雪融け
最初はほんの悪戯心からだった。久しぶりに学生時代の悪友と会った折、一緒に電気街を見て廻ったのだ。そこで有線接続の超小型監視カメラを見つけた。
台湾製か中国製だと思うが、小さな穴があれば映像をハンディービデオなどへと転送できる。メモリーカードに記録する格安のビデオカメラと共に、冗談半分で購入してみた。
我が家は門の左手に車庫がある。借家なので詳しいことは不明だが、この車庫だけ後から作られたものらしい。家の一角を削り取るように、密閉式の車庫が作り付けられていた。
妻は運転免許を所持していないので、私は車庫を離れの間のように使っている。車のシートに座ってぼうっとしていると、彼女も気を利かせて放っておいてくれるのだ。
正面は跳ね上げ式の扉で、裏に勝手口へと通じる扉があった。側面は古く破れ目のある木製の板壁。その破れ目から立ち木を通して、門から玄関先までの一帯が一望できる。
私は壁の破れ目に監視カメラを取り付け、ビデオカメラを箱に入れて判らないように置いた。買い物へと出掛ける妻の横顔はどんな表情だろうか、想像してほくそ笑んでいた。
長時間モードでも一日に一枚近くメモリーカードを消費するのは辛い。しかし密かな楽しみが出来たのは嬉しかった。頭の中を空っぽにする時間なのだ。
何も撮れていないのが普通の状態だった。私の妻はそれほど社交的な女ではない。しかし三日目くらいに、男性の訪問者が撮影されていた。我が家へと入って二時間後に出て行った。
何かのセールスにしては、随分と長っ尻だと呆れてしまう。私に何の報告もないことから、不動産の売り込みか何かだったのだろう。転勤の可能性を否定できないのに、不動産などとても手が出せない。
そんな風に考えていたのだが、数日後に再び同じ男の来訪が記録されていた。今度は三時間だった。服装は違っていたが、髪型や体つき、顔の表情などで同一人物だと判る。
セールスにしてはアタッシュケースを提げていないし、何だかおかしな雲行きである。そうこうしている内に三度目の記録があった。今度は二時間。これは偶然でもセールスでもないのだろう。
妻の佳奈子とは社内恋愛だった。私が新人研修のインストラクターを務めた年に入社してきたのだ。三年半の交際の末、当然のように結婚に向けて舵を切った。何もかも自然の成り行きだったと思う。
大柄な女だが、美人なわけでもスタイルが良いわけでもない。少しぼんやりとした、ドジで内気なタイプであった。そういう、前に踏み出さない処に惚れたのかも知れない。
その妻が私に隠れて浮気を繰り返している。そういった状況は想像もつかなかった。私の知っている彼女の姿と、どうしても重ならないのだ。自分の妻を信じるとか、そういうこととは無関係に。
そのまま毎日が過ぎて行った。どうやら男は月に三回程度、我が家を訪ねて来るようだ。私が仕事で不在の日中という以外の規則性はなかった。滞在時間もまちまちなのだ。
そうして、ある日、私は妻の手料理を食べられなくなった。不意に胸がむかむかと気持ち悪くなり、箸を置いてしまったのだ。その場はごまかしたが、翌日の夕食も同じだった。
朝は食べられるのに、妻が腕に縒りを掛けた夕食のおかずが食べられない。いつしか、わざと残業して夕食を断ったり、帰宅前に牛めしを食べて帰るようになった。
ますます懐に痛いのだが、その分昼食を減らし、サンドイッチやお握りなどで済ますようになった。それでも休日はどうにもならず、妻は医者へ行くよう盛んに勧める。
健康診断の結果に何の異常もなかったことと、朝は食べられることを理由に、私は頑なに医師の診察を断り続けた。そうして妻の表情は徐々に暗いものへと変わって行った。
心なしか、ビデオの中の男まで暗い表情やしょんぼりとした様子をしている。私は不思議に思いつつも、これはとてもマズい状況であることに気づいた。三人が同時に消耗してしまったら、何処にも救いはない。
やはり一歩踏み出さなければならないのだ。
妻と男とが妖しく絡み合う姿を妄想することは、幸か不幸か私の脳が拒絶している。だから少しは冷静でいられるのかも知れない。しかし妻の体には指一本触れていなかった。
