私、なくてはならないもの(前)
母が心配そうな顔で私を見下ろしていた。さっきまで肌を刺していた寒さはなく、暖房のきいた空気が私を包んでいた。意識がそこらじゅうに散らばっている。まずはそれらを集めなければいけない。私はできる限り大きく息を吸い込んでからゆっくりと吐き出した。
私は病院のベッドに横になっていた。
「大丈夫?」と様子をうかがっていた母が心配そうに聞いた。
私は微笑もうとしたけれど、上手く口元が動かなかったので、ただ小さく頷いた。私の手を握っていた母の手が震えていた。
「何かあったんじゃないかと思って心配したのよ、本当に。びっくりさせないでちょうだい」
何か声をかけてあげたかたかったけど、上手く声が出てこなかった。
「お医者さんを呼んでくるからちょっと待ってなさい」といって母は病室から出て行った。
母を待つ間、私は何が起こったかを思い出そうとしてみた。頭の中に残っているいくつかの場面が時間軸を縦横無尽に散らばっているような気がした。私は大きく一つ息を吐いた。順を追って思い出してみよう。
結婚式の後で母と夜景を見に行くことにした。助手席で眠ってしまった母を残して一人展望台へ歩いた。展望台はとても寒かった。フェンスに寄りかかって夜景を見ている時に後ろに誰かの気配を感じた。そして・・・ 私ははっとして胸に手を当てた。私は胸を刺されたんだ。
脇の下に冷たい汗が吹き出してきた。
そうだ、誰かが私の胸を刺したんだ。。白く光るナイフがこの私の胸を突き刺したんだ。ナイフが胸に突き刺さる感覚はまだ体に残っている。
でも私の胸に傷跡はなかった。刺された跡は何一つない。刺された場所を指先で撫でてみた。痛みはない。昨日の夜に鏡に打った体と変わりはない。スムーズな20代の肌があるだけだ。私は確かに刺されたはずなのに。私の脳が必死に回転して論理的な説明を探しているのを感じた。でも何かしらの結論が導かれる前に、病室のドアが開き、医者を連れた母が戻ってきた。
「意識が戻ってよかったですね」と医者は言った。30代前半の女医だった。化粧気はないけど、とてもきれいな肌をしていた。どことなくナオコと似た雰囲気がある。きちんと化粧をすれば映えそうな顔立ちをしている。ただ私のタイプとはいえないけれど。
「突然倒れたそうですね。お母様がすぐに気づかれてよかったですよ。幸い転倒時に頭は打っていなかったようですが、この寒い中で長時間気を失っているのは危険ですからね」
〈違う、私は刺されたんだ〉
「とにかく、様子を見るために教一日は入院してもらいます」と女医は言った
〈誰かが私を襲ったんです〉
「一晩見て問題がなければ明日には退院できますよ」
私は必死で状況を説明しようとした。私は刺されたんだ、と叫びたかった。でも声は出てこなかった。音声だけが私の喉で濾過されてしまったように、軽い空気が口から漏れただけだった。お母さん、と叫ぼうとしても結果は同じだった。
私は声を失っていた。