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僕と私。  作者: なつめ
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僕、完璧なコーヒーが舌に残す渋み

 僕とその女性は窓際に席をとった。彼女はメニューをしばらく眺めたあとでブレンドコーヒーを注文した。僕も同じ物を頼んだ。顔見知りのオーナーがにやついていたが、僕は気付かないふりをした。いつもであれば僕も自慢げに微笑み返していたと思う。でも今はとてもそんな気分にはなれない。

 「喫茶オオタニ」というのが喫茶店の名前だ。オオタニはオーナーの名前から取っている。僕は閉店後や休日を頻繁にこの喫茶店で過ごした。店内にはいつでも心地よい音楽が心地よい音量で流れている。読書や会話の邪魔は決してしない音量だ。だからといって話が店内に行き届くことを心配させるでもない。フランス人シェフがデリケートなソースを作るのに似ている。どこまでも計算されていて隙がない。一見気取らないが、裏には確かな技術が存在している。最近では、最適な音量で良質な音楽を流している喫茶店が少なくなってしまった。店内には茶色の革張りソファが置かれている。それは回りの空間さへも過去へとひっぱっていける重たい存在感を持っている。歴史を刻んだものだけがもつことのできる種類のものだ。革は色が褪せて落ち着きを放っていた。そして赤や黒のしみが数箇所に勲章のようにこびりついていた。そして何よりも僕がこの場所を気に入っている理由は、いつ来てもお客が2、3人しかいないことだ。喫茶店には最適な音量と同様に最適な客数が存在していると僕は考える。満席では落ち着けないし、誰もいなくても落ち着けない。2、3人という客の数はまさに理想的だ。

 コーヒーが運ばれてくるまで僕たちは黙っていた。彼女はずっと下を向いて、鞄の紐を人差し指でいじっていた。

 彼女はコーヒーを口に運んで、カップをそっとソーサーに戻した。

「おいしいでしょ?僕ここのコーヒーがすごく好きなんです」と僕は言った。

「ええ、とっても」

「休みの日もここにきて読書をするんですよ。すごく落ち着けて集中力も高まるようなきがして」

彼女の口元が小さく動いただけで言葉が帰ってくることはなかった。僕は気を取り直して続けた。「オーナーとも結構古い付き合いなんです。なんせ僕の店とも近いですから…」

「今日は突然ごめんなさい」と彼女は僕の言葉を遮って言った。小さな声だったが、そこには確かな気概が窺えた。「どうしてもこの子を手放さなくちゃいけなくなってしまったんです。でも頼れる人なんて誰もいなくて。野放しにしていくのだけは嫌だと思っていたら、ちょうどペットショップの看板が目にはいったんです。ご迷惑をかけてしまうのはわかってます。でも、何とかお願いできませんか?」

僕は少し考えてから言った。「名前は?」

彼女は少しだけ戸惑った表情をみせたが僕の質問に答えた。犬の名前はコリー。飼い始めてから2年になるらしい。

「で、どうして手放さなきゃいけなくなってしまったんですか?」

 彼女の指先は鞄の紐を触り続けている。人差し指に巻きつけては、それをほどいている。「コリーがかわいそうだから…」囁くような声で彼女が言った。

 そう言ってしまうと彼女は少し疲れた表情を見せてから視線を落とした。テーブル上には彼女にしか見えない架空の一点が定められているようだ。僕と彼女の間のテーブルには、彼女にしか見えない模様でも浮かび上がっているかのようだ。そこに思考が介在する余地を見て取ることは出来なかった。心はどこか別のところに放たれたまま、肉体だけがさまよっているように見える。そんな彼女の表情は僕に1人の女性を思い出させた。僕が始めて真剣に付き合った女性だ。大学卒業が間近にせまっていた冬に、僕たちは出会った。彼女はとてもすてきな女性だった。そして控えめにいってかなり端整な顔立ちをしていた。僕ら2人が歩いていると、すれ違う男たちは必ずといっていいほど彼女に目を奪われた。そして、大方の場合は小声でのひそひそ話があとに続く。もちろん彼らの声は聞こえない。でも予想は容易だ。なんであいつがあんなにきれいな女性を連れて歩いているんだ?表現に多少のバラエティはあったとしても、要はこういうことだ。僕は別に特段ひどい容姿をしているわけではない。皆が振り向くほどのいい男ではないが平均以上の自信はある。比較的小奇麗だとも思う。今も昔もシャツはいつもアイロンをかけた張りのあるものを着ているし、髪だって短くて清潔感がある。それでも彼女の隣を歩いていると僕は世界で一番醜い男になってしまったかのように感じられた。まるで美女と野獣だ。

僕は彼女の息を呑むほどの容姿に惹かれていた。特に彼女が怒ったときの表情は呼吸を忘れてしまうほどだった。もしかしたら表情という言葉は当てはまらないのかもしれない。僕が惹かれたのは、彼女の無表情だったからだ。口つぐんでつんとした彼女のそんな表情が大好きだった。

「最近横浜に行きました?」

僕の質問に彼女は目を少し開いて驚いたような表情を見せたが、いいえ、と答えた。

「もしよかったら今度の日曜日一緒にどうです?もちろんコリーも一緒に。」と僕は言った。それから付け加えるように続けた。「お店として買取ることはできません。でも、僕が個人的に引き受けてあげることはできるかもしれない。ただ、無責任に二つ返事はできません。人間同士に相性があるように、犬と人間にだって相性があるからです。返事をする前に、少なくともコリーがどんな犬なのかを知りたいんです。それが僕にとって最適だし、コリーにとって、そしてあなたにとっても安心できる方法だと思います」

 彼女はしばらく無表情に先ほどと同じテーブルの上の一点を見て、やがて顔をあげて、わかりました、と言った。「じゃあ今度の日曜日、10時にお店の前にきます」

 それから彼女は静かに席をたって、コリーを連れて喫茶店を出て行った。犬は相変らず小さく震えていた。


 僕は自分の言葉を頭の中で繰り返してみた。そして少し後悔した。犬を口実にデートに誘っただけだと思われたのだろうか?彼女が追い込まれている状況を利用したように見えただろうか?そう考えると顔が熱くなった。それでも、他に何か選択肢があったかを考えてみたところで何も思いつかなかった。仮に、彼女は何らかの形で精神的に追い詰められているのだとしよう。僕が断れば彼女に残される選択の幅は限りなく狭まってしまう。僕は自分にそう言い聞かせた。僕は正しいことをしているはずだ。僕はカップの底に残っていたコーヒーを飲みほした。それは微かな苦味を舌に残していった。

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