以前と変わらないような振りをして、車庫の中で過ごしたりパソコンを使ったりする以外は、全く別の日常生活を送っていたのだ。もはや限界に挑戦する意味などなかった。
月曜日から出張になったとき、妻に日曜日から実家へと帰るよう勧めた。久しぶりに羽を伸ばしてくるといい。そう言って笑い掛けてやる。彼女はとても不安そうな表情をしつつ頷く。
月曜日の朝、私はキッチンのテーブルの上に、男の姿をプリントアウトした紙を何組か置いた。日付も時間もはっきりと入れてある。出張鞄とごみ袋を持って家を出る。扉の鍵を掛けたとき、確かに大好きだったはずの家庭を封印したような気分だった。
出張から戻ると家に妻の姿はなかった。キッチンのテーブルの上に私宛ての置き手紙がある。実家へ戻りますとだけ書かれていた。プリントアウトした紙は跡形もなかった。
私は荷物を解かずに、冷蔵庫の中を確認する。冷凍可能なものは冷凍し、それ以外の生ものと野菜はごみ袋へと詰め込む。他のごみ箱なども確認し、火の元や戸締まりを確認する。
日曜日に纏めておいた荷物に加え、出張鞄とごみ袋を手に、私は再び家の扉の鍵を掛けた。
実家の母はやじ馬根性のない代わりに、真面目に話を聞いてくれる相手でもない。妻の実家より私の実家のほうが家に近いのは便利だが、夫婦喧嘩で間借りするのは肩身が狭い。
父は露骨に嫌そうな顔をするが、食事は極力外で済ますと宣言して押し切った。懐かしい部屋で再び独身生活の始まりである。車のバッテリーが上がらないよう、たまに見に行く必要はあった。
新しい暮らしは目に見えない部分で確実にダメージを与えてきた。
先ず極端に人付き合いが悪くなった。上司に睨まれるぞと忠告してくれる同僚も居たが、飲み屋でお酌をしたりバカを披露する気分ではない。まして相手は私達の結婚披露宴の主賓クラスなのだ。
上司にウケが悪く性格に問題の有る、三十代に乗った年齢の私は、いずれ遠くへと飛ばされることになるだろう。出世する意味もなくなり、こちらはいつでも何処へでも行く気分だ。
私という人間の周りから人が居なくなり、仕事、食事、睡眠、この果てしない繰り返しだった。
「佳奈子さんと、きちんと話し合ったの?」
珍しく母が話し掛けてくる。
「二人とも限界に近かったんだ。それ以上傷つけ合う意味はあるの?」
「放っておいたら塞がらなくなり、手遅れになってしまう傷だってあるのよ?」
私の答えに対する母の返しは手厳しかった。
どうやら母は妻の実家から泣きつかれたらしい。中立的なポジションで、仲裁への助力を求められているようだ。母の最も嫌いとする作業だった。
日曜日に妻の実家へと出かけるらしい。日曜日が潰れたと散々嘆かれてしまった。
周囲がどんな思惑でどう動こうと、どうにもならないときは有る。私はひたすら単調な毎日を消化し続けていた。
「あの……」
すっかり夜の帳が下りた時間に、退社した私を野太い声が呼び止める。聞き覚えのない声だった。
振り向くと、そこにビデオの男が立っていた。
「あの……」
彼は額から汗を流し、顔を真っ赤にして苦痛に歪めているようだった。
「あなたは此処で私に声を掛ける意味を理解していますか? 理解した上で行動しているのなら、私はがっかりです。あなたを軽蔑しますよ?」
男は私の言葉に呆気にとられ、口をぱくぱくとさせている。
「もう少し丁寧に言うと、此処は私の勤める会社のすぐ側です。私と一緒に仕事をしている人間も通るでしょう。しかし一緒に仕事をしていても、個人の家庭の事情は知らないのが普通です。それが共に仕事をするための工夫です」
私の声は大きくはなかったが、ややきつかったかも知れない。
「あなたの行動は、自分さえ良ければいい、自分の気持ちさえ満たされればいいという前提なんです。目の前に居る私の都合を全く考えていない。だから軽蔑しますと言ったのです」
彼は大きく目を見開くと、気をつけをして深くお辞儀をした。
「申し訳ありませんっ!」
一言それだけ言うと、くるりと踵を返して走り去った。私はもちろん妻よりも若い青年のようだった。体格は私と似たり寄ったり。
