私の創作の原点(前世の異物)
私の小説初作品は二次からでした。とは言え、自発的にした物ではありません。学校の授業。
小学校二年生のとき、「あかいろうそく」という新見南吉作の童話の続きを作ろうという授業があったのです。お子ちゃまらしく、可愛くハッピーエンドだったような記憶があるだけで、元のその「あかいろうそく」自体どんな話なのかも覚えてません。
とにかく、生徒たちのブーイングのあらしの中、喜々としてあっという間に書き上げた私は、先生にはなまるをもらって上機嫌だったことを覚えています。
「お話書くのは楽しい」
40年経った今、同じことを言えるのは本当に幸せなことだと思います。
ただ、私ってつくづく自発的にものを書き始めていないんですね。本格的に小説という物を書き始めたのは中学3年から。小学校の図書クラブのノリで、本を読むために入った文芸部は、実は文章を創作するクラブで(知らなかったんです)とりあえず現代詩などを書いていたんですが、3年で友達が部長になり、部長命令で小説に手を染めました。
で、昨年夏、実家の押し入れの奥底から昔の作品一覧が出てきました。作品そのものを墓地送りにしてしまう代わりに、メモったものと思われます。
記念すべき処女作はあのころよくありがちな病気ネタ。
ただ、これはたすくらしいというところは、一旦主人公の一年分の日記を三ヶ月で書き上げ、その日記のイベントに沿って肉付けしながら書くという手法でした。今から考えるとそれがプロットとフローチャートの代わりだったのでしょう。でも、この日記作戦は性格設定を掘り下げるという意味に於いても構成を考えるという意味に於いても勉強になったように自分では思っています。
それでもたかだか中学生が考える構成ですから底が知れてますけど。
それはなんと卒業するまで書いてます。つまり中学時代はそれしか書いてない。やはり基本は現代詩とエッセイだったようです。
高校生になっても、第1作の続編というかスピンオフをしばらく書いていましたが、やっとそれから離れて書いたのが、タイトル「戦争ごっこ」
戦争ごっこが大好きだった二人の少年。ずっと一緒にいようねと言っていたのに、一人が親の都合で引っ越しすることになる。
そのことを引っ越すギリギリに知らされたもう一方は、さよならが言えなくてしばらくシカトをしたりする。
それでも、引っ越し当日になり、やっぱりちゃんとお別れを言わなきゃと思った少年は、いつも使っているモデルガンを持って引っ越しする少年の許に急ぐ。
その時、通りかかった挙動不審の青年とぶつかった少年。その拍子に二挺の拳銃が道に転がった。
男は暴力団組員で、たった今他所の組の幹部を撃ってきたばかり。少年はとっさに自分のモノだと思ったものを拾い上げ、引っ越し真っ最中の友人の家に行き、友人に向かって
「いつまでも忘れるなよ」
と引き金を引く。しかし、飛び出てきたのはBB弾ではなく実弾だった……
一見、荒唐無稽な話と思われるかも知れませんが、私の生まれ育った街はあの「代理抗争」と言われるモノの舞台になった場所でもありました。おまけにモデルガンの規制も今ほど厳しくはなく、改造モデルガンのことが問題になり始めてきた時期でもありました。
結局、撃たれた少年は死に、撃った少年は思いがけない爆音に聴力を失うという、ものすごく悲惨な物語でした。
あまりの悲惨さに、後日死んだ方の少年の妹があれ以来心を閉ざしてしまった聴力を失った少年の心を解きほぐすというエピソードを付け加えたくらいです。
……当時の私は、遊びですら争うことが嫌いだったのだと思います。
-つづく……のか?-