ナオコ、世界の基盤はどこまでも脆いー(後)
あの夜から一週間。ナオコは重い足を家に向かって動かした。今日こそ、何かしらの結論を出さなければいけない。
玄関にはコウの靴がきちんと揃えて並んでいた。彼はキッチンテーブルに両手をのせて座っていた。先週と同じ場所だ。ナオコがそっとドアを開けると、彼は少しだけ口元を緩めて微笑んだ。そして、おかえり、と言った。「今日は早く帰ってきたんだね」
ナオコはうん、と頷いてから言った。「先に洗面所に行ってきてもいいかな?」
「もちろん」とコウは答えた。「どこにも行かないよ」
ナオコは洗面所で手を洗った。そして鏡の中の自分を覗き込んだ。そこに映る自分はひどく不確かな存在だった。10分先の未来さえもわからない一人の女。自分がくださなければいけない決断の答えさえわかっていない女。その一方で早くこのジレンマから開放されたいと望んでいる女。そんな複数の人間が、曖昧に1人の人間として存在している。それもただの一人の人間ではなく、「私」として存在しているのだ。
リビングではコウが同じ場所に座っていた。ただ、テーブルには缶ビールとグラスが2つ置かれていた。ナオコが向かいのイスに座ると、コウは片手でプルタブを引き、グラスにビールを注いだ。心地のよい音が、ことこと、と響いた。こんな時でも、おいしそうな音は変わらない。2人は無言で乾杯をした。
一口で半分程を飲んだグラスにビールを注ぎながら、コウが言った。「わかってると思うけど、今日で一週間だ」そして一杯になったグラスから今度は少しだけ飲んだ。「考えてくれた?」
「考えたよ。すごくたくさん。これでもかってくらいに考え続けた。でも、…
でも、どれだけ考えても答えはでなくて。今日、コウの顔を見て、今日感じた気持ちに正直な決断をしようって思ってた」
「そっか。おれもナオコのことばっかり考えてたよ。今になって俺が出来ることなんてないんだけどさ。すべてはナオコの気持ち次第だから。でも、もっとああしておけばよかったとか、あんなことしなきゃよかったな、とか、そんなことばっかり考えちゃってさ」
うん、とナオコは答えた。
コウは一度深く呼吸をして言った。「で、結論は?」
コウの目は真っ直ぐにナオコを見ていた。その目は不安に溢れていた。ナオコがこれまで一度も見たことのないものだった。そして同時にそこには一抹の希望が隠されていた。ナオコが自分のもとに留まってくれる、という微かな期待をコウは抱いているのだ。ナオコは心が針金で締め付けられているような気がした。私は彼の期待には応えられないのだ。
ナオコは言った。
「私はコウが好きだよ…本当に。もう何年も一緒にいるけど、でもその気持ちは変わってないの。それは信じて欲しい」
「でも」とコウは静かに言った。
「でも・・・」とナオコは続けた。
「でも今、ユウタと顔を合わせなくなるのはどうしても無理。私にはできない。コウと別れることも嫌だよ。もちろん。このままいられたらと思う。でも、どうしてか分からないけど、ユウタに対してどうしようもなく引かれるの。何か物理的な力でも作用してるんじゃないかと思うくらい。こんな気持ちを持ちながら、コウと一緒にいることはやっぱりできないんだと思う。私にはその資格がない。だから…」
「だから」とコウはナオコの言葉をなぞった。
「だから、別れたほうがいいと思う」
「別れたほうがいいと思う」とコウは再び彼女の言葉を繰り返した。彼の脳に、ナオコの言葉を染み入らせるように。
ナオコは黙った。
コウも黙った。
時間が静かに経過した。こんな時でも時間は均等に流れているのだ。平等に、そして不公平に。
「そうか」とコウはしばらくして言った。
きっといろいろな状況を頭の中で繰り返し想像してきたのだろう。彼の声は静かだったし、顔からは激しい感情を読み取ることはできなかった。
「そうか」と彼は繰り返した。
そしてそれから半年後に彼は自殺した。