素直な青年のようだった。曲がった心など縁のない生活を送ってきたのかも知れない。私はほっとしていた。少なくとも、三人の中で私の心が一番曲がっていることを確認できて。
佳奈子は幸せを掴むことができるかも知れない。それは私にとって救いだった。
母は私の前でこれ以上ないというくらい苦い表情を見せている。実家の台所のテーブル。胸の前で腕を組み、口を尖らせていた。冷めかけたお茶の入った湯呑みは、ずっと同じ場所から動いていない。
「私はこの件に関わるのは止めたから。親と言ったって、つまりは他人。本人同士で何とかしようとしなきゃ無理なの」
母は初手から白旗降参するらしい。私は可笑しくてつい、笑ってしまった。
「佳奈子さんは頑張って、あなた達の家で生活を続けることに決めたの。ひとり切りで。もう二度と誰も家に入れない覚悟らしいの。ともかく、一度だけでいいから、戻って来て話しをさせてほしいってさ」
母の表情は何とも言えないものだった。うんざりと言うのか、苛々というのか。私は罵声が飛び出す前に自分の部屋へと退散した。
久しぶりのような気もするが、具体的に何日経ったのか覚えていない。見馴れた玄関の呼び出しチャイムを押すと、少しして扉が開かれた。そこにやつれた妻の佳奈子が立っていた。
「おかえり……なさい」
掠れた声で辛うじて出迎えの挨拶をする。その瞳は既に涙をいっぱいに溜め、直ぐにでも泣き出しそうに表情を歪めていた。
「ああ」
もっと気の利いた言葉を使えないものだろうか? 自分でも呆れるくらい、心が捩じ曲がっているらしい。ため息を吐きながら我が家の中へと入った。
「そうそう、彼が私の会社へと押しかけて来たよ。中々の好青年だった。少し若さが短絡さに繋がっているかも知れないけど。将来有望そうな素直な青年だね」
そう声を掛けると、キッチンへと向かっていた佳奈子は振り返った。その表情は驚愕したという感じで凍りついている。
やがて驚愕から苦痛へ、そして絶望へと表情は目まぐるしく変化し、佳奈子の体は崩れ落ちた。テーブルに縋り付くように跪ずき、緩く握ったこぶしで天板を叩きながら号泣する。
佳奈子はひたすら泣き続けている。私は正直困惑していた。彼女を困らせるつもりなどなかったのだが。取り敢えずフォローしようとした。
「いや、良い青年じゃないか。真っすぐで曲がっていない。きっといい夫に成れるだろうし、いい家庭を築けると思う。彼を恨んだりしないと約束するよ」
ところが、佳奈子はいっそう酷く泣き続ける。喉の奥から搾り出すように大きな声を上げ、気が違ったように涙と涎と鼻水を撒き散らした。
私はただ呆然としたまま、彼女が泣くのを見つめているしかなかった。
ようやく泣き声が収まってきたので、佳奈子の体を抱き起こして椅子に座らせる。私は湯を沸かして紅茶の用意をした。
洗面所からタオルをとってきて彼女の手に握らせると、熱い紅茶を淹れてやる。どうしていいのか判らないので、これくらいしかできなかった。
「信じて貰えないと思う……分かってるけど……私は不倫なんかしていない」
涙に塗れて歪んだ声だった。それでも佳奈子は搾り出すように言葉を紡ぐ。
「あなたに話しておかなくてはいけなかったの……それを怠った私の罪……私が軽率だった……でもっ、でも浮気なんかしてないっ」
佳奈子は全身を震わせている。体全体で絶望を表現していた。
私はどうしても困惑から抜け出すことができなかった。
佳奈子にとっても私にとっても残酷な状況だった。彼女の言葉を信じるなら、最初に感じた違和感の説明はつく。そして佳奈子の汚名は返上される。しかし、それを裏付ける証拠は何もないのだ。
彼女が嘘をついていると仮定すると、私はどうしていいのか判らない。巧妙に夫を欺いて不貞をはたらいた妻を、これから愛せるというのだろうか? どちらにせよ、肝心なことを証明する証拠は一切ない。
だが、あの青年が繰り返し我が家を訪問していた証拠なら、メモリーカードの中に腐るほどあった。その部分だけが証明されているのだ。
しばらく無言で紅茶を啜っていた佳奈子は、カップを置くと居間のほうへと出て行く。そして戻って来た彼女の手には、離婚届の届け出用紙が握られていた。
