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僕と私。  作者: なつめ
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女、沈殿した意識のなかで聞こえる重たい声

 女が部屋の鍵を開けるのを待っていたかのように電話が鳴り始めた。母親に違いない。自宅の電話にかけてくるのは彼女くらいなものだ。急いで靴を脱ぎ、リビングで受話器をとると、母親がもしもしもなく言った。「あら、今日はいるのね」。

「いないと思うなら携帯にかけてよね」、鍵をテーブルの所定の位置に置きながら女は答えた。「出かけてても連絡がとれるように携帯電話があるんだから」

「そうね、覚えておくわ」と母親は言った。が、それが全くのでまかせであることを女は知っている。彼女と母親の間でいくどとなく繰り返されてきたやりとりだ。テープに答えを録音しておいて、やりとりが始まったら流そうかと冗談交じりに考えたこともあるくらいだ。でも結局はより現実的な方法に落ち着いた。女は留守電のメッセージを変えたのだ。ただいま留守にしています、御用の方は携帯まで連絡下さい。それはもちろん母親にのみ向けられたメッセージだった。母親以外の誰一人として自宅の電話に連絡なんてしてこない。それでも母親から携帯に電話がかかったことは、ない。ただの一度も。

 母はそれからしばらくの間、父や職場について話した。父のいびきがうるさくて眠れない、最近手がかさつく、パートの待遇が正社員と違いすぎる。どれも控えめに言って一度以上は聞いたことのある話だ。女に求められているのは、受話器を耳に当て、母が息継ぎをするたび、その一瞬の空白を埋める相づちを打つことだけだ。女は自分の意見が求められている訳ではないことをすでに学んでいる。アドバイスを求められているわけではない。ただ聞いてあげればそれでいい。それは彼女の母に限ったことではないと女は知っている。多くの人は多くの場合において話すという行為自体を求めているように思える。もしかしたら話す内容はたいして重要ではないのかもしれない。示唆に富む哲学的発言なんて必要ないのかもしれない。何か適当な歌の歌詞の朗読でもいいのかもしれない。結局は何をいっても、それがどれほどに世界の真実を暴いていたとしても、特に何も変わりはしないのだから。

「お父さんが帰ってきたみたいだからご飯の準備はじめなきゃ。じゃあね」と言って電話が切れた。

 うん、じゃあね。女は電話口にむかって返事をした。



 夕食を食べ終え、食器を洗い終えると時間は8時を少しまわっていた。彼女は沸かしたてのお湯でアールグレイをいれて、リビングのソファーに座った。クッションを抱えて、それを2回ほど軽く叩いて形を整える。そしてテレビをつけてソファに沈み込んだ。



 いつの間にか眠ってしまっていた。12時40分。4時間は寝ていたことになる。信じられないくらい長い間、ソファのうえで眠っていたようだ。テレビのスクリーンはさっきよりもまぶしく感じられた。

 顔を洗おうと立ち上がった女の頭の中を、微かな違和感がよぎった。もしかしたら何でもないのかもしれない。しかし確かな違和感が女の中に存在している。この感覚はどこから生じているんだろう。

彼女はゆっくりと目だけを動かした。左から正面、そして右。変化の兆候らしきものがあれば必ず拾い上げる自信はあったが、とくに異変は見当たらなかった。そのまま体を右回転でゆっくりと動かしていく。変わった所は特にない。女は小さく息をはいてから洗面所へ歩き出した。きっと疲れてるんだわ。

彼女は顔を洗うとすぐにベッドに潜りこんだ。4時間の眠りから目覚めたばかりだというのにすさまじい眠気が彼女を襲っていた。手を顔の高さに上げることさえも気だるく感じてしまうほどだった。彼女は仰向けになって厚手の毛布をあご下まで持ち上げた。そして目を閉じた瞬間には深い眠りの中に沈んでいた。


 沈殿した意識の中で誰かが何かを語っていた。静かで、重たい声で。そう、その声は実際に重たかった。いったいどうしたら声が「重み」という物理的な性質を持ちうるのかは女には分からない。でも、それは確かに重たい声だったのだ。

 ゆっくりと、そして何度も、その声は女に何かを告げていた。

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