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僕と私。  作者: なつめ
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僕、真実は立ち位置で決まるものー(中)

「この前はごめんなさい」と彼女は言った。

「大丈夫ですよ」僕は平静を装って答えた。「とにかく今日来てくれてよかった。それにコリーと十分に過ごすこともできました」

 彼女は僕の言ったことに対して何かを考えた様子を見せて、それから言った。「引き取ってもらえますか?」

 僕は彼女の目を覗き込んだ。僕の心はすでに決まっていた。不本意ではあるが、コリーのことを考えると僕が引き取るのが最良だろう。ただペットを売る立場にある僕の職業的使命は、犬たちを深く愛してくれる飼い主を見つけることにある。すこし大袈裟かもしれないけれど。その使命があるからこそ、そこに意義を見出せるからこそ、僕はくる日もくる日も飽きもせずにここに座って、いつやってくるかもわからない飼い主たちを待ち続けることができる。

 僕はしばらくの無言の後で、あらかじめ決めていた質問をした。

「引き受ける前に、どうしても1つだけ聞いておきたいことがあります。どうしてコリーを手放すんですか?この一週間、僕なりに考えてました。僕が見た限り、できれば一緒にいたいと思ってるはずです。それにコリーもあなたになついています。僕みたいなペットショップのオーナーの立場から言わせてもらえば、ここにいる犬たちにあなたのような飼い主を見つけてあげることが僕の仕事です。それなのに僕はその逆のことしようとしてるんです。正当な理由なく、簡単に引き受けることはできません。今のところ、あなたは僕にどんな理由も提示してくれていない」

 彼女はしばらく僕の顔を見ていた。そこから感情を垣間見ることはできなかった。真実を語るべきかを迷っているようにも見えるし、何か言い訳を考えているようにも見える。もしかしたら何も考えていないかも知れない。僕を説得するための作り話はすでに考えてあって、それを切り出すタイミングを推し量っているだけかもしれない。

 僕は続けた。「僕の答えはシンプルです。僕はコリーを引き取ってもいいと考えています。ただし、そこには条件が1つだけあります。あなたは僕にコリーを手放す理由を教える必要があります」

 そこまで言ってしまうと、これ以上話すべき言葉は見つからなかった。店内は深い沈黙に覆われた。冬の空気のように張りつめた静けさの中に、犬たちの静かな呼吸が聞こえる。それは夜中に響く水滴のように、静けさを一層際立たせた。

 彼女は長い間考えた後でとても静かな声で言った。

「私のせいで人が死んでしまいました」

 僕は彼女の説明が作り話である可能性を祈った。



 僕は小さなカウンターの後ろに座っていた。彼女はカウンターをはさんで置いてあるパイプイスに席をとった。僕は彼女と入れ替わるように一旦席を立ち、ドアに閉店サインを下げてから戻ってきた。それから奥の冷蔵庫からアイスコーヒーを出し、グラスに入れて、彼女と僕の前に置いた。そうしている間に少しだけ落ち着いた気になった。僕はさっきよりも少しだけ深く腰掛けた。「あなたのせいで人が死んだっていうのはどういうことですか?」

 彼女の目が天井を見上げた。僕もつられて目を向けたが、そこにはいつもの天井がいつも通りにあるだけだった。

「私にはコウという同い年の恋人がいました。8年間ずっと一緒でした」


 彼女は長い間話した。とても長い間。彼女は、自分が発する言葉と、その合間に生まれる沈黙の重みを推し量るようにゆっくりと話した。僕は、時々小さく相槌を打ち、彼女の話に耳を傾けた。

 彼女には大学以来8年間付き合っていた彼氏がいた。コウという名だ。私達は似たもの同士だったの、と彼女は言った。お互いを必要としていた、と。彼女とコウの出会いは学科対抗のソストボール大会だった。コウは温かい人柄で人望が厚く、自然とそのチームの中心的な役割を担っていたらしい。

「彼は明るくて、裏表のない人でした。気がつくと周りに人が集まっていて、リーダーになっているようなタイプだったんです」と彼女は言った。その言葉は僕に対して語られているが、僕を通り過ぎてどこか遠い場所に向かって話されているように聞こえた。それもかなり遠い場所に向かって。