用紙には佳奈子の部分だけが既に記入捺印されている。それをテーブルの上に広げると、ゆっくりと言葉を吐き出して行く。
「私には、自分の無実を証明できる、証拠はないの。だから、嘘をついているって言われれば、何も言い返せない」
瞳に涙が滲んでいるが、しっかりとした口調で話し続ける。
「これはあなたに渡しておきます。あなたはこれを使う権利がある。でも、でもっ、どうかもう一度やり直す機会を下さい。私にできることなら何でもします。どうか私を見捨てないで下さいっ」
彼女の訴えは真摯だった。おそらく嘘はないのだろう。それは真実だと思う。
しかし私の体に変調が訪れたのも事実なのだ。私と共に暮らせば再び傷つくことになるかも知れない。
「ねえ、考えたことはあるかい? 私は再び君の手作りの料理を食べられなくなるかも知れない。君の体に指一本触れられないかも知れない。そんな男を夫と呼んで構わないのか?」
私は泣き腫らして赤くなった佳奈子の目を見ながら語り掛けた。
今までは『佳奈子』と呼び捨てにするか『おまえ』と呼んでいたのに、今は『君』としか呼べない。それが私のほうから見た距離感だった。
「君は私よりも若い。まだまだやり直しの可能な年齢だと思う。思い切ってリセットするほうが、結果的に幸せに近づけるかも知れないんだよ? 私は……どんどん君を不幸に陥れて行くだけの存在なのかも」
佳奈子の瞳から涙がこぼれ落ちる。以前の私なら迷わず彼女の体を抱きしめていただろう。泣くとしても私の腕の中だったのだ。
「全てあなたに合わせて生きて行きます。あなたを苦しめたのだから、同じように私は苦しみます。夫婦だから必ずやり遂げます」
佳奈子の決意は固い。それが余計に自分自身を苦しめるかも知れないのだが、今は他に考えられないのだろう。
「繰り返し言うけど、セックスを拒否して別居状態なら、家庭裁判所はすんなり離婚を認めてくれる。君のほうから離婚調停を請求しても、すんなり思い通りになるんだよ? そういう状態のほうが安心なんじゃないのかな?」
適切なアドバイスになっているのか自分でも判らないが、佳奈子が一方的に隷従するのはやはりおかしいと思っていた。
「あなたに全て話す決心をして、この家に帰って来た私が受けた衝撃を、言葉で説明するのは難しいの。あなたは居なかった。あなたが生活している気配さえなかった。あなたと私の家庭は幻のように消えて無くなっていたの。私には絶望しか遺されていなかった」
佳奈子の声に涙は混じっていない。熱のこもった、心からの声のように聞こえる。
「どうか私のそばに居て下さい。私の隣で生きて下さい。結婚の誓いに嘘はありません。どんな形でも構いません。私と二人で生きて下さい。お願いします」
とめどなく流れ落ちる涙を拭おうともせず、佳奈子は私の目を見つめて訴える。その言葉に躊躇いは感じられなかった。
私は離婚届を佳奈子に返すと、一週間だけ猶予を貰うことにした。
帰宅した私の姿を見る母の顔は仏頂面だった。母の考え方では一週間の猶予など、単なる無駄な時間に過ぎないのだ。事態が動いている内にどんどん動かしてしまえ、という考え方で生きている人だった。
「自分の息子がこれほど薄情な臍曲がりだとは思ってなかった」
そう一言だけ呟くと、ぷいと顔を背けて行ってしまった。
私は荷物だらけの狭い自室にごろ寝する。窓から差し込む日の光の中を、細かい埃がゆらゆらと舞っていた。
結局、悪いのは全て私なのだろう。私の家庭というものについての考え方に問題が有るのかも知れない。気づいたときに、直ぐさま佳奈子に問い質していれば、彼女の家庭は揺らぐことはなかったのだろう。
佳奈子は自分の家庭の消失を大きな衝撃とともに受け止めた。そしてそれ以降、やや思考停止に近い状態にあるのだろう。その程度の推測しかできない自分自身が情けなかった。
いつの間にか、佳奈子との距離は開いていたのだろう。家に戻る前に、既に不倫相手が彼女を幸せにする予感に安堵していた。そんな私は誰よりも卑怯者なのだ。
私は再び佳奈子のことを名前で呼べるようになるのか判らない。彼女の手作りのおかずに舌鼓を打つことはできるのだろうか? 佳奈子の体に指を触れることはできるのだろうか?
