私、なくてはならないもの(中)
「寒いところで倒れてたからですか?」と母は女医に聞いた。
彼女は顎をひいて考える仕草をみせてから言った。
「外傷がないため、頭を打ってはいません。だからといって寒い所で倒れていたからといって、声が出なくなるという話は聞いたことがありませんね。通常、精神的なショックによって一時的に声がでなくなることはあるかもしれません。もしかしたら、そもそも倒れた原因と関係しているのかもしれないですね。以前にも、娘さんが突然気を失ったことはありましたか?」
「いえ、一度もありません。少なくとも私と一緒にいるときに娘が突然倒れたことはないです」
女医は紙とペンを内ポケットから出して私に渡した。
「書くことはできるかしら?」と彼女は優しく尋ねた。昨日初めてペンを握ることを覚えた子供に話しかけるような感じの話し方だ。声が出ないからといって私が愚かになった訳ではないのに。
「何か変わったことはありましたか?」
私は右手でペンを受け取った。力はしっかり入る。文字を書くのは問題なさそうだ。でも何を?いったい何をどう書いたら女医と母の2人が信じてくれるだろうか?胸を刺されたんだ、と書いたとしても、実際その傷跡は消えてしまっている。どうかんがえても2人を納得させられそうな説明は浮かんでこなかった。結局私は諦めて、[特に何もない]とだけ書いてペンと紙を女医に返した。
女医は先ほどと同じように顎をひいて考える仕草をみせてから母に向かって説明した。「正直にいって原因はわかりません。原因がわからないので、今の段階で治療をすることはできないということになります。ただ、痛みがあるわけでもなさそうですし、話を理解することはできています。やはり一日様子を見てみるしかないかと思います」
わかりました、と母は答えた。
母の答えを確認すると、彼女は私に向かって微笑んだ後で部屋を出て行った。
母は私と一緒に病室に泊まるといったが、私は[一人で大丈夫だから、お母さんは家に帰って休んでいいよ]と伝えた。母は納得しない様子だったけれど、特に文句も言わずに了解してくれた。口の聞けない人間と言い争いをすることはできない。世の中には話せなくて得することもある。
母が帰って私は病室に一人になった。いざ一人になってみると、母がいたことでどれだけ気が紛れていたかが実感できた。もともと簡素な作りの病室が、さらにそっぽをむけてしまったような気がした。でも私には考える時間が必要なのだ。一人でじっくりと、今日自身の身に起こった出来事を検証してみなきゃいけない。私はいくつかの可能性を頭の中で並べてみて、そのなかから最もらしいものをいくつか選んで、母がおいていった紙に書き出してみた。
まず最初に考えておくべきなのは、全ては私の見た幻覚にすぎなかったという可能性だ。私は何らかの健康上の理由で倒れてしまい、その無意識の状態のなかで夢をみたか幻を見ただけかもしれない。
[①全ては夢または幻覚だった]と私は書いた。
実際に誰かが私を襲おうとしてナイフを振り上げた所で私は気を失ってしまったという可能性もある。刺されるという恐怖が私の心に実際に刺されたような記憶を焼き付けたのかもしれない。
[②トラウマティックな体験。(誰かがナイフを振り上げて私を襲おうとした?)]と私は少しだけ隙間を空けて書き足した。
そして最後は、本当に私は誰かにこの胸を突き刺されたという可能性だ。ナイフは実際に私の胸に向かって振り下ろされて、そして私の胸をついた。実際に血は流れていない。そのナイフは私の肉ではなく、何か別の物に突き刺されたのかもしれない。
[③ナイフは私の体ではなく何か別の物を突き刺した。]
突拍子もない話のようにも聞こえるけれど、ひとまず可能性として仮定してみる価値はある。私は病室に一人で横になっているだけで、声がでないから友人と電話で話す訳にもいかない。時間はいくらでもある。
実際に紙に書いたものを読み返してみるとどれも同じくらいにばからしく思えた。現実的かどうかというメジャーで測れば、①がリストの一番上にくるだろう。しかし、私は刺された感触を確かに記憶している。ナイフは間違いなく振り下ろされ突き立てられた。痛みが衝撃波のように胸から体の端へと駆け抜け、それが弾ける。そこで痛みは消える。後はすべてが非現実的な色を帯びて、私は客観的に私が教われた場面を傍観するしかなかった。それはどう考えても、幻覚や夢とは違う種類の現実性を伴って私の中に存在していた。これが本当の出来事でないならば、いったい何が本当だと呼べるだろうか。そう考えると、②の可能性も排除しなければいけない。自分の中に焼き付いているこの感覚を信じるとすれば、私は本当に何らかの形で刺されたんだと考えなければ行けない。
私はもう一度③を読み返してみた。
[③ナイフは私の体ではなく何か別の物を突き刺した。]
そして首を振った。まるでスタートレックの世界だ。昔見たエピソードに思考と現実を同一とみなす種族が登場していた。彼らにとっては考えることこそが力であり、それは現実と同等なのだ。なんていったっけな?そう、たしかトラベラー、旅人と呼ばれていた気がする。私は子供の頃、このエピソードが好きで何回も見ていた。考えが、そのまま直接的に現実的な影響力を生む世界。そんな世界に住めれば、わくわくするような体験ができるのにと子供ながらに考えていた。もちろん、当時はその考えが現実となることはなかった。しかし、今こうやって現実に、現実のルールが適用されない事象に直面すると、やはり私は混乱してしまう。私は思想の中で誰かに刺されたのだろうか?誰かの思想が現実的な力を持ち、行使されたのだろか。
私はもう一度首を振った。
わからない、と私は思った。