 2人は自然と惹かれあい恋に落ちた。彼女はコウといるとそれまでなかったくらいに安らぐことができた。それは彼女が経験したことのない類の感情だった。彼女はいつも誰かに頼られて生きてきたからだ。いつも誰かが彼女に相談を持ちかけた。人生を決めてしまうような大きな相談から、恋人の浮気に関する相談までその種類は様々だった。友人たちはそのような相談を抱えて彼女の元へやってきた。彼女は人生の割と早い段階から自分のその役割に気付いていた。そう、最初は小学校の時だった。名前は忘れてしまったが、同級生の女の子から恋の悩みを相談されたのが始まりだった。それ以来、彼女にはとても多くの相談が投げかけられた。

「でも勘違いしないで下さい。別にそれが嫌だったわけじゃないんです。みんなが私に相談にくることを嬉しく思ったこともあります。だって誰かに頼りにされるっていうのは、とても幸せなことですよね」と彼女は言った。

 僕は小さく頷いた。

「だから私も、それがどんな些細な相談であれ真剣に答えてあげました。私の友達にとって私は頼れる存在だったんです。でもコウと一緒にいると私はそのプレッシャーから開放されました。私たちが一緒にいると、みんなは私じゃなくコウを頼るんです。最初はどうして彼と一緒にいることが、これほどまでの安らぎを与えてくれるのかって不思議に思っていました。ただ漠然とした安心感に包まれている気がしていただけでした。でもしばらくしてわかったんです。それまでどのくらい誰かに頼られることが自分のプレッシャーになっていたかが」

 彼女は口元に小さな笑みを作っていった。「別に自慢しようとしているわけじゃないんです。ただ事実としていつもそんな役割だったんです」

ええ、と僕は同意した。

「楽しい大学生活でした。付き合い始めて2年後に私たちは同棲を始めたんです。3年生の9月だったわ。私たちは将来についても話しました。どちらから言い始めたかは覚えていないけど。でもごく自然に、当たり前のように私たちは結婚するものだと思っていたんです。それはコウも同じでした。いつぐらいに結婚しようかとか、子供は何人つくろうかとかそんな会話を2人でよくしました。将来を考えているカップルなら誰もがするようなありふれたものだけど、でもそういう話をしていると本当に幸せな気持ちになることができたんです。大学を卒業してすぐに結婚することも考えました。でも結局は結婚資金をためてから、子供の養育費をためてから結婚しようってことになりました。そういう意味では現実的だったんです、コウも私も。

 彼が就職したのはコンサルティング会社でした。外資系の。人受けがいい性格だからどんな会社に行ってもうまくやれていたはずですけど、彼が選んだ会社は彼にぴったりでした。あっていたんですね。とてもオープンな会社でした。それに実力主義でもありました。1年目だからって見くびられたりすることはなくて、筋道の通った提案をすれば、それがどんな大きなプロジェクトに関することでも意見を採用してもらえるって言って喜んでました。私にはそれがうらやましくて。ほら、私は業務でしたから。いくら海外業務って言っても、私の意見なんて必要とされていないんです。私に求められてるのは、黙々と納期なり金額なりを画面に打ち込むことだけだから」彼女は店内で息を潜めるようにじっとしている犬に静かに目線を落とした。そして付け加えるように言った。「会社で働いたことはあります?」

 ある、と僕は簡潔に答えた。

 それからしばらく迷った後、従業員が50人程度の小さな会社で営業をやっていたことを彼女に教えた。「つまらない仕事でした。ネジを作ってる会社だったんです。毎日得意先の会社を回ってネジをもっと買ってくれるよう頼むんです。2年働きました。でも何だか虚しくなって辞めたんです。はっきり言ってネジなんてどうでもよかったんですよ。興味なんてありませんでした。どれだけ一生懸命に商品を説明してみても、自分にはいまいちピンとこないんです。わかります?それなのに朝早くから満員電車に詰め込まれて運ばれるように会社に行って、夜遅くまで働いて、夜は上司や社長に付き合わされるなんて馬鹿らしくて、本当に」