何ひとつ判らなかったけれど、我が家へと戻ることに決めた。たとえいびつな家庭だろうと、私と佳奈子の家庭をもう一度確認してみたかったのだ。
荷物を手に我が家へと戻って来た私を、佳奈子は涙を流しながら微笑みを浮かべて出迎えてくれた。
たとえその先にあるものが苦痛の山脈だろうとも、佳奈子は頑張って踏み越えて行く覚悟を決めているのだろう。では私はどうなのだ。彼女に手を引かれ、よたよたと足許を気にしながら歩いて行くのだろうか。
随分とみっともない毎日になりそうな予感はあるが、私はまだ佳奈子のことを大切に思っているのか、それだけはどうしても確認したかった。
一度ぎくしゃくとしたものが、そうすんなりと滑らかなものに変わるものではなかった。それでも佳奈子は熱心に努力を続ける。
例えば朝食である。スーパーで購入できるような素材の、面影を残したものが増えていた。今までなら同じ料理でも、佳奈子が細やかに手を入れた料理になっていた。
わかりやすい表現をするなら、主婦の手抜き料理へと変化したのだ。パックから取り出しただけのハムや、あっさりと塩胡椒で炒めただけの、素材の形丸出しの料理。
場合によっては明らかに冷凍食品と判るものもあった。ドレッシングは手製から市販のボトルへと換わった。
佳奈子にとってどれほど屈辱的なことだろう。それでも私に朝食を毎日きちんと食べさせることを、優先させた結果なのだと受け止めた。夕食も基本的に同じ対処法から始まっていた。
そうまでして努力してくれても、やはり夕食のおかずが食べられなくなる日がある。もう内緒で牛めしを食べたりはしていないのだが、胸が詰まったように箸が進まなくなってしまう。
佳奈子は黙って財布を渡し、外で食べてきて下さいと言う。情けなくて、そんなことはできるわけない。私は財布を受け取らずに黙って車庫にこもった。
車のシートに横たわるようにしてため息を吐く。私は佳奈子のことを汚れた存在だと思っているのだろうか? 潜在意識の中にこびりついていると言うのか?
車の窓ガラスが指で叩かれる。
「お腹がすいたら召し上がって下さいね」
差し出されたのは皿に載せられたおむすびだった。塩のみ、擂り胡麻をまぶしたもの、焼き海苔を巻いたもの、三種類の俵型のおむすびと沢庵。
佳奈子は黙って車庫を出て行く。私は泣きながらおむすびを頬張った。栄養のバランスなど問題ではない。彼女の手製の料理に親しむことが必要なのだ。そんな簡単なことが私達二人を隔てる障害だった。
仕事場では相変わらず孤独な臍曲がりだった。平素の私を知る人間は確実に減っている。何を考えているのか、どんな生活を送っているのか、正体不明な人物になりつつあった。
佳奈子のほうも人付き合いを徹底的に制限しているようだ。ご近所さんとの会話くらいしかしていないのではないだろうか?
