ナオコ、世界の基盤はどこまでも脆いー(前)
2人はキッチンテーブルに向かい合って座っていた。
ナオコが話し終えてからずいぶん長い間、沈黙が部屋全体を包み込んでいた。コウは下を向いて身動き一つしなかった。彼の表情は見えない。それでも彼が激しく混乱しているのは明らかだった。その感情は空気をつたい、ナオコに届いていた。コウはどんな気持ちでいるのだろう。彼女はできる限りの想像力を働かせて、彼の気持ちを推し量ろうとした。でも無駄だった。自分の気持ちさえわからない私に、コウの気持ちがわかるわけがない。
やがてコウはゆっくりとナオコに顔を向けた。「俺は…それでもナオコを愛してる。すごく悲しくて、すごく傷ついたけど、でもそれでもナオコと一緒にいたい。
だけど、そのためには約束してもらう必要がある。もう、2度とその男には会わないって、約束してもらう必要がある。そしてナオコはその約束を絶対に守らなきゃいけない。もし、もしも、その男からどうしても離れられないなら、そう言ってもらう必要がある。それだけははっきり言って欲しい。俺か、その男か。選んでもらわなきゃいけない」
彼の頬には涙がつたっていた。ひとつ、ふたつ、ときれいな線を残してテーブルに落ちた。ナオコは頷くことしかできなかった。コウに全てを告げてしまうことで、何かが明らかになるかと思っていた。自分を追い込むことで、答えがでるかもしれないと思っていた。それともコウが歩き去ってくれることを期待していたのだろうか?
それすらもわからない。
ナオコは何も答えられなかった。何か言わなくてはいけないと思い、発すべき言葉を思い巡らせてみた。でもそのどれもが彼女の本当の気持ちを伝えてくれそうな言葉ではなかった。私が考えている事と口にする事。そこには何か決定的な差があるように思えた。どんな上手い言葉を並べても、それらしい表現を使っても、それらは、その場に合わせて合成された人工物のようなものでしかないのだろうか?結局は何を言っても私の心をコウに伝えることなんてできないのだろうか?
わからない。
「わからない」と声に出してみた。
コウは同じ姿勢でナオコを見ている。その表情から読み取れるのは悲しみだけだ。裏切りに対する怒りは見えない。私の顔はコウの目にどう映っているんだろう。そんな考えだけが次から次へと心に湧いてくるだけで、肝心の問題に関しては結論がでるような気配すらない。
「…」
コウの声が聞こえた気がしてナオコが聞き返した。
彼は少し間を置いてから言った。
「一週間。
待つよ…一週間だけ待つよ。だからそれまでに、決めてくれ」
ナオコには頷くことしかできなかった。
その日2人は別々に眠った。ナオコはベッドで、コウはソファで寝た。久しぶりに1人で眠るベッドはやけに広く思えた。そして電気を消した寝室はいつもより暗く感じた。ナオコは目を閉じて物音に耳を傾けてみた。でも何も聞こえない。午前2時。時間だけが静かに流れている。すごく泣きたい気分だった。でも涙は出てこなかった。何に対して私は涙を流せばいいのだろうか?2人を愛してしまった自分を恥じてだろうか。それとも、2人に愛された自分の運命を嘆いてだろうか。コウを裏切った事に対してだろうか。
結局は自分の為にしか泣けないのだ。思考がそこまで巡って始めて、ナオコの目には涙が溢れていた。