 そう、本当に馬鹿らしかった。

「気持ちはわかります。私も同じだから…」彼女は声を落として言った。

僕は、ええ、とだけ答えた。そして黙った。彼女も黙った。僕はそれ以上自分の身の上話を続けるつもりはなかった。

「それで、いったい何があったんですか?」

 彼女はタンポポの綿毛を飛ばすように息をはいた。「私とコウは社会人になってからも上手くやっていました。もちろん学生の時よりも時間的な制限は多いし、仕事上の付き合いも増えたせいで合う時間は減りました。でも幸い2人とも土日が休みだったんです。お金に余裕もできたし。だからその分思いっきり土日を楽しんだの。そんな生活が5年続きました。でも…」

「でも」僕は彼女の言葉を繰り返した。

「でも、…」

 彼女の視線は未だにコリーに置かれていた。何かを見ているの訳ではない。その視線には目的は感じられなかった。ただ、視線の置き場としての対象を探しているにすぎないのだろう。彼女は無言でコリーを見ていた。彼女の唾を飲み込む音が聞こえそうなくらいに店内は静まり返っていた。犬の呼吸。彼女の唾をのむ音。僕の呼吸音。まるで映画の効果音じゃないか。

「でも、それが永遠に続くことはありませんでした」と彼女は言った。自分に言い聞かせるような口調だった。「もしかしたら何かがあって別れることがあるかもしれないって思ったことはあります。そんなの当たり前だから。恋愛に別れはつきものですよね。私もそこまでナイーブじゃありません。

そして私とコウの終わりはちゃんとやってきたんです」

 僕は依然として彼女の話の着地点が見えていなかったが、小さく頷いて話の続きを促した。僕は聞くしかない、少なくとも今のところは。それだけが僕に与えられた選択肢なのだ。そう心の中で考えると、思わず口元が緩んでしまった。まるで、どこかで読んだハードボイルド小説の一節じゃないか、と僕は思った。それだけが僕に与えられた選択肢なのだ。僕に選択の余地はないのだ。

「私は他の人を好きになってしまったんです。コウ以外の男性を。その気持ちはあまりに唐突にやってきて、そして理不尽なまでに強力でした。それまで感じたどの感情をも凌駕するくらいの勢いで、私の心を押し流してしまったんです。

 その男性に会ったのは、ちょうど今から1年前のことでした。会社の先輩に誘われて飲み会に参加する機会があったんですが、そこにいたのが彼でした。彼はコウとは全く違った雰囲気の男性でした。デリケートな印象って言えばいいのか…繊細な感じがする人だったんです。そしてとても美しい顔つきをしていました。ただ格好いいっていう感じじゃないんです。女性的な美しさのようなものがあったんです。

 とにかく、私は一目で彼に恋をしてしまいました。性格がどうとか考えている余裕すらないほどに、私は彼に惹かれていたんです。今から思うと、どうしてあそこまで強く惹かれたのかわかりません。でも、その時の私にとって、その力は絶対的でした。それに、とても自然なことに思えたんです。まるで重力を受け入れるような心境でした。あって当たり前のもの。存在して当然の力。そんな感じです。ごめんなさい、曖昧な説明で。でもとにかく、私は彼に恋をしてしまったんです。それも絶望的なまでに強く」

 彼女は自分の気持ちを確認するように頷いて見せた。

「私は自分の気持ちを抑えておくことができませんでした。そんなのは絶対に無理だったわ。彼も同じ気持ちだった。始めてあった飲み会の途中から、私は彼が欲しくてたまらなかったの。自分でも信じられないけど、ほんとうに。そしてその夜に私は彼と寝ました。とても当たり前のようにホテルに行って、何度もしたわ」

 彼女は完全に自分の世界に入っているようだった。彼女の言葉はもはや完全に僕に向けられたものではなくなっていた。それはもっと内向的で、耳を閉ざしたいほどに個人的だった。それを目の前の彼女は恥じる様子もなく淡々と語り続けている。僕は思った。


彼女はこの話をするためにここにきたのだ 。

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