私達夫婦は友人だった人間の結婚披露宴出席や、同窓会の出席も断っていた。救いようのない馬鹿な二人だった。
異変に気づいてから一歩踏み出すまで四ヶ月。そのうち食事が不自由になってから二ヶ月半。別居状態で二ヶ月。再び夫婦生活を始めて半年の月日が過ぎた。
考えてみれば一年の月日が経っている。私も佳奈子もひとつずつ年齢を重ねていた。彼女にとって貴重な時間を無駄遣いさせているという、申し訳なさは常に付き纏っていた。
ある夜、帰宅すると風呂上がりの佳奈子とばったり鉢合わせした。彼女はいつも私の帰宅前に入浴を済ませているようだった。私を変に刺激しないよう、気を遣っているのだろう。
「あら、お帰りなさい。直ぐにお風呂の支度をしますね」
髪の毛をタオルで包み、バスタオルを体に巻いた佳奈子は、慌てたように風呂場へと取って返す。私はろくな返事もできずに、目を逸らしていた。
一年以上、夫婦の交わりは無かった。それどころか、佳奈子の体に触れることも、彼女を抱きしめることもしていない。夫としては役立たずの存在だった。
欲望がないわけではない。機能しないわけでもないのだ。ただ、佳奈子の体に触れるのが恐ろしかった。そのとき好ましくない反応をしてしまうのが、何よりも恐ろしかったのだ。
男の体はいい加減に出来ている。自分自身で処理して片付けられるのだ。だからいつまでも逃げていられた。そうして、心に痛みだけが降り積もって行く。
風呂場で頭を洗う間、佳奈子の湯上がり姿を思い浮かべていた。私が初めての男というわけではない。でも初々しい女だった。決して無茶をしない、無茶を言わない女だった。
頭を洗い終えたとき、扉を開けて佳奈子が入って来た。先ほどと同じ格好だった。
「お背中を流します」
「うん」
全くもって愛想のない反応だと思う。私はいつまでも一歩踏み出すことができず、佳奈子は頑張って一歩踏み出すのだ。自分が情けなかった。
佳奈子に背中を洗って貰う間、私の体は反応していた。ほっとした反面、それを見られた恥ずかしさを感じていた。彼女に対して不実な行為を見られたような気分なのだ。
背中を流し終わると佳奈子は風呂場を後にしたが、確実に私の反応を見てしまっただろう。彼女の心中を思うと申し訳なさで胸がいっぱいになった。
私達は以前と変わらず二つのベッドを並べて休んでいた。その夜、佳奈子は私のベッドに入って来た。そうしてパジャマを脱いで行く。彼女は下着を着けていなかった。
「佳奈子――」
「何も言わないで。今日は安全な日です。全て私に任せて下さい」
佳奈子はそう言うと、私のパジャマを脱がして行った。
私は声を上げて泣き出してしまった。自分の妻を、まるで性風俗の女のように、欲望を鎮めるためだけに使うのだ。そのくせ自分からは何もしない。
佳奈子は私の頭を抱きしめると、母親が子供を宥めるように頬を擦りつける。彼女の匂いは石鹸の匂いだった。
私達夫婦のいびつな家庭はその後も続いていた。
食事は徐々に元通りになりつつある。佳奈子の手料理を残すことは少なくなった。
佳奈子を自然に『佳奈子』と呼ぶことも出来るようになった。いや、まだまだ自然とは言い難いかも知れない。でも、舌を噛むようなことは無かった。
軽くハグするくらいなら出来るようになった。しかしキスを求めることはできずにいた。
そして、私は佳奈子のベッドへと入って行くことはできなかった。やはり彼女を傷つける毎日を繰り返してしまったのだ。
そうして三年の月日が経っていた。佳奈子も三十路に乗ってしまった。彼女の貴重な時間をどれほど無駄遣いさせてしまっただろうか。
やはりあの時自由にしてやるべきだったのかも知れない。私は再び迷路へと入り込もうとしていた。
そんなときだった。異動の内示が下った。来るべき時が来たのだ。僻地の営業所への転勤。可愛くない部下に似合いの勤務地というわけだった。
キッチンのテーブルに向かい合わせに腰掛けている。まだ先の話だったが、きちんと説明しておく必要があった。
「異動になる。四月から僻地の営業所へと飛ばされる。左遷だよ」
佳奈子は辛そうな表情をして下唇を噛んでいた。
「田舎だから。単身で行くつもりだ。君は自由に暮らすといい。ここでも、自分の実家でも」
「嫌ですっ!」
佳奈子ははっきりと拒否した。既に泣きそうな表情になっている。
