 それにイコンは、平易な詠唱を積み重ねて補うスタイルをとっていた。難解な情報を濃縮した漢字の詠唱は、自分には合っていない。そうイコン自身は感じていた。


「呪文は自分で考えて構わないと言ったのは、先生ですよ」


 召喚時に上の空だった事には後ろめたさを感じながらも、抗議の声を上げてみた。だがミハイルの眉間は緩まない。


「ああ、召喚が成功している以上、それは立派な呪文だ。けれどこれは、私の美学の問題でね。今の君ならもっと詠唱を短縮し、美しい形に出来る筈だ。それに何より、耳あたりが良くない。詠唱の響きや語呂をもっと意識しなさい」


 薪の爆ぜる音が静かに響いた。薪ストーブの炎は弱まっていた。ミハイルはストーブへ歩み寄り、指一本で小さな立体魔法陣を作った。そして脇に積んであった薪の一本を手に取り、魔法陣にかざした。


焔生(えんしょう)


 ミハイルの言葉が終わらぬうちに、薪の先端はごうと音を立て、油を塗りこめてあるかのようにメラメラと燃え始めた。それを慎重に焚べ、ミハイルは背中越しに言った。


「私の弟子ならば、もう少しセンスのある文言を使いたまえよ」


 悔しかった。

 ミハイルの求める基準が高い事も、言い方が敢えてきつくなっているのも理解している。けれど、ミハイルは決して褒めない人間ではない。そして同情とか憐憫とかいう感情で褒める人間でもない。

 今回の場合、ベストを尽くしていれば、それなりの評価が出ていただろう。呪文への指摘も、朝成功した時の詠唱ならば強く言われなかった筈だ。それが分かったからこそ、イコンは悔しかった。


「……努力します」


 それだけ言うのがやっとだった。魔法に集中できていなかった自分に、今更ながら腹が立った。俯きたくはなかったが、自然と首が前傾していた。

 ミハイルは、テーブルへ戻ると息を一つついた。


「まぁ、厳しいことを言ったが、正直に言うとね」


 ミハイルの声はさっきよりも明るく、優しかった。


「驚いてるよ。この短い期間で、君が出来る事がこんなに増えたのは」


 ミハイルの言葉には本当の感嘆と歓びがこもっていた。気持ちは全く晴れなかったが、イコンは平静を装って顔を上げた。落ち込んでいる事は悟られたくなかった。


「半年ほど前でしたっけ、僕が来たのって」


 イコンの精一杯の返しに、ミハイルは頷いた。


「そのくらいだね。あまりにみすぼらしい姿だったものだから、寝ぼけ頭でブラウニーと勘違いしたんだっけなぁ。あの時は」


 はるか遠い過去を懐かしむように言い、ミハイルは子供みたいに破顔した。

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