「私はずっとあなたのそばに居ます。あなたと一緒に暮らします。遠くでも田舎でも関係ありませんっ」
必死に訴える。
「でも君は車の運転をしないだろう? 今度行く場所は、車を使わないと日常生活も立ち行かない場所なんだ。普段の買い物からして車必須の場所なんだ」
「うっ……でも……」
佳奈子はぽろぽろと涙を流し始めた。そして再び勢い込んで話し始める。
「それなら運転免許を取ります。オートマ限定でも構いませんよね?」
「ああ。街中を走るだけなら大丈夫だと思う」
「だったら私、頑張って取りますっ」
佳奈子の勢いには驚かされた。でも四月には間に合わないだろう。
「じゃあこっちでゆっくり取りなさい。私は先に単身で行くから、本格的な引っ越しは五月の連休に組もう。君は免許を取るまでは、こっちで生活すること」
私は勢いに押し切られないよう決めて行く。
「たとえ合流するのが七月になったとしても、こっちでしっかりと免許を手にすること。住宅は夫婦世帯の規模を確保するから。それでいいね?」
佳奈子は涙目で膨れっ面をしていたけど、大人しく頷いた。
佳奈子の毎日は自動車教習所通いで大忙しだった。家の車も部品の確認やイメージトレーニングに活躍しているらしい。
私は抱えていた仕事を畳む作業と、引き継ぎの為の資料作りに忙しかった。それなりに長く同じ部署に居続けたのだ。後任は大変かも知れない。
家のパソコンでも資料作りの続きをしていた。会社で遅くまで残業を繰り返すよりも気楽なのだ。
パソコンを置いてある机の下に、記憶にない段ボール箱があるのに気づいた。引き出して開けてみると、更に小型の箱が沢山入っている。年月が書き込まれていた。
ひとつ取り出して蓋を取ってみると、中にはぎっしりとメモリーカードが入っている。一枚を取り出してみると、日付が記されていた。
慌ててパソコンのカードスロットへと挿入する。中身はやはり、あのビデオカメラの動画ファイルだった。私はすっかり放置していたのだから、佳奈子が操作していたとしか考えられない。
再生すると懐かしい映像がウィンドウの中に映る。先へ進ませると玄関から佳奈子が出て来た。
佳奈子は門のほうへは向かわず、カメラの前に来ると、光を遮らないよう少し距離を開けて身を屈める。
『これからスーパーへ買い物に行ってきまーす』
朗らかな声で宣言すると、右手で敬礼をしてにっこりと微笑んだ。そうして踵を返すと出掛けて行く。
一時間後には手荷物を提げた佳奈子が、再びカメラに向かって敬礼する映像が記録されていた。
最も古い日付の箱を探すと、それは私が出て行った頃の日付だった。
私は泣いてしまった。佳奈子の心にどれほど深い傷痕を遺していたのか、ようやく理解できたような気がしたのだ。
その日の夜遅く、私は佳奈子のベッドへと潜り込んだ。彼女は目を丸くして驚いている。
「今日は大丈夫?」
「えっ、ええ」
私は佳奈子の唇に自分の唇をそっと重ねた。キスの仕方も忘れてしまったかも知れない。心の中で苦笑いしながら、舌の先で彼女の唇を舐めて行く。
佳奈子は私の首筋に腕を廻すと、最初は軽く、そして徐々にしっかりと私の頭を抱き寄せる。私達は何も考えずキスに熱中した。
キスを一休みすると、泣きながら私の目を見つめて確認する。
「これでお別れじゃないですよね? 違うって言ってくれますよね?」
「当たり前だろう? きちんと免許証を持って、田舎へおいで」
佳奈子の微笑みはとても可愛らしい。私は大切にしていたものを、ようやく思い出すことが出来た。
浦島太郎は玉手箱を使わずに済んだらしい。
翌朝、佳奈子は珍しく寝坊して慌てていた。背中から抱きしめてやると、顔を真っ赤にして身を捩っている。私達の家庭は、どうやら通常営業へと戻れそうだった。
三月の末に私は単身で最低限の引っ越しをした。予想通りの典型的な田舎だった。コンビニの場所さえ限定されてしまう。
仕事については成るように成れという感覚だった。もう心に引っ掛かっていることは何も無いのだ。
五月の連休には完全な引っ越しを済ませ、色々なことを経験した借家を引き払った。監視カメラもその役目を終えた。
残念ながら佳奈子の卒業は間に合わなかった。彼女はまたしばらく実家の厄介になる。
それでも佳奈子は零れんばかりの素敵な笑顔を見せている。私は本当に幸せ者だと思う。
当座ひとり暮らしの新居に、予定していない来客があった。佳奈子の弟の佳孝君だ。
彼は突然玄関口で土下座すると、必死そうな声を張り上げる。
「お義兄さんっ、どうかもう姉貴のことを許してやって下さいっ」
どうやら佳孝君は色々と勘違いしているようだ。
「悪いのは全て俺なんです。俺が『お義兄さんには内緒にしといて、へそくり作りなよ』なんてけしかけたんで、何だか変なことになっちまって」
佳孝君は汗をかきながら告白を続ける。
「それからあいつは俺の学生時代の同期なんです。俺が『お前のせいで姉貴は離婚されるかも知れない』って八つ当たりしたら、あいつも焦って暴走しちまったんです」
このまま見ているのは少し可哀相になった。
「だから、全て――」
「佳孝君、落ち着きなさい。佳奈子は免許を取っているだけなんだ。免許証の交付を受けたら、きちんと此処へ越して来るんだよ?」
「えっ?」
驚いて見上げた佳孝君の表情は記録に遺しておきたいくらいだった。
佳孝君をキッチンへと案内し、お茶を煎れて落ち着かせる。彼は真っ赤になって恐縮していた。
「誰が悪いのかを決めるんだったら、悪いのは私ひとりなんだよ」
私は誰にも話す予定はなかったことを話し始めた。
「見えるはずのない物を、見えると言わなければならなかったのは『裸の王様』だったよね? でも見えると言ってあげれば、そこに波風は立たないんだ」
佳孝君に言って聞かせるというよりも、私の独り言のようなものだった。
「見えてはいけない物を見てしまって苦しむのは『王様の耳はロバの耳』だったよね? でも何も見なかった振りを続ければ、やがてはそれが真実になるんだ」
私はあの頃を振り返っていた。
「私はどちらもできない心の狭い人間なんだ。見た物を見たようにしか受け取れない。だから佳奈子を虐めて苦しめるような結果になった。悪いのは私という人間なんだ。君はそんなに気にする必要はないんだ」
佳孝君は黙って聞いていたが、泣きそうな顔をして口を開いた。
「いや、俺は無責任なことばかり言っちまって……その先に起こることの可能性を、これっぽっちも考えてなかったんです……」
「間違いだったと思ったなら、その時点で素直に謝ればいいんだよ?」
佳孝君は俯いてしまう。
「姉貴には絶縁されました。もう声も聞きたくないそうです。また姉貴が家に帰ってるってお袋に聞いて、もうじっとしていられなくって……」
「君はそれだけ真っすぐに佳奈子のことを心配できるんだから、真正面からぶち当たってみるといい。真っすぐに投げ掛けられた言葉は、ほんの少しかも知れないけど、必ず相手に届くものだから」
佳奈子はいつも真っすぐに言葉を投げ掛けてきた。私は何処かあさっての方角へと、言葉を投げていただけなんだ。ただ逃げていただけなんだと思う。
佳孝君は頻りに頭を下げながら帰って行った。佳奈子の怒りも必ず解けるだろう。
佳奈子は頑張って五月の内に試験を全て終わらせた。教習所へ通っている間は日報のように携帯のメールが届いていた。まるで監視カメラの代わりにしているようで、ひとりで笑ってしまった。
こちらへ引っ越して来ると、佳奈子はやはり大忙しだった。自分用の車選びから始まり、近所の農家に小さな農地を借りて野菜作りを始めたのだ。
そればかりでなく、家の庭にも土を入れて小さな小さな畑を造っている。エネルギーに溢れている感じだった。
佳奈子を誘って一緒に風呂へ入る。なんとか二人で入れる広さだった。
背中を洗ってやると、思いの外細い体だった。畑仕事の効果はまだまだ出ていないようである。
「もっと太らないとな」
「そうですか? そんなに痩せてるかなあ……」
つまらない会話かも知れないけれど、私達の家庭を構成している会話だった。私と佳奈子は私達の家庭を取り戻したのだ。
私は佳奈子の手を引いて、ひとつの布団へと潜り込んでいた。
妊娠が判ったときの佳奈子の表情は傑作だった。手塩に掛けた畑の世話と上手く両立できるか判らなくて、泣き笑いになってしまったのだ。
随分遠回りしてしまったような気もするし、私には必要だったのかも、などと思うこともある。
それもこれも、腕の中に我が子をしっかりと抱いた佳奈子の笑顔を見た後には、どうでもよくなった。
たとえ惨めな老後が待っていたとしても、もう文句を言うつもりはない。私には佳奈子が居るのだから。